第8話 呑み処『ヴィーノ』

 瑠香るかが作ってくれたカルボナーラを食べて少しのんびりした後に、僕はバイトへ行く準備を始めた。

 時刻は十五時を回ったところだ。

 正直に言うと家の中に瑠香をひとり残して出かけることに不安があったけれど、絶対に部屋の外へ出ないように強く言い聞かせておいた。


「心配性ですねご主人様は。そんなにわたくしのことが気になりますか?」


 人がせっかく心配してやってるのに、見ていて腹立つような笑みを浮かべて煽ってくるから殴りたくなってくる。


「帰りは遅くなりますよね?」


「そうだな。閉店してから締め作業も手伝うから、日付をまたぐと思う」


「そうして疲れて帰ってきてベッドに仰向けに寝転んだご主人様を、わたくしがまたげばよろしいでしょうか?」


「よろしくねえよ」


 うまいこと言ったつもりかよ。

 胸はともかく顔は良いんだから下品な下ネタを言うんじゃないよ。

 僕は必要最低限の荷物をショルダーバッグに入れて玄関へと向かう。


「じゃあ行ってくる。眠かったら先にベッド使って寝てていいぞ?」


「先にベッドでって……はっ!? まさかご主人様の方から私(わたくし)をまたぐおつもりでっ!?」


 瑠香がまた馬鹿なことを言い出して、自分自身を抱きしめるように両腕をまわして身悶えする。


「だ、ダメですっ! そんなっ、主と従者の禁断の関係だなんてっ」


「あと三カップ大きければ寝込みを襲うのもやぶさかではなかったんぃぃいたたたたたっ!? こゆびっ!? 僕の小指がもげるぅっ!?」


「女の子のコンプレックスを平気で踏みつけてくるご主人様には、反省の意味を込めてわたくしに小指を差し出してください」


「怖すぎるわっ!」


 ヤクザの指詰めかよ!

 やがて小指の筋が伸びきったところで、瑠香は手を放してくれた。


「冗談はさておき、わたくしはご主人様が帰ってくるまで起きています」


 人の小指を再起不能にしかけたことを『冗談』で済ませようとするところが恐ろしい。

 傷めた小指をさすりながら、反抗の意思を込めて睨もうと目を向けると、


「ご主人様にお帰りなさいって、言ってあげたいんです」


 彼女の優しい微笑みに毒気を抜かれてしまう。

 女ってずるいよな、ほんとに。

 こんな顔されたら怒れないじゃないか。

 僕もつられて笑顔になる。


「行ってきます」


「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」


 玄関前でペコッ、と頭を下げる彼女を見て、気恥ずかしくなった僕はそそくさと部屋を出たのだった。





   ◇◆◇◆◇





 僕がアルバイトをしている居酒屋の名前は『ヴィーノ』と言った。

 どこかの国で『安いぶどう酒』という意味の言葉をもじってその店名にしたらしい。

 そんな意味の言葉が元になっているからというのもあって、比較的安価でフードやドリンクを提供している。


 店内はどこか古めかしい落ち着いた内装になっている。

 そのうえテーブルやイス、そのほか置物がアンティークものっぽいデザインになっているため洒落た雰囲気だ。

 正方形のホールに、横長のキッチンが北側と東側に接している構造で、北側の方がカウンターキッチンと呼ばれていてドリンク専用、東側の方はメインキッチンでフード専用となっている。

 店内がそれほど広くないこともあって、お客さんからキッチンの様子が見えたりするのもこの店の特徴だ。


 バックヤードでスラックスに白ワイシャツ、そして蝶ネクタイという店の制服に着替えて、タイムカードを押してからメインキッチンへと向かった。


菜摘なつみさん、お疲れ様です!」


 白いコック服に黒いエプロンをしている彼女は、この店『ヴィーノ』の店長で羽柴はしば菜摘なつみさんと言う。

 今年で二十七歳になる彼女は、大人の色香があって美人なだけでなく、フライパンを振るのに邪魔になるんじゃないかと思うくらいに胸が大きい。

 瑠香のペチャパイと比べると雲泥の差だ。

 神様は残酷だ。


「ボサッとしてるんじゃないよ波瑠はる! さっさと仕込みやりな?」


 個人的に思うことなんだけど、オラオラ系の強気な性格も彼女の魅力のひとつだ。

 こういうの姉御肌って言うんだっけ?

 このお店でアルバイトをし始めた最初のころは、菜摘さんのこのキツイ性格が怖くて仕方なかったけれど、今はこうして強気な言葉を体に浴びなければ満足を得られないほどに調教されてしまった。


「あれ? 今日のメインキッチンは菜摘さんひとりなんですか?」


 キッチン内を見回しながらたずねると、菜摘さんから舌打ちが返ってきた。


「昨日の夜、辞めるって連絡があった」


「またですか?」


 菜摘さんの良さを語った僕だけれど、やっぱり厳しくされると辛すぎて辞めていく人も多い。

 今回のメインキッチン候補の人は二ヶ月もったから長い方だけど。


「どいつもこいつも軟弱すぎる。飲食を舐めてんのかって」


「まあまあ、菜摘さん落ち着いてください。そんなに硬く考えちゃダメですよ。おっぱいみたいに柔らかくなりましょうよ?」


「てめえをミンチにして柔らかくしてやろうか?」


 眼光するどい菜摘さんが言うと本気にしか聞こえない。

 発言には気をつけないと……いや、でも菜摘さんに罵られる快感を無意識に体が求めてしまう!


「こっちは猫の手も借りたいってくらいに忙しいってのに」


「僕の手ならいつでも空いてますよ?」


「死ね」


 酷い言われようだ。

 『ありがとう』でも『いらない』でもなく『死ね』ときた。


「ちょっとしたこともできないんじゃ、メインの方にいられても邪魔なだけだ」


 菜摘さんがため息交じりにそう言った。

 実は僕も一度だけ、メインキッチンでいろいろ教わりながら料理をした経験がある。

 その時に菜摘さんから『今まで入ったメインキッチン担当のバイトで一番やべえ』と褒められた。


「褒めてねえよ」


 心を読まれてしまった。


「ガーリックライスを焦がす。油を必要以上にはねさせてキッチン内をベトベトにする。オーブンの操作をミスって壊す。料理音痴ってレベルじゃねえよ」


「だってあれは菜摘さんがめちゃくちゃ急かすから」


「チンタラしてんだから急かしてあたり前だ。注文した客は料理を待ってんだぞ? 少しでも早く美味いもんを出すのが基本だろーが」


 そう言われるとぐうの音も出ないのである。

 菜摘さん、自分に対しても他人に対しても本当に厳しい人だ。

 そんな菜摘さんだからこそ、その下で働きたいと僕は思って半年もこのバイトを続けている。


「いいからさっさとカウンターに行け! さっきレモンとオレンジが届いたから、今日使う分のスライスとピールを作っとけ」


「イエス、マァム!」


「ふざけた挨拶してんなよ。三枚におろすぞカス?」


 これ以上ここにいると本当に殺されそうだったので、僕は逃げるようにしてドリンク専用のカウンターキッチンの方へと向かったのだった。





 今日は日曜日ということもあって、早い時間にお客さんが集中した。

 月曜日から仕事の人が多いため、遅い時間まで残ることをしないのだ。

 閉店の十一時半まで残るお客さんもいるけれど、そういうもの好きはいつもの常連客たちだ。


「波瑠くんもバーテンが板についてきたねえ」


 そう言うのは恰幅かっぷくの良い中年男性の世木沢せぎさわさんだ。

 わざわざ自分が座っている席からカウンターまで移動してきて、僕に話しかけに来てくれた。


「バーテンって言っても混ぜるだけですけどね」


「シェーカーだってきちんと使えてるじゃないか」


「菜摘さんにボコられるくらいしごかれましたから」


「はははっ! 羨ましいなあこの野郎」


 酒でほんのりと赤く染まった頬をクイッと持ち上げながら世木沢さんは笑った。

 世木沢さんは店が新規オープンした五年前からずっとこの店に通い続けているらしい。

 お店のことに関しては僕よりも詳しかったりする。

 今日も他に数名の常連さんとつるんでお店に来てくれていた。


「これで波瑠くんが美少女JDだったら言うことないんだけどよ。波瑠くんの前のバーテンなんて女だったんだぞ? なっちゃんがブチ切れたせいで辞めちまったけど」


 なっちゃんというのは菜摘さんのことだ。

 世木沢さんはお酒が入ると店の昔話をよくしてくれる。

 僕はやれやれと思ってため息をついた。


「そんなこと言ってるとまた菜摘さんに怒られますよ?」


「そんなこと言ってもしょうがねえだろ? 波瑠くんだって男が作る酒と女が作る酒、どっちが飲みたい?」


「女ですね」


「真顔で即答するあたりお前も女好きじゃないか!」


 仕方ないじゃないか。

 この店でバーテンっぽいことしてる僕が言うのもアレだけど、やっぱりひとりの童貞から見ると、フードでもドリンクでも男が作るか女が作るかで雲泥の差が出る。

 なにも男が作るフードやドリンクが不味いと言っているわけじゃない。

 女が作ることで料理の価値が飛躍的に上がるのだ。

 有名人が原価数百円の色紙に書いたサインが、のちの世になって数千円とか数万円に価格が跳ね上がったりするでしょ?

 それと同じ理論だ。


「まったく。今日もラストまで居座りやがって」


 世木沢さんの笑い声を聞きつけたのか、眉間にシワを寄せた菜摘さんがメインキッチンからホール側に出てきた。

 片手には中華鍋を持っている。


「余り物で焼き飯作ってやったから、これ食ったら出てけよ? もう閉店時間なんだ」


「さすがなっちゃん! 気が利くぜ!」


「チョー美味そうじゃん! やべえなっちゃんと結婚してえ!」


「はははっ! 一生尻に敷かれておしまいになるぞ?」


「俺はそれでも構わない!」


 いつもの常連たちが口々に陽気な談笑をする。


「くだらねえこと言ってないで、さっさと食って出てけ! 出禁にするぞ?」


 菜摘さんの脅しに対して、カウンター側にいた世木沢さんが自信満々な顔で口を開く。


「出禁になったくらいじゃあ、俺たちはなっちゃんの店に来るのをやめないぞ?」


「そろいもそろって馬鹿どもが」


 焼き飯を皿に盛り終えて、そう毒づきながらキッチンへと戻っていく菜摘さん。

 しかしその表情はどこか嬉しそうだった。

 そんな菜摘さんだからこそ、常連客たちもこの店を愛している。

 けっきょくこの店を支えているのは、いまこの場にいるような、菜摘さんに怒られるために通っているドMな常連客たちなのだ。


 彼らは菜摘さんが作ってくれた焼き飯を仲良くわけて平らげていく。

 そしてひと息ついてから荷物をまとめて席を立った。


「じゃあな波瑠くん。また会おう。なっちゃんもまた明日な!」


「二度と来んな!」


「はいはい。じゃあな!」


 世木沢さんを含めた常連客達が帰っていく。

 僕と菜摘さんはそれをホールで見届けた。

 彼らが退店するのを見送った後で、菜摘さんが鼻で笑った。


「あんな馬鹿どもじゃなくて、もっとまともな客が来てほしいもんだな」


「そうですか? いいお客さんじゃないですか。みんな菜摘さんのことが好きなんですよ」


「あいつら、アタシの胸しか見てこねえし」


 そう言って菜摘さんが腕組みをする。

 押し出されてより強調されたおっぱいを凝視してしまわないように凝視しながら、僕は世木沢さんたち常連客の名誉のために口を開く。


「男はすべからくおっぱいが好きですからね。僕だって菜摘さんのおっぱいを好きなように揉みしだけるのなら――――」


 気づいたら頸動脈すれすれに包丁を突き付けられていた。


「す、すみません冗談です」


「冗談のセンスがないぞ? 一度死んで出直してきたらどうだ? 手伝ってやるぞ?」


「いえ、まだ生きていたいんでけっこうです」


「チッ」


 聞きましたか今の?

 この人いま舌打ちしましたよ?

 そんなに店の従業員を殺したいのかな?

 本当に言葉に気をつけないと、いつか僕はガチで殺されそうだ。


「波瑠もなんか食ってから帰るか? 適当なもんで良かったら作れるぞ?」


 ついさっきまで僕の首筋に包丁を突き付けていた人の言葉とは思えない。

 その切り替えの速さに驚きつつ、僕は首を横に振った。


「家にご飯があるので大丈夫です」


「さすがに家畜でも食えないような残飯より不味いものばっかりだと身がもたねえだろ?」


「ちゃんとしたご飯を食べてますよっ!」


 なんで汚飯を食ってる前提なんだよ。

 菜摘さんの中で僕はどう思われているんだ?


「だってお前、料理できねえだろ? 店のものは壊すわ焼き飯は黒焦げだわ」


「カップラーメンとか、即席ものとかあるじゃないですか」


「カップラーメンはコンロにかけたらダメだぞ? 知ってるか?」


「知ってますよっ!」


 ていうかそこは料理の上手い下手以前の問題だろうが。

 瑠香るかにも似たようなことを言われたけど、僕の周りにいる女性たちは僕のことをなんだと思っているんだ?

 こんど喫茶店の真咲まさきさんにも聞いてみよう。

 真咲さんならきっと僕のことをわかってくれているはずだ。

 などと考えていると、


「お前、女でもできたか?」


 不意に。

 本当に突然に、菜摘さんがそう聞いてきた。

 僕は一瞬ドキッとしてしまう。

 彼女ができたわけじゃないけれど、同居している頭おかしい女の子はいる。

 返答に困っていると、それを返事だと受け取ったのか、菜摘さんが僕の肩を叩いて微笑みかけてきた。


「おめでとう。ゴリラかサルかイノシシかゾウリムシかわからねえけど、末永く幸せにしろよ?」


「なんで人間という選択肢がないんですかっ!?」


 せめてサルで止めとけよ。

 なんだよイノシシとかゾウリムシって。


「まあなんにせよ、締め作業はアタシがやっとくから波瑠は帰っていいぞ?」


「え? いいんですか? だって僕、まだ何も片付けてないですよ?」


「待ってる奴がいるんだろ?」


 思わず息をのんでしまった。

 それと同時に菜摘さんの気遣いに感動してしまう。

 僕に背を向けてキッチンへ向かおうとする菜摘さんに言葉をかける。


「ありがとうございます」


「礼には及ばねえよ。いつもこんな遅い時間までシフトに入ってもらってんだ。むしろ礼を言うのはこっちの方だ」


 菜摘さんがふり返って、近所のガキ大将みたいな気持ちのいい笑みを浮かべてくる。

 こういうところも菜摘さんが素敵な理由のひとつだ。


「ミドリムシだかゾウリムシだか知らねえけど、頑張って育てろよ?」


 同居しているのが人型だということをかたくなに認めようとしないところだけ腹が立つけど、瑠香の存在が知られて大きな騒ぎになったりしても困るし、勘違いしてくれるならそのままにしておこう。

 ものすごくモヤモヤとした気持ちを抱えながら、僕は服を着替えて店を後にしたのだった。

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