第十二の月――片割れの神官

 へたり込みそうになる脚を叱咤して、木の幹に手をついて体を運ぶ助けにする。前を行く背中が長旅の備えを背負ってくれているというのに、僕がへこたれるわけにはいかなかった。

以前に入った森よりもひとの手の入っていない、辛うじて獣道があるくらいの道のりだ。街で調達した分厚い革手袋は、荒れた草や木の枝をかき分けるのにとても役に立った。

「タウ」

 前からの呼びかけに、どこか既視感を覚えながら顔を上げた。僕の前を歩いて、ベルトの裏にしまっていたというナイフで生い茂った藪を切って進んでいたゼータが振り向いて。

「開けたところに出られた。今日はここで休むからな」

 がさがさまとわりつく草から脚を引き抜き、僕に向かって手を伸ばした。

「……はあっ、はい……!」

 ズレた眼鏡を直して、その手を取る。そうして柔らかな下生えの上に座り込んでしまうともう立てず、今日もゼータが野営の準備を調えてくれた。

 姉さんたちと別れて十日ほど。丁度月の三分の一の日数が過ぎようとしていた。



 姉さんが見つけ出した切り札は、旧い物語だった。

 かつて各地で祈りを捧げて回っていた神官の女性の話は、どこにでもあるようなありふれたものに思える。僕も小さい頃に似たような話も含めて何度か耳にした覚えがあった。それは今の神殿のかたちが出来上がる前の、神に仕えるものの呼び名から取られた――ひめみこさま、の話。

 ひとに語られるうち、物語は変化しまた簡略になる。仕事の傍らその原典を収集し、蓄えた歴史学のおじいさん先生曰く。

 一部の地域では、ひめみこさまは必ず同じ手順で祈りの儀式を行っていたらしい。それに使われたのが黒い輝石。この地に祝福あれ、その言葉を紡いだ途端に輝石はたちまち白く目映く光ったという。

「……偶然じゃないんですか?」

「それか、ひとつの話が伝わって同じように書き換えられた、とかな」

 僕の疑問に、シータさんが続けて訊く。それも予想済みということか、含み笑いで姉さんはもうひとつ本を取り出した。それは保存状態が悪かったのか酷く痛んでおり、表紙の文字は読める状態ではなかった。壊れそうなそれを無造作に投げ渡すものだから慌てて手を伸ばし、けれど受け取り損ねてベッドに落ちる。

「ほら」

それを拾い上げたのは、僕の腰掛けるベッドの上で壁に背を預けて座るゼータだった。明るい色の髪に月の光が映り込んで綺麗だ。

「ありがとうございます」

 受け取った本が無事だったことに胸を撫で下ろしつつ、表紙をそっと開く。こちらも中は手書きの文字だが、言い回しの古めかしさと紙の劣化具合からかなり古いものだと分かる。そっとページをめくるが読み込むには時間が掛かりそうだ。裏表紙側に記名欄を見つけたので、眼鏡を押さえてそこにだけ目を凝らす。

「ラムダ・ルート……?」

「調べたらね、あたしたちのひいおばあちゃんだったわ」

 言われてそういえば聞き覚えがあると思い出す。曾祖母もまた姉さんのように、聖霊様と神の寵愛を受けたかのようなひとだったらしい。たしか婿を迎えたというから生涯名字も変わらなかったそうだ。日記に記された日付から逆算して、若い頃に書かれたものなのだろう。

「それがどうした」

 シータさんが話を急かす。姉さんはにやりと笑って僕、の手の中の日記を指した。

「ひいおばあちゃんだったの」

「何がだよ」

 間髪入れずにゼータが返した。……話の流れからすれば、と僕は口を開く。

「ひめみこさまが、僕たちの祖先だということですか?」

「そうそう」

 軽く言いつつ頷く姉さん。

「家にあったやつも一応見てみようかなーと思ってさ。んでたまたま見つけたからおじいちゃん先生と一緒に解読したのよ。そしたら実際街を巡った記録が残ってて」

 そんな偶然が、とも思ったが姉さんのやらかしたことだ。ありえないとは言い切れない。

「だから、ひめみこさまにまつわる一連の物語は実話だった、ってこと」

 姉さんはそう話を結んだ。が、

「なあ先生。それがどこに繋がるんだ?」

 ゼータの疑問ももっともだった。曾祖母がすごいひとでした、という話の為に脱走したなんてことは無いと信じたい。

「あら分かんない?」

「今ので分かるか」

 シータさんにまでそう言われて、姉さんは不満げだった。けれど話を続けなくてはいけないと分かってはいるようだ。ぱん、と手を叩いて注意を引き直す。

「つまり、願いは何度でも叶えられるってことよ」

 姉さんに言われて、ひめみこさまの話を思い出す。

「……僕たちは、願いはひとり一度だと思っていた。けれどひめみこさま、僕たちのひいおばあさんはひとりで何度も願いを叶えている」

「そう。だから類話も漁って、あたしが辿り着いた結論ってのがね」

 乱雑に書き込まれたページを、姉さんが手を伸ばしてめくる。しかしその台詞の続きは、

「……同じなら、いいのか?」

 僕の後ろ、ゼータの口から零れた。思わず振り向くとちょっとびっくりした顔をして、僕を見たまま言葉を探す。

「だから、そのひめみこさまは毎度同じこと言って祈ってたんだろ。だからそれならいいのかって」

 聞けば確かにその通りだった。僕の隣へ移った姉さんがぱっと笑う。

「大正解よゼータ。いい勘してるじゃない」

 ノートを取り上げられて、開いたページは結論のメモだろう。そこに書かれていたのは今聞いたばかりの内容だった。

 同じひとが願った同じ願いであれば、何度でも叶うのではないかと。

「ということは、ゼータがまた願うということですよね」

 カケラは僕の願いは叶えない。それは願いに関わらず出来ないのだということは、試したから知っていた。僕たちふたりで行くという条件で考えるなら、自然と実行者はゼータに絞られる。

「……いいのか、それ」

 ゼータが訝しげな顔をした。

「ゼータが祈ったのってそいつのことだろ、もう一回やって何とかなんのかよ」

 僕を指しながら近寄ってきたシータさんが姉さんを見下ろす。僕も含めた三人の視線を受ける姉さんは、やけに自信満々だった。



 この数ヶ月の旅路で、随分と野宿にも慣れたものだと思う。初めの頃はテントの外に何かがいる気配がする度に落ち着かなくて、寝付くのもままならなかったものだが。

「どうぞ」

「おう」

 持ち運びに適した軽く丈夫な木材のお椀に、携帯用の鍋からスープを掬う。固い保存食でも柔らかくなり、体も温まる汁物は旅の間にかなりお世話になった。今日は乾燥させた穀物と探してきた山菜を具にしている。

「……美味い」

 ほふ、とお椀に口をつけたゼータが呟いた。僕も引っかけないよう上着の裾に注意しながら、自分の分に手をつける。焚き火で炙っている魚もそろそろ食べられるだろうか。運べる食料も限られているからと、ゼータが川で捕ってきてくれたものだった。塩を振っただけでも、捕りたて焼きたての新鮮さが美味しい。

 お腹が膨れれば、疲れも合わさって眠気がやってくる。欠伸したゼータが座り込んでいた地面から立ち上がった。

「何かあったら起こせよ」

「お願いします」

ここのところは僕が先に火の番を務めている。僕の横を通りざま、ゼータが自分の外套を僕の横に落とした。

「大丈夫ですから」

 温かくしすぎて熟睡すると起きられないから、自分は携帯用の布団だけでいい。シータさんたちと別れた辺りからそう言うようになったゼータこそ、体力が必要だというのに。

「うるせ。おやすみ」

 僕が外套を拾う間にテントに潜り込んでしまって、また声をかけ損ねた。気遣われているのは分かっているけれど、僕だって。

「……はぁ」

 焚き火に向き直ると、眼鏡が汚れているのだろう、灯りが乱反射した。どうせ傷だらけなのだと外套で雑に拭う。それが済んでしまえば、手持ち無沙汰な時間が訪れた。

なるべく手荷物を軽くしようと、本の類いはほとんど姉さんに預けるか処分してしまった。辺りに注意を払わねばならないのだが、今のところは何が起きることもない。

 こんな日々ももうすぐ終わるのだな、とぼんやり考えた。シータさんに連れられて帰る直前に、姉さんに言われたこと。

「あんたたちふたりで、最後までやり遂げてみせなさいよ」

 その時。決意の滲んだ表情で頷いたゼータと、僕はきっと違う感情を浮かべていたのだと思う。最後、という単語が未だ刺さったままの自分に自嘲した。

 何を言ってくれたとしても、巻き込んだという思いは消えない。それでも一緒に来てくれることが、隣に居られることが本当に嬉しかった。

 ぱちん、と火がはぜる。ゼータの残していってくれた外套を自分のものの上から羽織って、その安らぎに溺れないよう寒々とした空を振り仰いだ。



 進むべきルートは大小連なった山脈の横断で、その中でも距離と起伏の緩やかさのバランスを取って決めてあった。二、三日前までは登りだった道のりも、今はなだらかに下っている。

「うわ、っと」

 木の根に蹴躓いた僕を、リュックを背負った背中が受け止めてくれた。とっさの判断で足を踏ん張り体を安定させたらしい。わずかに首を傾けてこちらを見たゼータに、大丈夫と示すため笑う。

「すみません……」

「いいから立て」

 言われて、預けていた重心を元に戻した。眼鏡の位置を直していると、ゼータは息を吐いて周囲を見回し、どさっとリュックを下ろす。

「休むぞ。俺あれ取ってくるからじっとしてろ」

 近くの木に生っていた果実を指して、僕とは比べものにならないくらいスムーズな足取りで行ってしまう。自生した植物の中でも新芽色の髪はよく見えたから、見失う心配はないけれど。とりあえずその場に腰を下ろし、ゼータの方を目で追った。

 何度か幹を蹴って、ダメだと悟ったらしく外套を脱ぐ。そのままするする一番低い枝まで登って、そこから手を伸ばして果実をもぎ、下の外套めがけて二個放った。そうやってぼんやり見ていたことには気がついていないのか、あるいはどうでもいいのか。戻ってきたゼータの顔はいつも通りだった。

「ほら」

 渡されたのは、季節から少し遅れて実ったらしい赤い果実だった。

「ありがとうございます」

 礼を述べて受け取り、外套の汚れの少ない部分で表面を磨いて囓る。みずみずしく甘いのを舌に感じて、喉が渇いていたことを自覚した。

「美味しい、ですね」

「そうかよ」

 僕の隣でしゃりしゃり果実を食べるゼータの、そのぶっきらぼうな口調が時に怖がられることも知っている。本人はさして気にしていないというが、それはあまりにも短絡的ではないだろうかと思うのだ。

 少なくとも僕にとっては、それが彼女を厭う理由にはなりえない。

「よかったです」

 思考が零れた。ゼータが訝しんで僕を見る。

「一緒に居るのが貴女で良かった」

 貴女が自分で決めたことだと言ったのが、どれほど僕を喜ばせたのかきっと貴女は分からない。それでもいい。

 多分ひどく情けない笑い顔をしていたのだと思う。驚いたようなゼータの視線が迷って、手元に落ちて、深く息を吐いていた。

「馬鹿じゃねえの」

 突然睨まれて、今度は僕が驚いた。

「そういう台詞は全部終わってからにしろ」

 さあ行くぞ、と囓り終わった果実の種をその辺に投げ、乱雑にリュックを持って立ち上がったゼータ。僕が慌てて残りを頬張ると、呆れた顔で見下ろされた。

 それでもそこで待っていてくれた。



 傾斜はやがて平坦になり、麓に広がっていた森を抜ける。開けた視界に見えたのは、乾いた土と剥き出しの岩が構成する無人の荒野だった。

 目的地はもうすぐそこだ。大きな岩の陰にいつも使うテントを張り、主に長旅用に仕入れた品物を置く拠点を作る。いつ何があっても対応出来る程度には身軽になっておきたいとは、ゼータから出た言葉だ。

 時間はまだ昼前。軽く食事を取って、僕たちは歩き出した。ざわざわとした落ち着かない雰囲気が、そこに近づくにつれて増していく。そうして半時間ほども歩き続けたところ、地面が浅く抉れたクレーターの底にソレはあった。

 見た目は、花の蕾に似ていた。開く時を忘れたかのように固く結ばれ、幾重ものがくに守られたようなその姿全てが、僕の身の丈を遥かに超える大きさの輝石で形作られている。

 そして、それが内包する黒。白い花弁の奥で蠢いているかのような色のない色。

「あれが」

 その根元まではまだ距離があるが、視界に映るのはとうに大輝石だけだった。ゼータがぽつりと呟いた、それに頷きながらも怖気を伴う寒さに肩を竦める。感じる力はこの旅路で何度も出くわしたものと同じ、けれど根本的な何かが違っていた。それが何か分からないことがより一層不安をかき立てる、でも。

「……下がってろ」

 そう言って前に出てきた、吹き抜ける風のような髪の持ち主が、大鎌を手にして立っている。

「大丈夫、です」

 虚勢のつもりはないけれど、そうだとしても構わない。僕はここに居て、やるべきことを果たさなければ。

 杖を握り締め、大輝石を見上げて、気がついた。

「――上ですッ!」

 まだ見えない。けれど視えた。大輝石の外に逃れ出たのだろう一部がそこに在るのが。叫んだ僕を振り向いて抱えたゼータが、一足で驚くほどの距離を跳んだ。着地しそのまま向き直った、僕たちが直前まで立っていた場所に武器を突きつける。

「奇襲の仕方に芸がねえなぁ!」

 挑発するかのような言葉に、それがざわざわと揺らめいた。墓場に広がっていたモノ、いやあの日クライスムートの封印に現れたモノと、同じナニカ。ひとと同じほどの全長をした歪な球体全体が黒く、ひとときとして同じ形を保たないかのように動き続けている。

 間近で感じるその気配は間違いなく知ったもので、思い起こされるのは紛れもない恐怖だった。飲み込まれて、自分が自分でなくなりそうになる、そんな記憶が。

「タウ」

 不意に僕を呼んだ声は、動揺する僕とは正反対に凪いでいた。すぐ隣で、ソレを睨み据えたままで、ゼータは欠片も揺るがぬ声で言った。

「大丈夫だ」


「お前は、俺が守るから」

 どんな祈りの言葉よりも力がこもった、ゼータの決意が紡がれる。まさしくそれが全てをひっくり返す鍵だった。


「えっ!?」

「うわっ」

 ――ギィイイイイイィッ!

 一瞬で光に視界を塗りつぶされ、反射的に瞼を閉じる。僕を抱えたままの腕に力がこもるが、僕は確信していた。

「ゼータ!」

 叫ぶ、それだけでゼータは僕の背を叩いて離れ、駆けた。踏み切る音に目を開ければ、

「そらぁッ!」

 ソレを刈り裂かんとする僕の護衛官が、底の知れない黒を塗り替えるほどに目映い翼を背負っていた。振り切った大鎌がソレの体を掠め、ごっそり削れた一部がぼと、と地面に落ちる。

 ――グァ、ギィイッ!

 攻撃されたことを憤るように、液体の塊じみた球体が激しく震えた。と、表面を突き破って何本もの鞭状の形が出現する。が、

 ひゅ、と曲刃が生まれたばかりの長細い黒を抱え、ゼータが舞うように身を翻しながら横に跳んだ。

 稲穂を刈り取るかのごとく鞭が三本、切り離されて地に落ちる。びたんっ、と跳ねたソレらだが、彼女の背負う翼が一度大きく羽ばたくと臆したように大人しくなった。その羽ばたきが圧したのは切り落とされたモノたちだけではない。たゆたう本体も一瞬静止し、それでも敵意は失せずに鞭をしならせる。

 横から叩きつけられようとした一撃をワンステップで避け、空振って動きが止まったところをそのまま刃先で切り落とす。

 そこで僕は、ようやく完成した術を結んだ。

「我ら照らす光の聖霊、汝が慈悲にて彼の者に安息を!」

 掲げた短杖の発する光に照らし出され、地面を這い回っていたカケラたちが溶けるように消えていく。が、本体へ目を移して息を呑んだ。

 各個撃破に遭うと学習したのか、残った鞭が束ねられて大上段に振りかぶられていた。襲い来ればその破壊力は凄まじく、また長さも増しているとなればふたりまとめて打ち伏せるも容易だろう。

 けれど僕は避けなかった。

「――させるわけ」

 翼が空気を打ち鳴らす。地を蹴り飛んで、背に付くまで刃を引きつけた大鎌の柄の先を両手で握り締めて。

「ねぇだろうがぁッ!」

 叫ぶ勢いそのままに刃が描いた、大きな円の軌跡が強靱に見えた凶器を刈り飛ばした。本体から離れ宙を舞うソレに向かい再び術を結べば、地に着くこともなく消え失せる。

 ――ガアアアァァアッ!

 怒り狂った咆哮が鼓膜を殴る。軽やかに着地した直後のゼータに向かい、飛び出したトゲが串刺しにせんと迫る。

回避するには近すぎるソレをゼータは一瞥し、ギリギリで首を捻って頬を掠めさせただけに留めた。半歩跳んで鋭い瞳が相手を見据え、削られる度動きを鈍らせもはや漂うだけになっていたソレの中心を、

「――ぅあああああぁッ!」

 服を髪を翼をはためかせたゼータの、全力で振るわれた横薙ぎの一撃が捉えた。

――ギィ、アアァアァ――

 縫い止められたソレを、ゼータの背負う翼が照らしている。その色はよく見れば、ゼータが身につける輝石のように淡い緑と空色とが入り混じっていた。頬に負った傷に構うことなく、静かにソレを見下ろす彼女が、神秘的ですらあるその姿が誰か知らない者のようにも見える。

「おい、タウ」

 それでもゼータはいつも通りに僕を呼んだから、僕の足は動いてくれた。歩み寄り、両手で握った短杖を胸元に置いて目を閉じる。

『なゼだ』

 耳障りに割れた、ぼろぼろの音が頭に響いた。反射的に見た先では震える黒と、耳を押さえて顔をしかめたゼータの姿。

『ワれは、あレは、タだ』

 聞き取りづらいそれには、きっとそれがこうして分離した理由なのだろうと思うほどに強烈な感情だけが色濃く残っていた。憤怒と、憎悪と。

『――たダ、ネがッタだけ、ナノに』

 苦しくなるくらいの悲しみと悔しさ。

「…………タウ」

 ゼータも感じているのだろう。やるせない気持ちはひとりで抱えるには重すぎて、どちらともなく手を繋いでいた。短杖を持つ手に力を込めて、深呼吸してソレを見据える。

「……我が声を以て、汝に請う」

 ふわり、といつの間にか冷えていた体を温かいものが取り巻いた。ゼータの背にあった翼がゆらゆら微風に揺れて、羽根が周囲に舞い散っていく。

「希望司る光、導き体現せし聖霊たる汝の力にて」

 ゼータが戸惑ったように視線を巡らせ、それでも唱え続ける僕を見て口を引き結んだ。

「彼の者に安息を与えたまえ」

 言葉を結ぶ。短杖の切っ先に集っていた光が膜になり、ソレを包み込んだ。徐々に小さくなっていくその上にも、淡い緑の羽根が舞い降りる。最後に残った光の粒のひとつが空に昇るまで、目を離さないでいた。



「……浄化、したんだよな」

「はい」

 あの怖気はもう感じない。どこかすっきりした気分なのは、かつて取り憑かれたものが浄化されたからだろうか。

「気合い入ってたじゃねえか」

 ゼータがにっと笑った。ほらこれも治ってると頬を指したが、

「それは僕じゃなくて、さっき舞ってた羽根じゃないんですか?」

「え?」

 きょとんとした顔。

「だから、お前だろって」

「もしかして、気づいてなかったんですか」

 翼は既に跡形も無い。そこに至るまで気がつかなかったというなら、それだけアレに集中していたということだろうか。

「戦ってる間中、貴女の背中にずっとあったんですよ。翼が」

「……翼?」

 何言ってんだ、と言いたげに首を傾げた様子がなんだか幼くて、うっかり笑いが零れてしまった。笑われていることだけ分かったらしいゼータが不機嫌な顔でがりがり頭を掻く。

「知らねえよそんなの。俺がそんな大がかりなことできるわけないだろ」

 その理由については推測出来ていた。取り出したのは最低限の荷物のひとつとして持ってきていた、六芒星の刺繍のある袋。

「これ、ですよ」

 中を開いて覗けば、ふたつ残っていたはずの黒いカケラがひとつだけになっていることはすぐ分かった。全て取り出してきちんと数えれば、浄化された輝石がひとつ増えているだろう。

「ゼータの願いが叶えられたんです」

「……俺の?」

 でも、とゼータが呟く気持ちも分かる。僕はあの時のことをよく覚えてはいないけれど、おぼろげな意識の中でもあんなものを見た記憶はなかった。

 だから多分、全く同じではなくてもよかったのだ。願いの本質さえ同じであれば、叶う形はその場に適したものとなる。

「貴女が、守ると決めた時にきっと」

 自惚れてもいいのだと思う。

 僕が言ったことの意味を、ゼータは黙って考えていた。

「………………それって、お前、を」

 そして思い当たって僕を見た、おそらく同じ結論に至ったことが堪え切れず嬉しくて、つい笑み崩れてしまった。そんな僕に怪訝なような、居心地の悪そうな顔で目を逸らしたゼータがふと真顔になる。

「なあ」

 そう、ゼータが指したのは大輝石だった。そこに内包された黒は、外に出た一部を浄化されても変わらずそこに在る。

「あれは、どうにもできねぇのかな」

 訊かれて、僕は口を噤んだ。おそらくこの大輝石が時間をかけて浄化してきた、その力自体が殻のようになって気配を遠ざけているのだ。これまでと同じでは、というところでひとつ、思いつく。

「試せるものは試してみましょうか」

 最後のひとつの黒いカケラ。袋からそれを取り出すと、ゼータが僕の目をじっと見た。

「出来んのか」

 問いかけには頷き返した。初めてカケラを回収して試し、何も起きなかった時から感じていた違和感が今は無い。ゼータに袋を預け、持ったままだった短杖を右腕のいつもの場所に戻す。カケラを握った手をもう片方の手で覆って、大輝石を見上げた。

「無理はすんじゃねえぞ」

 大鎌を手にしたまま、ゼータが隣に並んでくれる。それが何より心強い。

「……いきます」

 呼吸を整える。瞼を伏せて、呟いた。

「あなたの心が救われんことを」

 手の中から光があふれる。カケラは確かに僕に応えて、冷たいだけだったところに力が生まれ出るのを感じ取れた。それに呼ばれたように、大輝石にも異変が起きる。燐光を帯びると共に輝石全体が、地面までもが揺れ出した。

「わっ」

「タウっ!」

 体勢を崩した、そう思ったときにはゼータの腕の中にいた。自分の得物を手放してまで支えてくれたゼータが、大輝石を見上げて絶句する。

 その視線の先を追って、僕もまた言葉を失った。

 蕾が、咲いていた。

 本当に輝石が重なっていたとでもいうのか、大きな花弁が綻び広がっていく。そうして開けたその中央で、わだかまっていた黒が緩やかに解けていく。

 ゼータが身構えたが、腕に手を添えて制止した。今までのソレらとは違い、ただ風に吹き散らされる煙のように色褪せた端からふわふわと崩れて、空へと昇り見えなくなっていく。

 ――なぜ。……何故、救えなかった。

 その合間に。

 ――……すくい、を……。かの、……じょ……、に……。

 眠りに落ちる寸前のひとのような、淡い声が落ちてきた。そうして見上げた青い空から視線を戻せば。

 大輝石の花はただ、透き通った姿でそこに佇んでいた。



 命の気配もない荒野よりは、まだ水と植物のある森林地帯の方が野営に向いている。疲れてはいたけれど、休むにも場所が必要だ。

 火をおこし、ひとまずお茶を淹れる。隣同士で祝杯代わりにカップを打ち鳴らし、ほどよい温度のそれを一息で飲み干した。

 ふう、と息を吐いて渡されたカップにお代わりを注いで返すと、

「またここ突っ切んのか……」

 ゼータはげんなりした顔で二杯目に口を付ける。それに苦笑を返して、

「それでも後は神殿に戻って、姉さんに報告するだけですから」

 そう、もうこの旅は終わる。こうしてふたり揃って帰ることが出来るのだから、それでいいではないか。

 今この時ですらも惜しむ気持ちを、注いだばかりの温かいお茶で飲み下す。と、拳ひとつ分空けて座っていた相手に、

「……あのさ」

 そう呼ばれて振り向く。ゼータが緑の瞳を手元に向けたまま、ヘアバンドを外して前髪を落とした。

「報告しても、さ。それで全部、おしまいじゃないだろ」

「はい?」

 それは、僕がずっと考えていたのとは逆だった。手でぐしゃぐしゃと前髪を乱すから顔は見えない。

「砕けちまった輝石だってそのままってわけにゃいかねえだろうし、……あの、宿にいた子がどうなったかも気になるからよ」

 それで、と。言葉を探す様子に、期待をしてしまう。

「……そうですね。僕たちが起こしたことで巻き込まれたひとのことも、ちゃんと確認しないといけないですよね」

 最後までやり遂げるだけ。それが言い訳だという自覚があってもなくても、同じように思ってくれたことが嬉しい。前髪を掻き上げたゼータがこっちを向いて、きっと喜んだことが表情にそのまま出ているだろう僕に呆れて、けれど仕方ないと言いたげに目を細めた。

「まだまだ、よろしくお願いします」

「任せとけよ」

 僕がくすくす笑って、ゼータがからりと笑い返して。頼りになる護衛官が隣に居てくれる、そんな日々がまだ終わらないだろうというただそれだけで、あと数日続く険しい道のりですら耐えられそうだと。そう思ってしまえるのだから、我ながら現金なものだ。


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