第14話 至高のカルボナーラ
師匠である
それは小瓶に入った黄緑色の粘性のある液体だ。
「これは?」
瑠香にたずねると、彼女は恥ずかしそうに頬を染めた。
「
「オーケー。ドブに捨てればいいんだな?」
「嘘です! 冗談ですってばご主人様!」
必死になって止めてきたので、とりあえず言い分を聞いてやることにした。
「市販のオリーブオイルをその小瓶に少しだけ移し替えたんです」
「何のために?」
「ご主人様、
ああ、なるほど。
ようするにお守りみたいなものか。
なかなか粋なことをしてくれるじゃないか。
僕はその小瓶を財布の中に入れた。
そして瑠香をふり返る。
「行ってくる」
僕が言うと、瑠香は笑顔で応えてくれた。
「健闘を祈ります!」
◇◆◇◆◇
神楽坂さんに指定した十六時よりも少し早めについた僕は、いつものバーテン制服に着替えて簡単に仕込みを行った。
手際よくすぐに作れるように、卵黄と生クリームとパルミジャーノチーズを混ぜ合わせた卵液を作り、カットが必要なポークランチョンミートを適当な大きさにそろえて切っておく。
ちなみに材料は、持ってこれるものは僕の家から持ってきた。
材料の些細な違いが料理に影響を与える。
プロの料理人はその影響すら加味して調理をするらしいけれど、僕みたいに付け焼刃の料理人もどきじゃそれは不可能だ。
だからなるべく練習で使った材料とおなじものを使った方がいい。
瑠香に勧められたことだ。
ゆで汁を沸騰寸前まで温めなおしたところで、店のドアがカランカランと音をたてて開いた。
神楽坂さんが来たのかと思って覗いてみると、
「ハル兄さん、気合入ってますね!」
やってきたのは菜摘さんの妹の
今日もサイドテールが元気よくぴょんぴょんと跳ねている。
桜子ちゃんは今日シフトに入っていない。
それなのにお店に来てくれたということは……。
「桜子ちゃん、もしかして僕の応援に来てくれたの!?」
「まさか。そんなわけないじゃないですか。ハル兄さんが変なもの入れて他人に害を与えないかどうか見張るためですよ?」
「そんなことするわけないだろっ!」
料理をしようとする人間としてどうなんだそれは。
僕は振舞う相手を不幸にしたいわけじゃない。
少なくとも神楽坂さんに少しでも喜んでもらえるように作るよ。
などと思っていると、桜子ちゃんはハッとした様子でブンブンと首をふり、僕のことを擁護し始めた。
「私もハル兄さんが意図的にやるとは思ってないの! ただ間違って包丁の破片とか、割れたグラスとか、鉄フライパンを洗う用のたわしを入れちゃったりしないか不安で」
擁護されたほうが傷つくってどうなのさ?
もう声に出してツッコミを入れる気力もないから心の中で叫ぶ。
そんな間違い方しないよ!
「お邪魔しま~す」
桜子ちゃんから親切な毒舌を食らっていると、またお店のドアが開いた。
キッチンからのぞいてみると、今度こそ神楽坂さんだった。
今日は黒のスキニーデニムにワインレッドのシャツを合わせた、上品なコーディネイトだった。
さすが神楽坂さん! パンツルックも良く似合う!
「波瑠くん昨日ぶり。美味しいカルボナーラをお願いね?」
キッチンの中で準備をしている僕の方をのぞいて、そう微笑みかける。
僕はサムズアップで応えた。
そのジェスチャーを見て、神楽坂さんは可笑しそうに笑った。
そして桜子ちゃんに席へ案内される。
さて、いよいよ料理にとりかかろうか。
そう思っていた時に、菜摘さんが不穏なことを口にした。
「手ごわい女だね、あれは」
「え? どういう意味ですか?」
「顔に出してる態度と中身がチグハグだって言ってんのさ。あの子、相当スれてるよ。並大抵のことじゃ心を動かさないだろうね」
そんなことはない、と言いたかった。
でもよく考えれば神楽坂さんは大学でとっても人気な女の子だ。
いろんな人からの誘いもある。
世慣れしていて当然だろう。
そんな子がどうして僕のバカみたいな誘いに乗ってくれたんだろう?
「まあ、案外あの子もバカかもしれないね。お前とは違った方向で」
菜摘さんがつぶやく。
僕はその言葉の意図がわからずに首をひねった。
「とにかくさっさと作りな? 残飯みたいなのさえ作らなけりゃ、またウチのメインキッチンで働くことを許可するからさ」
まるで僕が負けること前提みたいな会話の進め方だった。
菜摘さんのその言葉のおかげで、僕の心の中に火がともる。
見てろよ?
そして出来上がったものを食べて頬を落とせ!
僕は最高のカルボナーラを作ってみせる!
シャツの袖まくりをして、僕は手を洗った。
下準備をする前にも手を洗っているけれど、本調理の前にも念のため洗っておきたかった。
手についた水滴が熱したフライパンに飛んで油をはねさせないよう、しっかりとキッチンタオルで水気を拭き取る。
そしてゆで汁の中に乾麺パスタを放り込んだ。
「料理人らしい動きはできてるじゃねえか」
そばで見ている菜摘さんが褒めてくれる。
「ちなみに材料はどんな感じなんだ? 見慣れないものもあるが?」
そう言ってきた菜摘さんのために、僕はざっと材料紹介をした。
・1.6mm 乾麺パスタ 100g
・オリーブオイル 大さじ2
・ポークランチョンミート 適量
・卵黄 2個
・生クリーム 50cc
・パルミジャーノチーズ 大さじ3
・あらびきコショウ 適量
ここまでがカルボナーラでお馴染みの材料群だろう。
「そのペットボトルに入ってるタレみたいなのはなんだ?」
菜摘さんが質問してくる。
僕は馴染みの材料のほかに、あらかじめ作ってきた必勝のタレをペットボトルに詰め替えて持ってきていた。
このタレが何なのか教えてもいいんだけど……
「食べてからのお楽しみですよ、菜摘さん」
そう言って菜摘さんの料理人としての本能に訴えかけるように返すと、鼻で笑われた。
「一丁前に料理人ヅラしやがって」
本格的に料理を初めてまだ一週間足らずなんだ。
そうやって軽く見られてもしょうがない。
だからこそ実際に食べた時にうならせてみせる。
そういう意気込みを持って、僕は調理に向き合った。
「ゆで汁の塩分濃度は何パーセントでやってるんだ?」
菜摘さんが聞いてくる。
「0.7%です」
「薄いな? 普通は1%~1.5%の間でやるんだが?」
ただの質問に聞こえるけれど、なかなか意地が悪い。
実際に菜摘さんはニマニマと笑みを浮かべている。
お手本のレシピから外れるなら、それなりの理由が必要なのだ。
もしそれがないのなら、人に料理を提供する身として失格である。
でも、残念でしたね菜摘さん?
僕には薄めのゆで汁で麺をゆでる理由がちゃんとある。
「僕が教わったカルボナーラは、通常通りの塩分濃度でゆでるとしょっぱくなりすぎるんです。だからフライパンでソースと
「でもゆで汁が薄いと麺に移る塩気も薄くなるだろう? 出来上がったパスタを口に含んだ時に麺と塩気の一体感がなくなるんじゃないか?」
「それを防ぐために速めに麺をゆで汁から上げるんです。アルデンテよりもかたい、まだ芯の硬さが残っている状態で上げて、フライパンで作ったソースと混ぜながら、そこで塩気を吸わせるんです」
「なるほどな。おそれいった」
菜摘さんが感心したようにつぶやいた。
僕がいい加減に作っているわけではないとわかったのだろう。
菜摘さんにちょっとだけ認められた気がして、少し嬉しかった。
けれど喜んでばかりもいられない。
パスタをゆでている間にソースの方を作らないといけない。
僕はフライパンにオリーブオイルを引いて、冷たいうちにポークランチョンミートを投入した。
強めの弱火でチリチリと揚げるように炒めていく。
「ポークランチョンミートを使う理由はあるのか?」
また菜摘さんがたずねてきた。
けれど今度は嫌味な態度はなく、純粋に理由を知りたがっている感じだ。
僕がちゃんと料理をしていると認めてくれたからこそ、そういう質問の口調になったんだろう。
「パンチェッタの代わりになる塩漬けの豚肉だということがまずひとつです」
「他の理由は? それだけの理由ならベーコンでもいいだろう? 同じ豚肉だし、しかも日本ではベーコンを使ったカルボナーラの方が浸透している」
たしかにそうだ。
ベーコンも塩気はあるし、しかも燻製香もあってうま味が凝縮されている。
ベーコンを使ったカルボナーラはパンチェッタを使ったものとはまた違った風味になる。
でも僕はあえてベーコンを使わないことにした。
このポイントだけは、瑠香から教えられた事じゃなくて、僕が独断で決めたことだ。
「それは……神楽坂さんから教えてもらったんです。ポークランチョンミートがパンチェッタの代わりになることを」
普通の女の子はまずそんな知識を知っていたりしないだろう。
神楽坂さんの実家が創作料理イタリアンをやっていることもあるだろうが、それだけでは生まれも育ちも関東人の僕に勧めてくる理由としては、まだ弱い気がする。
たぶん神楽坂さんにとって、ポークランチョンミートを使う料理が舌に慣れているんだ。
だから僕は神楽坂さんの舌に合わせるという意味を込めて、ベーコンではなくポークランチョンミートを使うことにした。
僕の話を聞いて、菜摘さんがふたたび感心していた。
「お前は良い料理人になる」
そう言って、はかなげに笑っていた。
その様子が少し気になったけれど、僕は構わずに料理に集中する。
ポークランチョンミートに良い感じに焦げ目がついたところで、乳化の工程に入る。
普通はここで使うのはパスタのゆで汁だ。
けれど僕が使うのは、さっき菜摘さんに突っ込まれたペットボトルの中に入っているタレだ。
「なるほどな。そこでそれが出てくるわけか」
「今は理由を聞かないでくださいね? 食べる時のお楽しみということで」
そう念押しして、僕はフライパンに油と同量の謎のタレをくわえた。
ジュワっと水気の蒸発する音があたりに響き、フライパンの中のソースが煮詰まっていく。
少しフライパンをふると、中のソースが白濁してきた。
それと同時にふわっと優しい香りがたちのぼる。
むかし、母さんが作ってくれたような優しい煮つけ料理の甘い香りだ。
その匂いをかいだ菜摘さんがうなった。
「なるほどな」
「バレちゃいましたか? タレの正体」
「なんとなく、な。だがこんな作り方をするカルボナーラは見たことがない」
そう言って菜摘さんが微笑む。
嫌味な笑みじゃない。
出来上がる料理を待ちわびている時のような、純粋な笑顔だ。
「本音を言うと心配だったんだ。またお前がやらかすんじゃないかってな」
それだけつぶやくと、菜摘さんはホールの方へと向かって行った。
最後まで見なくていいんだろうか?
そう思って彼女の背中を目で追いかける。
ホールへと出ていく直前で、菜摘さんは思い出したように僕の方をふり返った。
「楽しみにしてるぞ?」
その言葉が、僕の心の中で自信へとつながったのだった。
やがてパスタが茹で上がる。
フライパンでソースと
絶妙なとろみがついたところで、お店で使っているパスタ専用の皿に盛りつけていく。
盛り付けたところで上から追いチーズ、そしてあらびきコショウをかけて完成――――
「完成じゃなかったね。危ない危ない」
そこで僕は師匠である瑠香から教えられた、最後の教えを思い出した。
『料理のおいしさは匂い、味、そして見た目で決まります』
盛り付けたパスタの皿を見る。
その淵にカルボナーラのソースが跳ねていた。
盛り付ける時にどうしても汚れてしまう時だってある。
だから最後に、それを清潔な布巾で拭き取って、見た目を完璧にして提供する。
『せっかく美味しいものを作っても、見た目で減点されたくないですよね? だから作り終わったあとに、必ずチェックしてください♪』
ありがとう瑠香。
お前のおかげで最高のカルボナーラができたよ。
そして僕は盛り付けた皿を持って、ホールへと向かう。
ボックス席に座っていた神楽坂さんの前に、静かにそれを置いた。
「お待たせしました。至高のカルボナーラです」
僕のもの言いに、少しびっくりしたように神楽坂さんが反応する。
そんな彼女に対して、営業スマイルを崩さずにこう続けた。
「熱いうちにお召し上がりください」
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