第386話 自分の内にある映像

 見えているものがすべてではない。


 宗教か何かの謳い文句みたいになってしまったが、自分はどの宗教にも属していないので、関係がない。見えているものがすべてではないとなると、見えていないものが、自分の内にあるものと、外にあるものの二つに分けられることになるが、今は後者について述べる。


 人と会話をしたり、本を読んだりしているとき、我々はその内容を頭の中に描いている。しかし、それは視覚を通して処理された情報ではないから、見えているわけではない。けれども、その人にとっては確かに見えているわけで、見えているからこそ(映像として捉えているからこそ)現実と同じように扱うことができる。


 こんなふうに、我々は、自分の内にある映像と、外で展開される状況の、二つを同時に見ていることになる。そして、この外で展開される状況は、少なからず自分の内にある映像の影響を受ける。思い込みや錯覚がその例といえる。そういう意味で、個人にとっての世界は二つあるのだが、自分の内にある世界の方が幾分勢力が強いみたいである。

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