壱 海

私は暗いところにいる。真っ暗だ。なにも見えはしない。ただ自分がそこにあることが分かる。

下から何かが浮いてくる。白く光る丸い泡。その中には黄色い靄のようなものがはいっている。何だろう、これ。

身体を動かしてみる。重い。それに、何処か窮屈だ。まるで締め付けられているような。


そうか、此処は深い海の中だ。



「湖都、朝」

鞄に荷物を乱暴に突っ込む。そんなことは分かってる。学校、行きたくない。

「湖都!」

「今行く!」

ベッドに転がる携帯音楽プレイヤーとイヤホンをポケットに入れる。こんなものの持ち込みは、当然学校では禁止されている。

いそいそと階段を降りると、何も言われないうちに靴を履いて家を出る。自転車に乗りたっとこぎ出す。ご飯を食べずにでたから少しお腹が空いている。コンビニにでも寄ろう。イヤホンを耳にはめる。適当なのを選択して音楽を流す。すっかり日差しが肌を虐める季節になった。私、夏は嫌いなんだけど。

しばらく自転車を漕ぐ。海に隣接するこの街はそのせいもあって錆付いたシャッターが多く見られる。それに年中潮風が匂う。冬になると驚くほど寒い。

良いところ、ないな。

最寄りのコンビニに立ち寄り、パンを物色する。特に美味しそうなものがない。しいて言うなら、この甘そうなドーナツ。よし、これにしよう。それとミネラルウォーターを手に取りレジに向かう。会計時、美味しそうな唐揚げを見つけて一つ注文した。

再び猛暑の店外に出る。昼間はもっと暑いだろうな。とりあえず買ったばかりで冷えている水を飲む。夏は意味もなく喉が渇くからお金がかかる。今度から水筒だけでも作ってこようかな。面倒だけど。

少し錆付いてきた通学自転車に跨がりこぎ出す。籠に入れたレジ袋の中の品々が暴れる。この感じは嫌いでもない。

私は勝手に定位置に決めた場所に自転車を止めて降りた。そこは学校ではなく、海。砂浜に少しタイヤの跡が付いている。此処はアスファルト整備が施されていないため、車道を逸れればすぐ砂浜が待っている。籠から買ってきたものを取り海へと歩いて行く。ついでに、此処の砂浜は海との距離が遠い。恐らく三十㍍くらいはある。

靴と靴下を脱いで砂浜に置く。足裏から直に熱が伝わってくる。

「熱!」

荷物を放り投げて急いで海に足をつける。ひんやりと冷たく気持ちが良い。熱かった足裏もジワジワ冷えていく。それから数分、よく足を冷やしてもう一度砂浜に出る。塩水に守られた足は少し暑さを軽減させる。熱が回らないうちに制服を脱いで遠くにやる。下には水着を着てきている。白地に水色の水玉がはいったシンプルなのだ。もう二年ほど使っている。そろそろ替え時かも知れない。

背中の真ん中辺りまである髪の毛をさっと結って後ろで一つに結ぶ。首の辺りが少しスースーする。

準備が出来たので少し深いところまで歩いてそれから一気に潜る。私は海中でもそこそこ目が見える方だ。十㍍ほどの距離からならば鮮やかな魚がはっきり見える程度。段々沖のほうへ泳いで行くにつれてちらほら魚も見え始める。此処の海は綺麗だ。底が見える。今日のような日は太陽の光が海水に反射して美しい。海水中に溶け込む酸素の量は水温と水圧により大きく異なるが、此処は特に多く魚も豊富だ。

ふわふわ泳いでいると、いつの間にかアオリイカが群れをなし私の周りに付いてきていた。特に警戒するでもなく寄り添うように泳いでいる。綺麗。私に何か用があるのだろうか。

手を伸ばして身体に触れてみる。少しぬめぬめしているが、水の中と言うこともあって不快ではない。

「どうしたの?」

口を動かしてみる。勿論イカ相手に伝わるわけはないのだけれど。触れた一匹が逃げていった。一端顔を上げて息継ぎをする。だいぶ潜っていたから呼吸が浅い。落ち着いて深呼吸をする。そしてもう一度潜る。

「あれ?」

さっきまであんなにいたイカが一匹残らず何処かへ消えていた。そんなに長い時間息継ぎをしていたわけでもないのに。帰っちゃったのかな?

少し寂しいような気分で泳いでいると、ぶおっと水の塊が私にぶつかった。衝撃で水中でくるくると回る。驚いて息が切れる。水面に顔を出そうと上昇していると、今度は白い大きな何かが前から向かってくる。速い。私はあっけなくそれに突進される。痛く、ない。よく見るとそれはさっきまでのイカが一気に私の元へと押し寄せたものだと分かる。無数のイカ達は私の周りをぐるぐると回る。

「なに、これ」

息が出来ない。少し意識が朦朧としてくる中で、私はたぶん、声を聞いた。何と言っていたかは分からない。でも海は、私に語りかけてきた。


目を覚ますと、砂浜の上だった。打ち上げられたのだろうか。日に焼かれた肌がひりひりと痛い。いつの間にかもう夕方だ。水着もすっかり乾いている。

まだ理解の追いついていない頭で放られている制服を着る。それからコンビニの袋を持ち上げる。何故だか食べるきがせずに自転車の元に付くと籠に入れた。海を見ると、静かに夕陽を反射して輝いている。もしかしたら、私は夢を見ていたのかも知れない。この暑さで滅入っていたのかも。

耳を澄ます。聞こえるのは波の音や車、人の喧噪のみ。私は納得したように息を吐くと、自転車をこぎ出した。

お母さん、怒ってるかな。何も言わずに出てきたから。

潮風が一度、強く吹いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る