7 幽霊は昨日を歌うか?
もしかして、と思う。土手の上からベンチまでは少し距離があるし、男は川の方を向いて座っているので、顔は見えない。しかし、男がベンチの上にあぐらをかいているのはシルエットでわかる。
少し先に舗装された階段もあるが、そこまで行くのが面倒くさい。ローファーで雑草を踏みしめながら、わたしは土手の傾斜を下りていく。心なしか駆け足なのは、斜面だからか、気が急いているのか、自分でも判然としない。
川岸まで下りる。背中しか見えていなかったギター弾きの正面に回り込んで、顔を覗いてみた。
「あ」
「やっぱり」懐かしいというほど関係性は構築されていない。だが、なんとなく、ほっとするような気持ちはあった。「水原。何してんのこんなとこで」
およそ二週間ぶりに幽霊を見た。当然と言えば当然、水原は出会ったときと特に何も変わっていない。持っているのがハーモニカからギターになったくらいだ。
ベンチの上に裸足であぐらをかいて、筆記体でよくわからないロゴマークが書いてあるアコースティックギターを抱えた幽霊。こんなにもいい天気だというのに、真っ黒な学ラン姿が暑苦しい。
長い前髪の間から、わたしを見上げて水原は言う。
「何って、ギターを弾いてるんだ」
「そりゃ見ればわかるよ」
「じゃあ、『何してんの』って何」
「だからさあ、なんでこんなところでギター弾いてんのって話。公園だの河原だの変なとこにいるから」
「まあ、そうだな」ずっと握りしめていたギターのネックから左手を離し、前髪をかき上げる。「ここ、けっこう涼しいしさ」
たしかに、川にほど近いこのベンチは、風が冷たく感じられて心地よい。
涼むなら学ラン脱げばいいだろ、と思わなくもないが、そんなことはとりあえずどうでもいいか。
「今日はハーモニカじゃないんだ」
「天気がいいから」
「どういう意味よ」
「ギターは木でできてるから、湿気に弱い。雨の降りそうな日は外に出したくない」
楽器を大事にする幽霊。
「さっき弾いてたの、なんていう曲?」
「ジョン・フルシアンテのザ・パスト・リシーズ」
「ごめん、聞いてもわかんないや。なんかわたしが知ってそうな曲弾いてよ」
「どういうのなら知ってるんだ」
「なんか適当に挙げてみて」
「ジェフ・バックリィ」
「知らないって」
「ジミ・ヘンドリクス」
「それ、家にCDあったかもしれない。お父さん洋楽好きだから。もじゃもじゃ頭の人だよね?」
「そう」
「でも、曲は知らない。ていうか、イニシャルJばっかりじゃない?」
「じゃあビートルズは?」
「わかる! うちの車に乗ると、いつも流れてるよ。お父さん選曲のベストアルバムでね。あ、またJじゃん。ジョン・レノン」
水原は少し考えるような顔をしながら言った。
「じゃあ、ベタなやつ。イエスタデイ」そして、かろうじて聞き取れるくらいのボリュームでぼそぼそと付け足す。「ジョンじゃなくて、ポールの曲だけど」
こん、こん、とギターのボディを叩いてカウントを取り、わたしでも知っている名曲をつま弾き始める。テスト明けのよく晴れた午後に聴くような曲ではないな、と思った。
水原が左右の手を淡々と、そして器用に動かす。曲調は気分と合っていないが、しかし上手だった。音色が優しい。左手が弦の上で移動すると、きゅっという音が時折鳴る。
和音とは無関係なその音が、わたしは好きだ。
イントロを弾いているのだと思ってしばらく耳を傾けていたものの、ワンコーラスぶんほどでそのまま水原の演奏は終わった。
「え? 歌わないの」
「うん」
「なんでよ。歌ってよ。そういうもんじゃん」
「そうなの?」
こんなやり取りを前にもしたことがある気がする。
「弾き語りやってよ。イントロ弾いてるんだと思ったら終わっちゃったよ」
「歌わないよ」
「なんでよ。歌ってよ」
「じゃあ、俺が弾くから、藤本が歌えよ」
「え、無理無理」水原はわたしの名前を覚えていた。「英語わかんないし」
「俺もわかんない」
「洋楽聴く人って英語わかるから聴いてるんじゃないの」
「藤本のお父さんって、英語できる人?」
「あ、いや、できないね。まあそういうもんか。でもさ、どんな歌なのか内容が気になるでしょ」
川の向こうで小気味良い金属音がし、振り返る。白球が飛んでいくのがかろうじて見えた。
「まあ、ずっと立ってないで、ここ座れよ」ベンチを右手で指差す水原。わたしは素直にしたがって、隣に腰を下ろす。あの日と同じだ。水原が左、わたしが右。「内容はなんとなくならわかってる」
「どんな?」
「昨日まではよかったな。今はとても辛いな。昨日に戻りたいな。みたいな感じ。失恋の歌」
「後ろ向きだねえ」
「失恋の歌なんて、だいたい後ろ向きだよ」
「で、歌わないの?」
「歌わないって」
「幽霊は昨日を歌わない、か」
とぼけた返しも長い前髪も、やっぱりあの日と同じ。
ただ、隣に座った間隔は、あの日より少し詰めているような気もする。
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