「幸福」から見るリア充の変化

 幸福とは何か。これについて考えることはもちろん大切ですが、あまり持論を語りすぎるとまるで宗教みたいになってしまうなと反省している今日この頃です。

 幸福。それは誰もが求めつつもしかし、満たされ続けることがない最高の感情でしょう。生きていくうえで幸福を追い求めることは何よりもの原動力になりますが、その幸福の形を誤るとむしろ幸せとは程遠い道を歩まされてしまう。とても扱いに困るものですね。

 今回はそんな「幸福」という言葉の由来から「リア充」という言葉の持つ意味の変化についてこじつけていけたらなと思います。


 まずは「幸福」から。

 幸福とは「幸せ」と良いことをイメージする「福」という言葉の組み合わせなので、その由来も綺麗なものかと思っていましたが、実はそうではありませんでした。

 「幸」という漢字は、元々は手枷てかせを描いたもので、その意味も手枷や刑罰といった今とは真逆の意味を持ちました。やがて刑罰を逃れることができたことを表すようになり、その思いもよらない幸運のことを意味して「幸せ」という今でも使われる言葉の意味に変化したのです。

 驚きですね。まさか幸せが元々不幸な状況から脱したことを意味していたなんて。

 そして「福」という漢字は机の上に乗ったお酒を意味します。これは何のためのお酒かといいますと、神様への貢ぎ物としてのお酒でした。お酒というのは今のように嗜好品として誰もが気軽に楽しめるものではなく、元々は神様がいただくもので人がそれを口にするのは神様から施しを受けた時だけだったそうです。ここでまさかの神様の登場です。いや、この福という漢字は「七福神」という言葉にも使われていますから、予想外というほどでもないかもしれません。しかしこれが先ほどの「幸」という漢字の由来と組み合わさるとこれまでとは違う幸福の形が見えてはきませんか?

 幸福とはもしかしたら、神様へお願いすることで不幸な状況から脱することを「幸福」と呼ぶのかもしれません。

 これではまるで宗教です。信じるものは救われる、これはあながち間違いではなかったのかもしれません。これ以上はやめます。


 では次に「リア充」という言葉について掘り下げていきます。

 若い方ならこの言葉を嫌でも一度は聞いたことがあるはずです。そして私のようなオタクならばその言葉に苦しめられたことも一度や二度ではないはず。

 そんな罪深き言葉の由来について掘り下げます。


 「リア充」とはリアル(実生活)が充実している人や様子を意味する言葉であり、今では恋人がいる人やカップルを総称してリア充と呼びます。しかし疑問なのが、なぜ実生活の充実の基準が恋人の有無に限定されているのかでした。そこでその由来について調べてみると面白いことがわかりました。

 「リア充」とはその言葉の通り、実生活での友達や恋人との交際がないことを自虐したネット上の言葉でした。つまり、ネットに入り浸っている自分自身を周りよりも下に見た言葉でした。これは「腐女子」という言葉とも似ているように思えます。腐女子とは男性同士の恋愛を好む女性の総称で、その始まりは本来そういった描写のない男性キャラ同士の交わりを好む自らの思想や発想を自虐して、「腐っている」と表現したことから生まれたと考えられています。時としてオタクという生き物は謙遜が過ぎる気がしてきました。

 話を戻して、元々は友達との交際も含めたうえでリア充かそうでないかの判断が

つけられていたものが、何故恋人の有無に限定されたのか、変化していったのか。

 私はそれには社会が与える幸福のイメージが影響していると考えます。幸福のイメージ。それは結婚し、子供を産むことが幸せであるという思い込みであり、全体の流れです。

 周りが結婚しだし焦ってしまったり、親から孫の顔がみたいと何度もお願いされたり、結婚したのに子供を産まないことに疑問を向けられるなど、結婚や出産に関して様々な思い込みがあるように感じます。

 幸福とはもっと多様的なものであり、これと決まった形はないはずではないでしょうか。なのに、こうしてイメージの型にはめられて苦しい思いをする人が後を絶ちません。

 しかし、これは変化の兆しとも取れます。幸福のイメージがはびこっていたのは、人々の中に人生における大きな目標(ゴール)があった方が生きやすかったからだと思います。どんな最期を迎えることが一番素敵か、という具体的なイメージを持たせることで人生のモチベーションを、生産性を高めるのに大いに貢献したのではないでしょうか。そして、最近では幸福の多様化が謳われるようになりました。これは全体としての大きな目標を掲げられたこれまでの状態と比べれば遥かに難しい生き方を迫られている状況になるでしょう。いわばクラス一丸となって学んでいた学生が、ここからは自分の希望する学問、学校を選んで勉強を進めるようにと言われて一人ぽつんと放り出されたようなものなのです。まるで受験ですね。(私も受験シーズンはとても不安でした)

 未だに幸福とはこういうものだという思い込みも残ってはいますが、これからは個々人の中で選び取った幸福の形が尊重されていくのでしょう。


 さて、少し脱線しましたが、このように結婚し子供を持つことが幸福だという共通のイメージが社会には蔓延していました。そこに投げ込まれた「リア充」という言葉にはどのような変化が起き得るのか。

 私はこう考えました。リア充と称される人間のうち恋人との交際がある人の方が将来結婚する可能性が高く、その幸福のイメージに最も近い存在として扱われるようになったのではないか。そうしてだんだんとリア充とは恋人がいる人やそういった状況を指す言葉に変化していったのではないかと考えました。

 ここまではリア充の意味の変遷に関する考察ですが、ここから更にこじつけていきます。


 この考察では言葉の意味が社会のイメージによって変化したとしましたが、「幸福」という言葉の由来に基づいてもう一つ仮説を挙げてみたいと思います。

 それは言葉を生み出したオタクその人たちがその意味を敢えて改変した、という説です。

 思い出してください、幸福という言葉の由来を。元々は不幸な状況にある人が神様からの施しによって、その不幸から免れることを表していました。つまり、幸せとは自らで手にするものではなく、その時々の運によって左右される不可抗力だったのです。

 それはオタクというレッテルを張られ、段々と下に見られるようになった人々にとっての息苦しさそのものと言えるでしょう。自分たちには到底辿り着けそうもない頂き。そこに至るにはもはや運頼みしかないのかもしれない。

 そして彼らは「リア充」という言葉の意味を「異性と交際をしている状態」と変更しました。ある種の枷をはめられた状態の自分たちにとんでもない運が舞い降りれば辿り着けるかも知れない場所、それが「リア充」という名の幸福なのかもしれません。


 今回のこじつけは以上です。

 お疲れ様でした。皆さんの人生に幸福があらんことを

 

 

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