第36話 一条、月に立つ2


 食事を終えてホテルに戻るとチェックインのできる午後一時まで時間がまだあったが部屋は使用可能だったので部屋に入る。フロントに預けていたキャリーバッグはすでに部屋に運んであったので、その中に入れていたセパレートの水着に着替え、その上に短パンと膝まである長めのパーカー、足元はサンダルと言ういで立ちで話題の低重力飛び込みプールにさっそく出かけることにした。


 低重力飛び込みプールは、このホテルに付随した施設なので、プール階でエレベーターを降り、受付で手続きを済ませて更衣室で短パンとパーカーをロッカーに入れ、プールエリアに向かう。


 プールエリアに向かう通路には黄色でラインが引いてあり、数字が書いてある。一番手前から9.8、向こうの先が1.6と書いてあった。一歩ずつその通路を進んでいくと体が軽くなってくるのを感じる。最後の方はまさに雲の上を歩いている感じだ。


「……お客様にお願いします。低重力に体を慣らすため、十分ほどは、軽く歩行するなどしてプールの周りでお過ごしください……」


 一条はその放送が聞こえなかったのか、そのまま、十メートルの飛び込み台のあるところまでやって来て、飛び込みの順番を待つことにした。


 すぐに順番が来たので、飛び込み台の上に上がるエレベーターに乗り込んで上に昇り、飛び込み台の先端までまでいって下を覗く。十メートルの高さでも下がけっこう小さく見える。


 下を覗き込みすぎたのがいけなかったのか、それともわざとだったのか。


「お、おお、おひょ? おひょひょひょひょーー!」


 奇声を上げながら落下する一条。思った以上にゆっくり落下するのですっかり安心してしまったのがいけなかった。


 バシーン!!


 思いっきり腹を打ってしまった。真っ赤になった腹を撫でながら、もうこんなところに来るもんかと飛び込み台をにらむ一条の顔の上に、かなり高くまで上がった水しぶきがゆっくり落ちて来て降りかかる。


 プール脇に常備されたバスタオルで体を拭いて、部屋に引き上げることにする。入って来た時の通路を戻っていくのだが一歩一歩体が重くなりこれが結構つらい。


 更衣室で濡れた水着の上から短パンとパーカーを着てサンダルを履いて部屋に戻る。もう一度普段着に着替え、今度は目玉である月面走行車両によるミニツアーに行くことにした。


 AMRでの一番の目玉はアポロの台座や月面車の残る静かの海への専用遊覧宇宙船で行く周遊ミニツアーなのだが、要予約で、今日明日では乗れそうもなく断念した。さすがの一条もそこまで職権濫用しょくけんらんようはしなかったようだ。いや単に、し忘れただけなのかもしれない。


 ホテルのフロントで月面走行ツアーを申し込むと、次の出発がもうすぐだそうで、慌ててツアー出発口のあるホテルの地下に向かった。


 月面走行車両は八輪車を二両連結したもので、ツアー客が乗る部分は、床面以外の全面が透明になっており、座席についてシートベルトを全員が締めるとツアー開始だ。気密ドアが閉まり走行車が走り出す。外界とAMRを遮断する前方のゲートが開くとそこは低重力の月の世界だ。今は昼間なので、外の地面の温度は百度を超えているはずだが当然車内は快適だ。月面走行車は時速20キロほどで、凸凹のある月面上を進んでいく。時折、走行車が勢いをつけて上った小さな坂道から浮き上がったりもするのでそのたびにツアー客の歓声が上がる。もちろん一条もその一人だ。三十分ほどの月面ツアーだったがことのほか楽しかった。


 ツアーが終わると参加者全員にレジンのような透明な物質で周りを固めた3センチくらいの月の石が配られた。それをもらったことで一条のこのミニツアーに対する評価がぐっと上がったのは言うまでもない。今の一条はAMRに視察に来たお偉いさんモードだったのだ。朝の醜態は彼女の中では既に忘却の彼方、無いことになっていた。お偉いさんモードの一条の心証が良くなった月面走行車のミニツアーはこのあと、アギラカナから何らかの優遇措置が得られるかもしれない。



 はしゃぎまわっていたせいですっかり疲れてしまった一条だが、このまま視察をホテルの中だけで済ませてはまずいと思い至り、着替えを持って少し離れたところにあるという露天風呂風大浴場に出かけることにした。そこでは、日本酒の入った徳利をたらいに入れ、頭上に浮かぶ青い地球を愛でながら、地球つき見酒が出来るそうである。



 AMRで使用している水は、火星と木星の間にあるアステロイドベルトの中の氷小惑星から運んだ氷を融かしたもので、飲料用には蒸留したものを使っているが、浴場用や温水プール用には、宇宙ミネラル水と銘打って、ミネラル分をある程度残したものを使用している。特に効能等はうたっていないが非常に好評である。


 AMR内ではほとんどの個所の重力加速度は1Gに設定しているが、月の重力を体感するため、重力加速度を月と同じ0.16Gに設定している区画もある。0.16Gに慣れるまで、平衡感覚にずれを生じる場合がある。


 低重力加速度に設定された代表的な場所は、何個所かにある高飛び込み用温水プールだ。そこにはいずれのプールにも5メートル、7.5メートル、10メートルの高飛び込み台が設けられている。10メートルの高さから下のプールに飛び込むには勇気がいるが、月の重力下での飛び込みなので、地球での1.6メートル程度の高さからの飛び込みと同じ衝撃しか受けない。しかも10メートルの落下には3.5秒かかる。いちど長時間の滞空に慣れてしまうと癖になるらしい。


 飛び込み用プールでは水の上への落下なので衝撃は少ないが、落下先が床材や地面などの固い物の場合、十分怪我をする可能性があるので、決してプール以外で飛び降りたりしないよう注意書きがいたるところに貼られている。





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