第15話 遺伝子に染みついた日本の味

 僕は財布の中から取り出していたオリーブオイルの小瓶を右手で握り締め、その手をポケットに突っ込む。

 神楽坂かぐらざかさんが僕の作ったカルボナーラを見つめている。

 卵黄を二個も使っているから、コンビニなどでよく見かける乳白色のカルボナーラではなく、温かみの強い黄身色のソースが麺によくからんでいる。

 たちのぼる匂いは濃厚なカルボナーラソースの匂いだ。

 けれどほんのりと、本当にかすかにだけれど、懐かしい匂いが混ざっている。

 これはきっと日本人にしかわからないものだ。

 神楽坂さんもその匂いに気づいたのか、小首をかしげながら僕にたずねてきた。


「これ、カルボナーラなんだよね?」


「もちろん」


 僕は力強くうなずく。


「不思議。なんか見た目はそうだし、匂いもほとんどカルボナーラなのに、なんだか別のものを出されたみたいな気がする」


 そうつぶやいて、神楽坂さんはいよいよフォークに手を伸ばした。


「いただきます」


 さすが創作イタリアン料理店の娘だ。

 フォークの扱いが綺麗だ。

 僕なんてパスタをうまくクルクルとまとめるのさえできないのに、神楽坂さんは慣れた手つきでフォークに麺をまとわせていく。

 そしてソースをたっぷりとすくって、ひと口それを放り込んだ。


「っ……ん? んんっ?」


 咀嚼そしゃくしながら険しい顔つきで何度もそれを噛みしめる。

 僕は少し笑いそうになった。

 僕も最初、師匠でもある瑠香にそれを作ってもらって食べた時、まったく同じような反応をしたのだ。


『日本人の舌に合うように』


 瑠香の考えた日本人専用のカルボナーラは、卵黄を二個使い、チーズもたっぷり入っていて濃厚なのに、まったくくどくないのだ。

 カルボナーラはその濃厚さゆえに、味に飽きてしまうのも早いパスタとして有名だ。

 だから人によっては百グラムの麺ではなく、八十グラムでちょうど良いと言う人もいるくらいだという。

 けれど僕が瑠香から教えてもらったカルボナーラはそうじゃない。

 食べれば食べるほど深みが増し、次のひと口を欲しくなる不思議なカルボナーラなのだ。


 僕が初めてこのカルボナーラを食べた時そうだったように、神楽坂さんもすぐにふた口目に手が伸びた。

 ふた口目もすぐに飲み込んでしまう。

 まるで次のひと口を喉が欲しているとでも言うように、食べるペースが上がっている。


「そんなっ…………美味しい」


 驚愕の美味しさとは、まさにこのことを言うのだろう。

 あまりにも神楽坂さんが夢中だから、隣の席に座っている桜子さくらこちゃんが興味津々でそれを見つめていた。


「私も味見してみていいでしょうか?」


 桜子ちゃんの問いに、神楽坂さんが無言でうなずく。

 桜子ちゃんの目は期待よりも疑いの眼差しのほうが強いように感じた。

 だからこそその味を知った時の反応は見ていて心地よかった。


「すごいですっ……あのサイコパス料理人のハル兄さんが作ったものとは思えない」


 驚いてくれているようだから、サラッと言った僕への罵倒については心地よく聞き流してやろう。

 さらに菜摘なつみさんもそれを味見した。

 菜摘さんは作る過程を少し見ているから、どちらかというと納得顔だ。


「おい波瑠。お前が師匠として仕えたその料理人、千年に一度の逸材だから今度会わせてくれ」


「菜摘さんにそこまで言わせるほど、このカルボナーラは美味しいってことですね!」


「美味さだけじゃねえよ。フライパンまで料理の具材にしちまうようなお前に、こんだけ美味しいカルボナーラを作らせるくらいのは人間じゃ無理だつってんだ」


「僕これまで生きてきてフライパンをそんな使い方したことないんですけどっ!?」


 どんだけ下に見られているんだよ。

 まあたしかに、僕に料理を教えてくれたのは人間じゃなくて妖精だけどさ。


「ねえ波瑠くん。これ、何を使ったらこんな味になるの?」


 神楽坂さんが真剣なまなざしで尋ねてきた。


「不思議なの。間違いなく食べたことがない味のカルボナーラなのに、食べたことある懐かしい味がするの。もしかしてスパイスとか入ってる? クローブとかシナモンとか、さわやか系の?」


「僕が入れたのはたったひとつですよ」


 乳化するときにフライパンであわせた、あの謎のタレだ。

 僕は背中に隠していたそれを、神楽坂さんの前に出した。


「これは?」


 差し出されたペットボトルを、神楽坂さんは訝しむように見つめている。


「フタを開けて、匂いを嗅いでみてください」


 僕に言われた通りに、神楽坂さんはその内容物の匂いをおそるおそるかいだ。


「あっ、これ!? もしかしてお出汁だし?」


 そう。

 僕が乳化に使ったものは、水に出汁の素粉末を混ぜて、そこに数滴の魚醤をくわえた特製調味料だ。

 ネタばらしをすると、神楽坂さんは背もたれにガッツリと背中をあずけて驚いて見せた。


「お出汁って……もう和食じゃない。どうしてこれを入れることを思いついたの?」


「思いついたのは僕じゃなくて、僕に料理を教えてくれた師匠だけど、その受け売りを言うなら――――」


『日本人は昔から、魚や海藻で出汁を取って、それを料理に使います。そういう料理文化が何年も、何世代も続いているんです。だから遺伝子レベルで刷り込まれちゃってるんですよ。この味は美味しいということが』


「だから海外の料理でくどい味のものに、日本風の味を少しだけミックスしてあげるだけで、日本人の舌に合いやすい料理になる。それがいくら食べても飽きないカルボナーラの味を生み出すんだ」


 例えるならおふくろの味のカルボナーラ。

 でも僕の母さんはもちろんカルボナーラなんて作ったことがない。

 そんな矛盾すらもうまく混ぜてまろやかにしてしまうような、そんな奇跡の料理だ。


「お姉ちゃん、どうしよう? ハル兄さんが料理人みたいなこと言ってる」


「もう少し頭を使って考えろ桜子。波瑠が人間みたいなことを言っているのがそもそもおかしい」


「そこの姉妹! 僕に対して何か言うことはありませんかねえ?」


 こめかみを引くつかせながら言うと、


「ハル兄さん、どうして日本語をしゃべっているんですか?」


「お前に何か言ったところで会話が成り立つ見込みなんてねえだろ?」


 あたり前のようにそう言い返されてしまった。

 ひどい! ひど過ぎる!

 ぼく今まで日本語喋ってたじゃん!

 会話のキャッチボールを君たち姉妹と何度も交わしてたじゃん!

 神楽坂さんに僕がチンパンジーだって思われたらどうするんだよ!

 責任取れるのか君たちは!


 優しさも何もない毒舌姉妹ふたりを視線で睨みつけて黙らせてから、僕は様子をうかがうように神楽坂さんの方を見た。

 神楽坂さんはまだ何かを考えている様子で、やがて僕に向かって顔を上げた。


「最後にひとつだけ、聞いてもいい?」


「僕に答えられることなら」


「どうしてパンチェッタでもベーコンでもなく、ポークランチョンミートを使っているの?」


 なぜそのことを聞いてきたんだろう?

 もしかしてベーコンの方が良かったとか?

 でもあの時、神楽坂さんがスーパーでパンチェッタの代わりになると言って紹介してくれたものだし、嫌いってことはないと思うけど。

 そう思いながら、僕は正直に、菜摘さんにしたのと同じ考えを口にした。


「こっちのほうが、神楽坂さんの口に合うかと思って」


 神楽坂さんの目は鋭い。


「それはお師匠さんに教わったこと?」


「僕の独断だよ」


 ちなみに瑠香はベーコンを使うことを勧めてきたが、僕がポークランチョンミートを使いたい理由を話すと理解して引き下がってくれた。


『ご主人様の気遣いが、神楽坂さんに届くといいですね?』


 そう言って瑠香は微笑んだのだが、果たして……。

 やがて神楽坂さんは肩の力を抜いて、クスクスと笑い始めた。


「そっか。そうなんだ。私のため、なんだね?」


 改めて答えるまでもないだろう。

 そもそもこの試食会もどきの集まりだって、僕が神楽坂さんのためにしてあげたいと思ったことが発端なんだ。

 神楽坂さんのことを想って作らないなんてことの方がおかしい。

 そういう風に頭の中で論理を組み立てて、心の安寧をはかっていると、すっかり表情を砕かせた神楽坂さんがこんなことを言ってきた。


「ホントはね。馬鹿にしてたの」


「え? 誰を?」


「波瑠くんを」


「うおおおおいっ!? 唐突なディスリやめてもらっていいですか!?」


 しかし神楽坂さんは僕のツッコミを笑顔で受け流して、言葉を続けていく。


「どうせ下心なんだろうなってずっと思ってた。他の男子と同じように、言い寄るための口実でこんなことをしてきたんだろうなって」


「? ハル兄さんは百パーセント下ごこr――――」「おっと桜子ちゃん。今は真剣な話の途中だ! 言葉を挟むのは無しにしようぜ?」


 僕は桜子ちゃんの口に前掛けを突っ込んでやった。

 言わせねえぞ?

 僕の恋を終わらされてたまるものか!


「きっと、下心だけだったら、このカルボナーラは出来ていなかったと思うの」


 神楽坂さんがしみじみとつぶやく。

 そして僕を見据えてきた。


「学校で言ってくれた言葉も、本気なんだよね?」


 その言葉が何なのか、忘れてしまうような僕じゃない。

 僕が恋してやまない神楽坂さんのために捧げた熱い思いだ。

 忘れるわけない。

 僕はもう一度、あの時の言葉を口にする。


「大学生活はまだあと一年以上あるんだから。あきらめるのはまだ早いって」


 神楽坂さんは僕の言葉を胸に刻みつけるように、両手を胸に押し当てて目を閉じる。

 次に目を開いた時、彼女の目に濁った色は浮かんでいなかった。


「ごちそうさまでした。ありがとう、波瑠くん」


 そう言って彼女は立ち上がる。

 時計を見ればもう開店時間まであと十五分くらいしかない。

 僕は紳士らしく、去り行く彼女を店の入り口まで送ってあげた。

 意外と重たい木製のドアを男の僕が開けてやる。

 神楽坂さんはちょこっと会釈をして外に出た後、去り際にこう言ってくれた。


「また波瑠くんのお店に来てもいい?」


「もちろんです。またお待ちしております」


 知り合いにするには慇懃だと思えるほどに、丁寧な言葉で、丁寧な所作で神楽坂さんを見送る。

 そんな僕を見て、彼女は可愛らしく微笑んでから駅に向かって歩き去っていった。

 彼女の背中が見えなくなるまで見送ったあとにホールへ戻ると、


「ここはてめえの店じゃねえ。アタシの店だ」


 不満顔の菜摘さんに小突かれたのだった。

 細かいなあ。

 僕の働いているお店の略で『僕のお店』でいいじゃないですか。


「まあなにはともあれ、とりあえず今日はメインに入ってみるか?」


 菜摘さんの言葉に僕は少し驚いた。


「いいんですか?」


「いちおう約束だし、店の器具使ってあれだけのパスタ作れるならなんとかなるだろ」


「でも今日のカウンター担当がいなくなっちゃいますよね?」


「それなら私に任せて! ハル兄さん!」


 バックヤードから桜子ちゃんが出てきた。

 いつの間に着替えたのか、僕とおなじバーテン制服を身に着けている。


「任せちゃっていいの? 桜子ちゃんの迷惑にならない?」


「ぜんぜん! むしろハル兄さんがカウンターキッチンからいなくなってくれれば、毎日お姉ちゃんの店で働けて、シフトに出た分給料ももらえるのになあって思ってたので!」


「そっか」


 桜子ちゃん、僕のことを邪魔だと思ってたんだ。

 悲しくなるよ。


「ち、違うんですハル兄さん! 私はべつにハル兄さんのことを邪魔だと思ってたわけじゃなくて! もう二度とカウンターキッチンシフトに入らなくていいって思ってただけなの!」


「もう桜子ちゃんはフォローしようとしなくていいよっ!?」


 傷口に塩を塗るどころか、その上から熱湯をかけて大惨事にしてしまうような、悪意のない罵倒が身に染みるぜ!


「バカなことやってないでさっさと持ち場につくぞ? 桜子! カウンターは頼んだから」


「任せてお姉ちゃん!」


「おい。バカはこっちだ」


「それ僕のこと呼んでるんですかねえっ!?」


 どうやら僕はメインキッチン配属になっても、この店での人としての扱いに変化はなさそうだった。

 泣けるぜ。

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