見ると視るの違いについて

 お久しぶりです。

 最近は簡単な発想をそのままフィクションにしたようなものばかりでした。物語を考えるのとこういったことを考えるのとは全く違いますね。意識しないと難しいです。

 そんなこんなで今回は「見る」と「視る」の違いについて考えてみました。きっかけは魂の所在について考えていた時のことなので、言語にこだわらず頭に浮かぶ限りに書いていきます。


[言語の方面から]

 まずは言葉の意味の組み合わせから考えていきます。

 見るという言葉の語源はそのままなのですが、「目」と「人」という漢字の組み合わせです。では視るはどうなのか。

 視るという漢字のしめすへんは神や幸福の福で以前にも調べたことがありましたが、神様への供物を載せる台のことを表しているそうです。

 台の上に置かれた特別な何かを指しているのか、それを見ている人のことを指しているのか。視るとはそういった何かを特別に注目していることを意味しているのかもしれません。

 でもその違いとは何なのか、なかなかうまい例えが浮かばないのですが一つ思いついたものがあるので続いてはそちらのコーナー。


[虫の擬態は視えにくくするため?]

 見ると視るの違いについて言葉の定義ではなく、わたしたちの身の回りにいるかもしれない虫を例に考えてみましょう。

 みなさんも耳にしたことがあるかもしれませんが、この世界には何とも不思議な姿かたちをした昆虫が生きています。

 細長い枝のような見た目をしたナナフシやエダシャク、他の凶暴な虫に擬態する虫や有名なものですと花や枯葉に擬態するカマキリなんかがありますね。こういった昆虫は自身をまるで植物の一部であるかのように惑わすことを生存戦略としています。

 これをそれらの昆虫の捕食者である鳥の視点から想像してみると、この見えると視えるの違いが少しわかりやすくなるかもしれません。


 わたしたちは鳥です。

 わたしたちの食べるのは小さな虫やその幼虫です。

 この広がる大自然の中でそれらの小さな生き物を見つけるためには、それらの特徴をおさえなければいけません。

 わたしたちの食べる虫は緑葉の中でも目に入るほど綺麗な色をしています。葉っぱの中にいたって気付きます。

 わたしたちの食べる虫は植物とは違う曲線をそれぞれ持っています。幼虫はその柔らかい体をもぞもぞと動かして移動するのでねらい目です。

 わたしたちの食べる虫は葉っぱや木の枝とは違います。それはよく虫がくっついている場所であってわたしたちの食べ物ではありません。


 さて、仮に鳥たちがこのようなことを意識して狩りに出ているとしたら、鳥たちは小さな虫を獲得するためにも無駄な情報は省いて、上にあげたような特徴に合致するものだけを集中して観察する、とは思いませんでしょうか。

 それは私たち人間でも同じことです。

 少し前にツイッターで盛り上がっていた写真に隠れた猫を探すという試み。あの写真は一見、猫なんてどこにもいないように見えますが実際いたわけです。

 このように意味のあるもの(餌となる昆虫や隠れた猫など)を与えられることであらゆる生き物は目に映る世界を、視認するようになるのではないでしょうか。これこそ視るという行為なのです。そして、そんな視認しようとするものの意識とは異なるものに姿を変えることが彼らの行う擬態という行為なのだと思います。

 生きた虫を求めている相手には、枯れた葉っぱに。

 弱い虫を求めている相手には、脅威となる生き物に。

 枝を伝う虫を探す相手には、逆に枝に見せることで、その視認の目を逃れているのです。

 このように見るという行為では見逃されてしまうような小さな点にも、なにに注目するのかという意識を働かして視てみると気づくことができますし、逆にその流れを利用して相手から見つかりにくくすることもできる。

 それが視る、という行為なのかもしれません。


[幽~体~離~脱ぅ~]

 最後にこうした視覚のお話から、幽体離脱もとい魂について考えたいと思います。

 魂とはいったいなんなのか。

 それは実感のない感覚、またはその記憶だと思います。

 魂の存在を語るうえで欠かせないのはやはり幽体離脱のような体から魂が抜け落ちて、まるで幽霊にでもなったように俯瞰した視点で周りの様子が見えた、という経験だと思います。

 実は私も一度だけそれに近い経験をしたことがあるのですが、確かにあれは魂が抜けるという表現は的を得ていると今でも思います。以前、私が気絶してしまった瞬間に、まっくらでどこまでもどこまでも広がる空間に浮いている感覚を覚えました。眼球や瞼を動かしている感覚はないのに、私の視線はあっちこっちへと移動します。そして、下を向いた時自分の足や腰や、はたまた腕も胴体も頭も存在しないことに気が付きました。実体はないのにそこを通る神経や内臓の重さは感じる、というより覚えているのです。ですが、そこに体は存在しませんでした。

 果たしてどれくらいその空間に浮かんでいたのか分かりませんが、左斜め前方から小さな光の点が現れ、そのままどんどんと大きくなっていきました。視界をふさぎ、私の浮かぶ空間全体を真っ白に染め上げたかと思った時、視力の回復とともに私は現実世界へと戻ってきました。それはまるで照らされた光の中にかつての思い出を写し込むような感覚でした。


 少し自分語りが過ぎました。

 この経験は私に死とは何かについて考えさせるよいきっかけとなりました。

 そこで思うのです、あの時私がまさに魂という状態にあったとするならば、あの時感じた感覚はどこから来たものだったのか。そして、幽体離脱によって横になった自分やその周囲の状況を見たという人はどのようにして見たのか。


 まずあの感覚ですが、それは脳が覚えた体の感覚であり、その名残であると思います。先程は語りませんでしたが、目が覚めた時視覚が戻るのに続いてゆっくりと聴覚が戻ってくるのを感じました。同じように手足の触覚も続いて戻ってきてようやく体のぬくもりや内臓の重さを実感しました。

 実感した、と言ってもその感覚は気絶している間となんら変わらないものだったと思います。だからこそ、魂が抜けるという表現は合っていると思います。まるで憑依していた人形から追い出されてしまったような不思議な感覚でした。

 では、そんな中でどのようにして周りの状況を把握することなどできるのでしょうか。私の考えにのっとると、魂は五感(味覚、嗅覚、触覚、視覚、聴覚)のない中で唯一残されたそれらの記憶をもとにつくられた幻ということになります。そんな幻がどのように周囲の状況を見ることができるのでしょう。

 もしかしたらそれは直接見たのではなく、脳の表層に与えられた刺激をもとに脳の奥底で幻となっている自意識が仮想の視点を与えたために見えたのかもしれません。

 例えば、触覚でベットの上で触り慣れないシーツをかけられていることを知り、痛覚で腕に刺さる針のようなものと体に響く別の痛みを知り、聴覚で家族や友人となにやら専門用語を並び立てる深刻そうな声を感じ取ったとして、それらの情報に一つひとつ意味を付け加えていきます。まさに視るという行為のように。

 すると大まかに病院のベットで横になっているのではないかという当たりをつけることができるかもしれません。そして、それを眺める自身は脳が生み出した幻であるためまるで魂が抜けて周りを眺めているような感覚を得るのではないかと思っています。

 

 さて、言葉のお話だったのか、生物のお話だったのか、心霊現象のお話だったのか。出発点がバラバラならその着地もひどいものでした。

 この章を通して私は一体なにを言いたかったんでしょうか。

 まぁとりあえず、見ることと視ることは違うよね、ということで。

 お疲れ様でした。

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言語に関する勝手な理論構築 ネコイル (猫頭鷹と海豚🦉&🐬) @Stupid_my_Life

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