第9話

 百も口裂け女も、完全に硬直していた。

 ブスだ、キレイだというパターンなら百は知っていた。というより、それしか知らなかった。それなりに口裂け女と話した内容と結果なら知っているつもりでもあったが、目の前の口裂け女に罵詈雑言を笑顔で飛ばし、最後にウインクまでするような輩など、一度だって聞いた経験はない。

 ターボがウインクと白い歯を見せた笑顔を崩さない中、口裂け女はゆっくりと、マスクを外した。その下にあったのは、やはり、耳元まで裂けた大きな口。

 綺麗だ、と彼女に言ったなら、彼女は即座にマスクを外し、美に対する再確認を取ってから襲う。都市伝説通りの動きを見て、やはり、と百は確信した。


 百の予想通り、彼女は、本物の口裂け女だった。だとすれば、ターボの発言はもう冗談では済まされない。キレイだと言えばもう少しは猶予が与えられただろうが、ブスと言えば確実に殺される。ほぼ間違いなく、ノータイムで殺される。

 だというのに、ターボの言葉のマシンガンは容赦がない。口裂け女がポケットの中身をごそごそと漁っている間にも話し続けるのだ。


「いや、余計にブスになってるじゃん。なんだよその口、そんなの見せてやっぱりキレイですって言ってもらえると思ったの?」


「……う」


「もうお面被ろう、その方がいいよ。近くの百貨店でひょっとこのお面売ってるの見たからさ、そっち被ってる方がよっぽど美人だって! な、そうしよ? そんなバカみたいに口開けてる暇あったら買いに行こ? なんなら百貨店まで連れてってあげよっか?」


「うう、ううう」


 ここでようやく、ターボのマシンガンは弾丸のストックを撃ち終えた。

 ターボの顔は爽やかで、フルマラソンを走り終えた後のような達成感に満ちていた。その一方で、百の顔は焦りを通り越し、呆れたような表情になっていた。

 そして散々暴言を撃ち込まれた口裂け女は、今や少しだけ俯き、わなわなと震えていた。口裂け女でなくとも、一般女性であれば手にした鞄を相手に百回は叩きつけかねない言葉の雨霰が降り注いだのだから、仕方がない。

 あまりに当然のように流れた一連の行動を見て、百は若干、どういうわけか落ち着いていた。ターボに対して普通に話しかけられるくらいには心が平静に保てていた百は、ターボの肩に手をかけて、言った。


「あの、言い過ぎだと思うんだけど。口裂け女さん、絶対キレてるよ」


「そりゃまあ、怒らせる為に言ったからね。でも、ちょっとやりすぎたかな?」


「ちょっとどころじゃないよ、どうするのさ! 口裂け女にブスって言えば殺されるんだ、知ってるだろ! それに」


 そこから先は、言えなかった。


「あう、あ、ううああううううおおおお――ッ!!」


 獅子も怖れ戦くほどの勢いで、鋏を振りかざした口裂け女が叫んだからだ。

 目も半分どころか、瞳孔が覚醒しているのかと錯覚してしまうほど大きくなり、口はマスクの代わりに顔の半分を覆い尽くすほど大きく開いている。全身の震えは地を揺らしているのかと思うほどで、サバンナで怒り狂った獣と遭遇すれば、こんな状況か。

 耳を劈くほどの咆哮だったのに、誰かが来る様子も、誰かの声も聞こえなかった。都市伝説の力か、それとも本当に周囲に誰もいないのか、いずれにしても、助けは期待出来ないし、そもそも一般人が来たところで何が出来るだろうか。

 百は怯えて失禁も、その場にへたり込みもしなかったが、逃げ切れる気もしなかった。彼がぼそっとターボに告げたのは、諦めからくる、彼女の情報だった。


「……時速百キロ以上の速度で走るんだ。逃げきれっこない」


 きっと、自分もターボも、死を待つだけだ。

 そう思っていたのに、ターボは笑っていた。眼前に立ちはだかる生命の危機など全く見えていないか、そんなものは彼の人生において、大きな脅威でも何でもないかのように、笑っていた。

 その様子を見て驚く百の左手をいきなり掴んで、ターボは言った。


「さーて、煽るだけ煽ったらさっさと逃げようか、語部クン! ちょっと酔うかもしれないけど、そこは耐えてね!」


 そして、彼は百の体をひょいと持ち上げて、抱きかかえた。お姫様がハンサムな王子様にされる例のあれをよりによって自分がされてしまい、羞恥だか困惑だか理解出来ない百は、それこそさっきよりもずっと慌てた様子でターボに伝えようとする。


「ちょ、ちょっと、何してるんだよ! 助かる方法ならある、『あの言葉』を――」


 が、もう遅かった。

 ターボの体がほんの少しだけ屈み、口裂け女が動くよりも早く、そして。


「鬼さんこちら、追いつけるもんならね――――ッ!」


 瞬間、百は風景の方が動いたのかと思った。

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