2 幽霊に名前を教えるか?
水原と出会ったのは、たった十分ほど前のことである。
わたしは学校からの帰りで、近道だという理由でいつものようにこの公園を通り抜けるところだった。
ベンチにあぐらをかいて、ハーモニカを吹いている水原がいた。この時点では、水原という名前も当然知らなかったが。
学ラン姿の水原は裸足だった。わたしの通う宮下高校では男子生徒の制服がブレザーなので、他校の生徒ということになる。ベンチの脚のところにローファーが脱ぎ揃えてあった。その中に、靴下がそれぞれ突っ込まれていた。
ハーモニカから出てくるのは耳馴染みのないメロディで、知らない曲だった。
駅前でギターの弾き語りなんかは珍しくもなんともないが、公園のベンチでハーモニカはちょっと無視できない異質さがあった。
ちらちらと見ながら近くを通ろうとする。かなり絞ったボリュームで「変な奴」とつぶやくと、水原はハーモニカを吹くのをやめ、顔を上げた。しまった、聞かれたか。わたしは慌てて視線をそらした。しかし、一瞬確かに目が合ってしまっていた。
「今、俺を見てた?」
まずい、と思った。裸足でハーモニカを吹く妙な奴と関わりたくなかった。
無視して立ち去ってもよかったと思うが、なぜかそのときのわたしは律儀に立ち止まり返事をしてしまったのだ。
「うん、まあ、その……ハーモニカ上手だなと思って」
嘘ではなかった。ただ、あくまでそれは社交辞令を含んだ自衛で、根本的には妙で変だと思ったからだ。
「それはどうでもいいけど」せっかく褒めてやったのに、なんだよ。「幽霊を信じるか?」
やっぱり変な奴だった。真顔なのが薄気味悪い。わたしは無意識に半歩退いた。
「いきなり何言ってんの?」
「どう言ったらいいかな……説明するのが難しい。要するに俺、幽霊なんだ」
「……特に用がないなら、帰りたいんだけど。さっきのが聞こえてたなら、すいません」
「え? さっきの?」聞こえてなかったなら、なんで絡んでくるのだ。「別に怪しいものじゃない。あれ? 幽霊は怪しいものに入る?」
「誰なんですかなんなんですかあなたは」
「俺は、水原。幽霊」
「ハーモニカを吹いてるのを見てたことに因縁をつけよう、というのなら謝るから」
「そういうのじゃない」
水原は大事そうにハーモニカをケースにしまった。
「そういうのって?」
「今見てただろ金を出せ、みたいなやつ」
「確かにそういうことをしそうな風貌には見えない」
小柄で痩せぎすで色白、水原はカツアゲをする不良少年には見えない。どちらかといえば、家でゲームや読書に勤しむタイプに見えた。つまりはされる側に近い。
「幽霊を信じない?」
はあ、とわたしは聞こえるようにため息をついた。まあいいや。特に予定もなく暇だったし、こいつがどんなペテンを見せてくれるのか少し付き合ってやってやるか、という気になっていた。
「だって、わたし、今まで幽霊なんて見たことないし――……」
そして、今にいたる。
水原はわたしの左、ベンチに並んで座っている。裸足にはなっていない。男の子たちはさっきまでのことは忘れたかのように、サッカーボールを追いかけている。
わたしはオカルトや超能力の類をほとんど信じていない。水原の姿が男の子たちに見えていなかったというのは、たとえばこんなふうに考えることもできるのだ。
「あなたは」
「水原でいいよ」
「水原は、わたしがいつも帰り道にこの公園を通ることをあらかじめ知っていて、待ち伏せていた。そして近所の子どもたちにお願いして、一芝居打った。それが今の幽霊コント、というのはどうだろう」
「コントって……そうか、そう見ることもできるか。君、頭の回転速いな」
君と呼ばれるのはあまり好きではない。名乗るのは少しためらわれたが、水原も名乗っていることだし。
「わたしは藤本ひかる。ひらがなでひかる」
名前を訊かれた際に、漢字ではどう書くかという質問を先回りするのが癖になっている。うっかりフルネームを教えてしまった。
「俺は水原、水原太一。ふといにいち、で太一」フェアな奴だ。「仮に藤本の言うとおりに俺が待ち伏せをして芝居を打ったんだとする。でも、俺がそんなことする理由って何?」
「わたしがすごくタイプだったからじゃない? どこかでわたしを見て気になっていて、声をかけるきっかけをずっと探していた、とか」
冗談めかして言ってみる。すごく美人ではないが、それでも男性からの愛の告白と無縁でもないので、まあまあのラインなのではないか、と自己分析している。
「そういうのじゃない」
わたしも本気で言ったわけではない。
「じゃあ何」
「誰も俺のこと見えないからさ。久しぶりだったんだ、人と目を合わせたのが」
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