幕間
その一――Sickness Lady
黒く染まった輝石のカケラを拾い上げ、ゼータは深く息を吐いた。野生の獣を相手にするのとは違う、異様な雰囲気を備えたモノを相手取った緊張感から解放されて、大鎌の柄を肩に担いで背を反らす。
「ゼータ」
投げ出された外套を抱えたタウが駆け寄って、ほっとしたように笑った。暗い地下の広間にうわん、と響いた呼ぶ声に、振り返りながらゼータは手の中のカケラを差し出す。
「ほら」
「はい、……大丈夫、そうですね」
カケラの表面を縦横に走る白い線を指でなぞってタウは頷いた。その横でゼータが両手に構えた大鎌をひゅん、と回すと、確かに金属めいた質感だったはずのそれが輪郭を宙に溶かした。持ち手に細工めいて埋め込まれていた六角形の輝石だけが残り、そこに金の部品が改めて形作られるのを待ってゼータは浮かぶそれを手に取る。
「袋……はこっちだったか」
ウエストポーチに畳んで仕舞っていた六芒星――聖印の刺繍された袋にカケラを収め、タウに預けていたバックパックに放り込む。そのバックパックを片方の肩に引っかけ、外套を受け取って小脇に抱えたゼータは広間の入り口に目をやった。
先程までタウと共に隠れていた若い学者は、ゼータにつられたタウの視線にも気がついて広間に足を踏み入れた。
「いや、まさかあんな得体の知れないものが潜んでたなんてなぁ」
群青の髪に長袖の軽装、巨大なバックパックを背負った学者が興奮半分恐怖半分の表情で呟く。彼は調査先であるこの祠から妙な物音がする、と神殿に申し立てた本人だった。丁度カケラの追跡中だったタウの予想が当たり、双方の目的がこれで達成されたことになる。
「この件に関しては、もう心配いらないと思います」
「助かりました、神官様。護衛官の方も」
述べられた礼の言葉にぞんざいに頷いて、ゼータは広間の出口へ足を向けた。
「用は済んだし、俺たちは引き上げようぜ」
「え、っと」
すたすたと遠ざかる背中と学者の顔とをおろおろ見る、そんなタウに学者は溌剌と笑った。
「危なくないなら、僕はここで調査の続きをさせてもらいますよ。神官様」
「……分かりました、お気を付けて」
短く祈りの言葉を別れに添えて、タウはぱたぱたとゼータを追った。簡易的に取り付けられた松明が照らす廊下に反響する足音に、ゼータは少しだけスピードを緩める。
「待、って、……くださいよ」
「ほんとお前体力ねえな」
息を切らして隣に並んだタウを呆れた目で見て、ゼータは角を曲がった。さほど入り組んではいないが天井の低さが狭苦しく、遭遇したのが吹き抜けの広間でよかったとゼータは着け直したイヤリングに手をやった。
ふう、と息を吐き眼鏡の位置を直したタウがふと呟く。
「……上手くいってよかったです」
「あの先生がそれでいい、っつったんだろ」
目の前にいたなら言わないだろう台詞をさらりと言ったゼータを、少しだけ高い目線からタウは見た。
「ゼータも、大丈夫でしたか」
「まあな」
緑の瞳は遠くに見えはじめた出口を捉えるのに忙しく、隣の物憂げな顔に気づくことは無かった。苔むした石の階段を注意を払って登り、アーチを潜れば。
「……っはー、やっぱ空気淀んでんだなあの中」
淡く暮れ始めた空と、遠くに沈もうとする太陽を映して眩く輝く湖面が出迎えた。水聖霊を祀る故か周囲を湖に取り囲まれた小島には、かつて祠と共に作られたのだろう橋が所々補修されて渡されていた。最も陸地に近い部分を選んだと思しき橋はさほど長くない。
手すりこそないが横幅は広く安定したその橋に足をかけ、ゼータは難なく渡っていく。続いたタウが橋を渡り切る寸前、足場の板の隙間にブーツの爪先が引っかかった。
「わっ」
真後ろの悲鳴に、結んだ長い髪を振り回してゼータが振り返る。その視界にバランスを崩したタウが映り、
「――っぶ、ねぇ!」
咄嗟に伸ばした手が神官服を纏った腕を掴んだ。けれどその拍子に崩れた体勢では支え切れないと直感的に悟りゼータは舌を打つ。と、伸びた腕に別の重みが掛かった。それに気がつき、ゼータは片手でタウの体を振り回さんと動かす。
タウの傾いだ視界には、回る背景と歯を食い縛るゼータの顔、そしてゼータの肩から滑り落ちたバックパックが近づいてくる光景があった。繋がった手からバックパックという重りが移動したのを見届け、タウと位置を入れ替えたゼータは手を離した。
投げ出されたタウが地面に落ちた外套に尻餅を着く。その目の前で、派手な水柱が立った。
「体調崩れてますよね」
「……大丈夫、だっつってんだろ」
使い込まれた椅子に座ってそっぽを向いたゼータに、タウは困り顔で溜め息を吐いた。緩く髪を纏めて着替えた護衛官の頬が赤いのは、今入ってきた湯の温度のみが原因ではないだろう。
陸に近い浅瀬だったとはいえ全身ずぶ濡れになった上に、日が暮れた後の冷えた気温に晒された。タウが聖霊術を応用し乾かそうと試みたものの、水聖霊と縁深いからか熱をコントロールする術がさほど効力を発揮出来なかったのも不運だったと言える。結局出来るだけ水気を絞って急いで帰ってきたものの、どうにも手遅れだった。
「意地張らないでください」
隣に立ったタウがゼータの額に手を伸ばす。ヘアバンドを外した白い素肌は明らかに熱く、神官はますます眉尻を下げた。その手を力無く押し退け、がたりとゼータは椅子を鳴らす。
「いちいち、大袈裟なんだよお前はよ……」
言いながらも、立ち上がった途端にふらり体がぐらついた。慌てて支えるタウから眼鏡越しに寄越された視線に、ゼータはようやく諦めた表情を浮かべた。
「あー……、ったく、分かったよ。大人しく寝てりゃいいんだろ」
聖印が付いたコートの胸元を押し、離れたゼータがのそのそとベッドに潜り込む。ほっとした顔で見守っていたタウはやおらコートを脱いで椅子の背にかけ、踵を返しながら声をかけた。
「僕、台所借りてきます。何か食べやすいもの用意しますから、それまで寝ててくださいね」
「わーったよ」
弱々しい声に送られて、床の上をひそやかに足音が遠ざかる。扉が軋んで、閉まる音まで聞き届けてからゼータは布団をたぐり寄せた。
「……へーき、だって、言ってんのに」
埋めた口元でそれだけ呟いて、瞼が閉じられればほどなく小さな寝息だけが残った。
肩を揺すられ、億劫そうな呻き声と共に新芽色の頭が白い毛布の奥に逃げる。
「ゼータ」
もう一度、今度は呼ぶ声も伴って起床を促され、もそりと眠たげな目が現れた。一連の様子を微笑ましげに見ていた、部屋着代わりのシャツ姿のタウは言葉を続ける。
「ご飯持ってきましたよ。食べられそうですか?」
「……食う……」
低く掠れた声の後にひとつ、げほ、と咳き込んだ。それでもゆっくりとした動作で起き上がるゼータを支え、タウは背に枕を添えて寄りかかるよう促した。背中を預けて息を吐いたゼータは見るからに怠そうで、いかにも病人といった様子だ。
ベッドの横に椅子を運んできたタウは、水差しから注いだ水をゼータに渡し腰を下ろした。空になったグラスをベッドサイドの小さなテーブルに戻し、階下から運んできたお盆の上に手を伸ばす。
「リゾットにしたんですけど」
乗っていた小鍋の蓋を開けると、ふわりと湯気が上がった。中にあったのは溶けたチーズのかかったトマトリゾットで、米以外に細かく切られた人参や玉葱も煮込まれていた。それを小さな椀に大きな匙で取り分けたところで、ぐぅとゼータの腹が鳴った。
「熱いですから、気をつけてくださいね」
くすくすと笑みを零し、小さなスプーンとお椀とをもうひとつのお盆に載せてタウはゼータの前に設えた。
「分かってんだよ。……あんがと」
口を引き結んだ仏頂面からそれだけぼそぼそ呟き落として、ゼータは食前の祈りを捧げた。小さなスプーンに少しだけ掬い取ったリゾットを吹き冷まし、口に運ぶ。途端表情が緩んだことに安心して、タウは自分の夕食である手作りのライスボールとサラダとに手をつけた。
「……おい」
呼ばれてタウが顔を向けると、ゼータが空の器を突きつけていた。ふわりと笑ったタウがよそったお代わりのリゾットを受け取ると、俯いてもごもご礼を返しまたスプーンを動かす。そのやりとりが止まったのは、小鍋が空になった時だった。
「全部食べられましたね」
「だからお前が大袈裟なんだよ」
お椀やスプーンを片付けるタウに、水を飲んでいたゼータが呆れてみせた。テーブル代わりに使っていたお盆が布団の上から退いた途端に横になろうとした彼女を、
「あ、ゼータ」
呼び止めたタウは、荷物から木製のケースを取り出した。見覚えのあるそれに、ゼータがうげ、と嫌そうに呻く。
「はいこれ、青いのですね」
箱の中にはいくつかの薬包紙が綺麗に並べて入れられていた。その中から青の紙で包まれたものをひとつ取り出し、注いだ水と並べてベッドサイドに置く。代わりにまとめた食器類の載ったお盆を持ち、タウは立ち上がった。
「これ返してきますから、ちゃんと飲んでくださいね」
「おい」
呼び止める声にはあえて応えず、部屋を後にした金髪の背中。それを睨んだところでどうなるわけではない、というのはゼータも自覚していた。
神殿の敷地内にある畑で育った薬草を、干してすり潰し調合した薬。ふたりが居た神殿が人里離れた場所にあったこともあり、世話になったことも何度もある。同時に、効果を優先され飲みやすさは考慮されていない、ということも。
「うー……」
折角、と口にぼんやり残った後味を惜しみながら、渋々ゼータは薬包紙を手に取った。青色の薄い紙を慎重に開くと、ふたつまみ程度の粉が小さな山になっている。
片手に持ったグラスの水で無理やりそれを飲み下し、涙目で唸るゼータの耳に扉の軋む音が届いた。
「……飲んだからな」
ベッドの上の病人から開いた薬包紙を突きつけられ、戻ってきたタウは微笑んで頷いた。ぱたりと扉を閉め近寄ったタウは、小脇に本を抱えたままマグカップをテーブルに置いた。そこからふわり香った甘い匂いに、ゼータがカップを覗き込む。
「これ」
「ご褒美、ということで」
タウの指がくるくるとスプーンを回し、茶褐色の表面が掻き回される。湯気を立てるホットチョコレートのカップをそっと取り上げて、ゼータは一口啜った。
「うま……」
しみじみと言う横顔を、温もりを宿し琥珀に変じた瞳でタウは見ていた。しかし当人は気づく気配もなくちびちびとホットチョコレートを飲み、幸せそうに微笑んでいる。中身が半分ほど減ったところでようやく立ちっぱなしのタウに気がついて、ゼータはその顔を見上げて怪訝そうに首を傾げた。
「何突っ立ってんだお前」
「……ああ、すみません」
今日の部屋は二人部屋だった。自分のベッドに目をやって、しかしタウはもう一度椅子に腰を下ろす。
「さっさと寝とけよ」
眠っていたゼータには今の正確な時刻は分からないが、宿に着いた時点で既に夜を迎えていた。おそらくは夜中近いのだろうと顔をしかめたゼータに、苦笑してタウは持っていた絵本を見せた。
「これ、懐かしいでしょう」
それは神殿の書庫にもあった絵本だった。聖人記、と振り仮名の付けられた題名と、白い鎧の騎士、青いローブに赤銅色の髪の乙女が描かれた表紙は確かに見覚えがある、とカップに口を付けたままゼータは目線で話を促した。
「宿のお子さんが昔読んでいたものだそうで、カウンターに置いてあったんです」
「へぇ」
真っ直ぐな緑の視線から手元の絵本に目線を逃がし、タウは表紙を撫でる。
「それに、……今の僕たちには縁が深いから」
タウの目は騎士を見つめていた。笑っているのに物悲しげなタウを無言で見て、ゼータはカップを煽る。
「……その」
声を出してから、内容を探すように目線を彷徨わせた。
「懐かしい、よな」
あまりに不器用な物言いに、タウは自然と顔を綻ばせた。
「そうですね」
布団に逃げ込んだゼータの、おそらく頭がある辺りを撫で。タウは絵本を丁寧な手つきで開くと、かつて読み聞かせられたときのように読み上げた。
「むかし、むかし」
神さまはこの世界に、おおいなる災いが迫っているとお告げになられました。
それを聞いたひとびとは恐れ嘆いて、神さまと聖霊さまに祈りました。その祈りを聞き届けた神さまは、ひとびとに災いを退ける力をもたらしました。
その力を受け取った聖女ヴィアレスタと、彼女を守る騎士クライスムート。ふたりは数々の困難を乗り越えて、見事世界を救ったのです。
そしてそのふたりは今も聖人として、神さま聖霊さまと共にこの世界を見守ってくださっているのです。
穏やかな声が止んで、安らかな寝息が残る。絵本を閉じたタウは欠伸をひとつして、空のマグカップの持ち手を取った。
借りたものを返しに行こう、と静かに立ち上がる。しかし歩き出す前にベッドを見下ろして。
「おやすみなさい」
優しい囁きを落として、今度こそ足音を潜め歩いた。
翌朝。
宿の近所にある食堂で、ゼータはサンドウィッチとスープの朝食を元気そうに口に運んでいた。
「悪化しなくてよかったです」
「騒ぎすぎなんだよ」
空にしたスープカップをテーブルに置き、お代わりを頼んでからゼータは分厚いサンドウィッチにかぶりつく。トーストを囓るタウはそんなゼータをにこにこと見ていた。
「そういやお前は大丈夫なんだろうな?」
ミルク入りの珈琲をかき回したスプーンで、ゼータはタウを指した。行儀が悪いですよとそれを下げさせながら、安心させようと神官は笑う。
「僕は平気で、っけほ」
反射的に口元を押さえて目を逸らした相手に、ゼータはじと目のまま溜め息を吐いた。
「もう一泊だな」
「すみません……」
申し訳ない、と表情に書かれたタウに、珈琲を傾けてがりがりと頭を掻く。
「お前だってくたびれてんだろ、体力ねぇし。今更なんだよ」
そのぞんざいな口振りに、しかしタウはどこか嬉しそうに目元を緩ませる。理解出来ないと言いたげな表情に構わずくすくすと笑って、また小さく咳き込んでタウは睨まれた。
「分かりました、ちゃんと休みます」
「そうしろ。飯は適当に頼んどくぞ」
タウのように台所を借りて食べやすいものを、などといったことが出来ないのは本人もタウもよく知っていた。とんぼ返りした宿の主に今度はそっちか、と笑われはしたが、親切な対応の元本来の予定よりも滞在は二日延びた。
その後、旅に慣れるまで無理は禁物と慎重に進んだこともあって、当初の予定より旅程は延びることとなった。目的地に近いからと立ち寄る予定の宿への到着も、また。
続――第五の月
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