あやまちすら、

石川あかり

第1話 踏み出すには

 俺は知らなすぎる。なにもかも。

例えば俺は、俺の両親の名前を知らない。文字の読み方も書き方も知らない。

 俺が何も知らない奴だってことは、唯一ちゃんと分かってるつもりだ。


 真っ白な石でできた床と壁、天井には白く光る棒が並べて貼ってある。そのおかげで地下でも辺りがはっきり見渡せた。広い空間だ。砂の無い地面を俺は知らなかった。辺りを照らす白い光も、見たことがなかった。

 その広い空間の真ん中に、また俺の知らない大きなものがある。

 おそらく鉄製、俺の背たけより高くて、見たことない扉がついている。扉の開けかたが分からない。俺たちの暮らす布製のテントとは似ても似つかないが、きっと誰かの家なんだろう。しかし人の気配はない。


 この扉をどうしても開けたい。扉から突き出た、歪な形の鉄の固まりに触れてみた。冷たい。引っ張ってみるが、開かない。

 貴重な鉄をこんなに使った家なんだ、中に金目のものがあるはずだ。なんとしても扉を開けたい。鉄の突起から手を放して口のなかで呼び掛ける。

 開け、ひらけ、俺を入れろ。


 扉は音もなく勝手に開いた。最初から、こうすればよかった。

 薄暗いが、中には金目のものがなさそうだとわかった。正しくは、俺に価値のわかるものはなさそうである。


 二つの棚と机、どれもきれいだけど持って帰るには大きい。一つの棚にはきれいな本が詰まっていたが、俺は文字が読めないからどれを持っていけばいいかが分からない。もう一つの棚はもっと価値が分からないものが並べられている。液体の入った瓶、粉の入った瓶、対になってる鉄の細い棒、ガラスの棒、使うには小さすぎる透明なガラスの皿、他にも俺の見たことの無いものが並べてある。

 お、棚の上段に鏡がある。鏡は欲しい。手を伸ばしたがなかなか届かず、代わりに液体の入った瓶が落ちてきた。

 たぱたぱと瓶の中身がこぼれていく。床にとろみのある液体が円く広がった。舌打ちしながら鏡を見上げて降りてこいと念じると、鏡は舞い降りるように俺の手にゆっくり収まる。あまり、こうしたくはないのだ。

 もういい、これだけで取り敢えず今日は帰ろう。砂漠のど真ん中のマンホールでもなかなか凝った造りだったから、物好きな金持ちの別荘やもしれないと思ったのだが、この奇妙な部屋の持ち主は物好きが過ぎる。今日は疲れた、ゆっくり帰ろう。

 そもそも、あんな仲間のいる場所、早く帰りたくなりもしないのだ。


 鉄の塊でできた部屋から出ようとすると、開けたままの扉からどこから入ってきたのか、小さなねずみがちょろりと入ってきた。ねずみは薄暗いさっきの部屋を気配になって素早く移動している。俺はねずみに何とはなしに注意を向けていた。

 ねずみは部屋の中をしばらくうろついて、俺がこぼした瓶の液体をなめているようだった。砂漠の生き物には、水なんてほとんど必要ない。珍しいなと思っていると、ねずみが発していた水を飲む音とも気配ともつかないその雰囲気が、ピタリと止んだ。

 俺がなんとなく少し引き返してようすを見に行くと、俺の耳ぐらいの大きさの小さなねずみは動かなくなっていた。尻尾を持ってねずみをつまみ上げる。完全に息をしていない訳ではないようだ。しかし揺すってみてもねずみは動かない。


 俺は鏡を胸元にしまって、片手にねずみを、もう一方の手で中身が半分こぼれた瓶と、棚にあったこれと似たような液体の瓶を、もう二本抱えた。ねずみを潰さないようにしながらねずみを持ったほうの手で梯子を登り、マンホールを出て地上に戻った。


 今は仲間のもとに戻りながら、この瓶を仲間からどう隠そうかを必死に考えている。

 これをうまく使えば、俺は今のこの生活から自由になれるかもしれない。

 現状から踏み出すには、まずは、枷となっているものを切り捨てなくては

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あやまちすら、 石川あかり @stone_river5108

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る