第三話 コロコロをコロコロ


 風呂から上がったオレは濡れた髪もそのままに、自室のベッドに寝転がった。


 家に居るといつもゲームをして過ごしていたが、独りになると稲瀬親子のことを考えてしまうのだった。


 宿題も遊びも手に付かねえよと思ったが、よくよく考えてみれば宿題を家に持って帰った事がなかった。折角の新作も積みゲーと化してしまうのは、悔しいことこの上ない。


 天井に手を伸ばして、自分の手のひらを眺めた。ボコボコでゴツゴツの男の手が、蛍光灯に照らされていた。古傷と浮き出た血管を見て、オレは昔の自分を思い出した。色々なものを壊して台無しにしたクソ野郎の手のひらだと思った。


「……もしかして、稲瀬みのりはともかく、詩織さんにもオレの過去を親父は言ってないのか?」


 それなら警戒もせずに、同居を了承したのも納得もいく。


 だとしたら、それはまずいのではないだろうか。確かにオレも先輩やクラスメイトにはそれを隠しているけど、これから結婚する女に自分の息子のことを話してないのなら大いに問題がある。後になってそれが原因で破綻になったとしたら、こっちが悪いみたいじゃないか。


「ちょっといいですか?」


 タイミング良く稲瀬みのりの声とドアを叩く音がしたので、オレは驚愕と共にベッドから起き上がった。


 五秒程黙って心臓を落ち着かせてたら、再びノックがあったので「どうぞ」と上ずった声になってしまう。


「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」


 そう言って、稲瀬みのりが部屋に入ってきた。聞きたい事とは何だろうか、まさかオレの昔の話じゃないだろうな。何を聞かれても動揺しないよう、大きく息を吸い込んで吐く。


 深呼吸を三回くらいしたが、質問は飛んでこなかった。どうしたのだと、オレは顔を上げてみる。稲瀬みのりはドアを開けたまま、顔を真っ赤にして固まってしまっていた。


「どうした?」


 こっちの一言に我に返った彼女は、顔がリンゴのように真っ赤になる。しばらくすると身体をブルブルと震わせて、こちらに人差し指を立てて叫んだ。


「なんて恰好してるんですか!」


 いまいちピンと来なかったオレは、改めて自分の恰好を見直した。上はタンクトップで、下はジャージの長ズボン。


 確かにこれは何という名前のファッションなのだろうか。夏の格闘家、パッション・ファイター・コーデゥネートとでも言えばいいのだろうか。


「どうしたの、みのり」


 彼女の大声がリビングまで聞こえたのだろう、詩織さんが階段を上がって部屋の前までやってきた。やばい。なんか誤解されると思ったが、今のこの状況を見て何を誤解するというのだろう。オレは堂々とすることとした。


「ママ、先輩が!」という稲瀬みのりの声に、詩織さんはオレの恰好を一瞥。状況を理解したのか、詩織さんが申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんね。ミナユキくん。この子中学まで女子校だったら、そういうのに免疫ないのよ」


 何か羽織ってあげて頂戴と言われたので、ハンガーに掛けてあった制服のブレザーに袖を通す。タンクトップに直にブレザーを着て、下がジャージという変質者みたいなコーデが出来上がった。パッション・ファイター・変質者・コーデネート。


「余計に変態臭さが増してます」


「それはオレも同感だ」


 オレはブレザーをハンガーに戻すと、しぶしぶクローゼットからパーカーを取り出した。この時期だし、風呂上がりでこれを着るのに抵抗はあるが仕方がない。


「ミナユキくんいい身体してるっていうか、男らしいから猶更なのよ。ごめんね」


 そう言い残し、詩織さんは部屋を後にした。階段を下りた後にキッチンに戻ったようだったけど、まだ親父は帰ってきていないのだろうか。 


「部室でもそうですけど」と、稲瀬みのりはドアを閉めながら言った。同じ部活に所属しているのは、彼女にとっても知られたくない事実なのだろう。


「先輩は少しだらしなさ過ぎると思います」


「過ぎる。ということは、少しじゃないんじゃないか?」


「揚げ足取りはやめてください」


「んで、何用だ?」


 溜息を吐いて、彼女は床のカーペットへと腰かけた。オレの部屋に女の子が入るのは久しぶりなので、もう少し綺麗にコロコロしておけば良かったと思った。


「これからのことなんですけど」


 これからというか、今からでも遅くはないか。オレは引き出しを開けて、粘着コロコロテープを探しながら会話を続ける。


「分かってる。学校ではオレらの関係は秘密、もちろん部室でもだ」


「それは当然です。ですが、一つ懸念事項がありまして……」


 粘着コロコロを見つけたので、オレは彼女の二メートル手前に胡坐をかいてコロコロをコロコロし始めた。


「先輩って恋人が居るんですか?」


「誰から聞いた。それ」


 オレはコロコロしていたコロコロを止めて、改めて彼女と向き合った。


「パパです。昔はよく家に連れてきてたって……」


 親父の奴め、余計な事を言いやがって。確かに中学の時、オレは付き合っていた女が居て、たまに家に連れてきていた。


 とっくの昔に別れていたのだが、その手の話を親父とはしていないので、まだ関係が続いていると思われていてもおかしくはなかった。彼女が危惧しているのは、今の状況でオレが恋人を家に入れてしまうことだろう。


「中学の時だから、今は居ない」と、オレはコロコロしていたコロコロを床に置いて、開いた両手を彼女の前に合わせた。


「お願いがある。それ、部の皆には言わないでくれ」


 こっちの姿勢が意外だったのか、彼女はしばらくポカリと口を開けてオレを見ていた。なんでと聞かれたら困るのは、先輩が好きだからと説明しなければならなくなる。それは恥ずかしいので何か言い訳を用意しなければだが、何も思いつかなかった。


「別にいいですよ」


 仕方なさそうな声にオレは顔を上げると、稲瀬みのりも虫を潰したような表情をしていた。


「なんで知ってるのかって聞かれたら、あたしも困りますもん」


 隠し事だらけですね、あたし達。


 そう言って彼女は苦笑いを浮かべるので、罪悪感を覚えてしまった。彼女は周りに隠し事はあるけど、きっと家族に隠していることはない。


 でもオレだけは稲瀬親子に言えていない事が、もう一つだけあるんだ。先輩への想い以外でな。

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