第7話

 気のせいかと思った。額の感触が、そうでないと言った。

 額がぶつかって、ようやく百は、自分が色々な感情に囚われていて、どこに向かって歩いているのかも分からないような状態になっていたのに気づいた。

 人にぶつかったのは間違いない。百は人と話すのは得意ではなかったが、自分からぶつかっておいて謝らないほど、性格が悪いわけではなかった。だから、とっさに頭を上げて、相手の顔を見ながら謝ることにした。


「おっと、あ、すいません」


 そして、彼は気づいた。

 相手は自分に向けて、背を向けている。そう気づいたのは、こちらに顔が向いていないのと、百の視線の先にあったのが背中と、長い髪だったからだ。

 ただ、そうはいっても、自分より高い背と、その腰を過ぎてなお長い髪くらいなら、町中探せば見つかる特徴に過ぎない。ぶつかった相手に謝って、向こうが何かしらの対応をして、おしまい。ただのそれだけだ。


 その異形さに百が気づくのは、直ぐだった。

 百の謝罪が聞こえたのか、女性が振り返った。

 百の視線に最も早く入ってきたのは、陰気な雰囲気を漂わせる顔の半分を覆い隠す、白いマスク。目元だけを見れば奥二重で、細いものの綺麗な瞳なのに、そこを誉める気になれないのは、マスクから覗き見える、口の端らしき何か。

 黒く長くしっとりとした髪。茶色のブーツまで隠すカーキ色のコート。両手に嵌められた黒い川の手袋。やや猫背だというのに、目測だけで一八〇センチはある身長。

 この特徴に、百は見覚えも、聞き覚えもあった。


「……あの、貴女、もしかして」


 有名になる前から、ずっと。

 百が『趣味』を持ち始めてからずっと、その存在を知っていた。

 だからこそ、その名前を呼ぶのに、抵抗はなかった。


「口裂け女、ですか」


 口裂け女。

 そう呼ばれて、初めて彼女は、百の目を見た。明らかに人のそれではない目と目が合った瞬間、背筋をひやりと、冷たい何かが通り過ぎた。

 ただ、怖れはなかった。彼が思うところの一般人であれば、ぎゃあぎゃあと散々喚いた挙句逃げ回る、または泡を吹いて気絶するのだろうが、百はそうではなかった。双方が生み出す沈黙にも、不思議と慣れたような態度だった。

 暫くお互いが黙ってから、口を先に開いたのは、推定口裂け女。


「――――キレイ?」


 何と言ったか、マスクのせいか、一度では聞き取れなかった。

 百には、何と言おうとしているのかは分かっていたが、あえて黙っていた。その方が安全だと知っていたし、対策を練る時間が欲しかったのだ。

 その真意を知ってか否か、口裂け女らしい女は、もう一度聞いた。


「『私、キレイ』?」


 間違いない。この女は、口裂け女か、口裂け女のコスプレイヤーだ。

 どちらにしても、危険なのには変わりない。前者なら返答を間違えれば死ぬ。後者なら、何をしようとも殺される。ある意味では、対応を間違えずとも殺される可能性がある、コスプレイヤーの方が危険だ。

 ただ、百には、眼前のそれが本物であるとの確信の方が強かった。

 周囲の静けさ、薄暗さ。いつも自分が知る道とは違う道、伊佐貫市内とは思えない異様さ。それらすべてが都市伝説の醸し出す雰囲気の為せる業だとするならば、なるほど、納得は出来る。そうでなければ、納得もしづらい。


「(どこだろ、ここ。人の姿がちっともないし、来た覚えもないし。とりあえず)」


 とりあえず、相手は返答待ちだ。百はゆっくり、口を動かした。


「口裂け女の情報から統計して、無言だと殺される確率が高いので返答します。けど、先に言っておきますけど、僕は『あの言葉』以外を言います。いいですか?」

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