第6話
すっかり授業も、ホームルームも終わり、陽も暮れそうな夕方。
下駄箱で運動靴に履き替えた百は、今日もいつも通り、一人で下校していた。
結局、午後の授業中、ターボ含めた三人を一度も見かけなかった。教室でも、廊下でも、トイレでも、どこでも見かけなかった。百からすれば、探すつもりもなかったし、改めて目の前に現れられても、何を話すべきか迷っただろうし、その方が、都合が良かった。
運動系の部活に所属していない彼は、放課後まで残って学校で何かをしているということは滅多にない。教室の中で他の生徒と談笑など、もっとあり得ない。授業が終わったからどこかのフードコートに行った経験など、一度もない。
だから彼の、下足室を出てから歩く道は、いつも決まっていた。これまで寄り道をしたことはなかったし、きっとこれからもしないだろう。
そんな彼の耳に入ってくるのは、近頃この伊佐貫市で流行っている、ある噂だ。
「ねえねえ知ってる? 『口裂け女』の噂!」
『口裂け女』。日本人の多くが知っているはずの、都市伝説。
ただし、今のご時世――二〇一九年においては、すっかり昔の話である。妖怪を題材にしたライトノベルや、ゲームアプリ程度でしか、その存在は知られていない。
「それくらい知ってるわよ、キレイかどーか聞いてきて、ブスっていったら鋏で襲ってくる女のことでしょ? 先月からずっと話題になってるじゃない。遅れてるわよ」
ところが、今の伊佐貫市では、タイムリーな話題だ。四月に入ってから、この話題を知らない輩は、伊佐貫市ではモグリ扱いされるくらい、誰だって知っている。
「違うのよ、昨日、月の宮高校の一年生が、キレイって言っても襲われたんだって!」
「マジで! どっちを言っても襲われるって、マジヤバくない?」
「そうそう、それにB組の竹内さんがさ、丘の上にある空き家に口裂け女が入っていくのを見たって……」
どの噂が正しく、どの噂が作りものなのか、もはや判別する手段は存在しない。
こうなったと言えばそうなったのだし、こうされたと言いふらせばそうされる。恐らく、何かしらの対応を教育機関がしない限り、噂は無尽蔵に増え続ける。
都市伝説の増殖は、いつもこうだ。無責任な会話から始まり、嘘を経て巨大な逸話となる。その代償は人々の過剰な恐怖。大体の場合、話は唐突に終わる。理由は決まって、言論統制か、長期休暇に伴う子供達の噂の消失だ。
「D組の阿佐ヶ谷くん、口裂け女に追いかけられたけど逃げ切ったって……」
「そんなの嘘に決まってんでしょ、でも昨日聞いた話だとね……」
しかし、気味が悪いほど、どこもかしこも、その話ばかりだ。
百からすれば大して気にするような話ではなかったが、今日ばかりは違った。
「(どこもかしこも口裂け女の話題ばっかりだな。昼の車椅子の子も、僕じゃなくて彼女らに聞けばいいのに。そうしたら喜んで話してくれるだろうに)」
嫌なのは、話を聞く度に、昼間の三人を思い出すのだ。
自分に鬱陶しいほど関わってこようとする三人の存在は、百からすれば厄介極まりなかったのに、どうしても心の中から消し去れなかったのだ。まるで、自分が本心ではそれを求めていたのではないかと錯覚させるように。
そんな、ありえない感情を吹っ切るように、百は俯き気味に、足早に歩く。
噂話が、風に乗って霧散してゆく。その感情や感覚をどこかに置いていくのに夢中になっているのか、百はいつもと違う道を歩いているのに気づかない。いつも使っている自宅の方角に最も短く帰る道のことなど、すっかり忘れている。
だから、彼は気づかない。無意識のうちに入っていく道が、薄暗く、陽もあまり当たらないような道だということに。
だから、彼は気づかない。噂話が聞こえなくなっていくどころか、人が誰もいなくなっていることに。両端を塀で塞がれたその道を歩いているのがただ一人になっているが、当然気づきはしない。ただ、もやもやした、鬱屈した感情のみを携えて、彼は歩く。
頭上で、烏が鳴いている。陽はそれほど傾いていないのに、塀のせいか辺りは一層と薄暗くなっている。早く気づけばいいのに、まだ気づかない。
きっと、何かの変化が、彼の体に起きるまで、気づかない。
「(だいたいどこで知ったんだよ。僕の『趣味』について誰にも話したことも、見せたこともないのに、見せたくなんてもっとないのに――)」
心の中でぶつぶつと文句を呟いていた時。
明日、もし彼らの顔を見てしまったらどうしようかと思って。
これからのこと、先のことを考えていて。
こつん、と誰かにぶつかった。
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