第十一章 拉致
今日は六月三十日、この島に着いてから2週間が瞬く間に過ぎ去り、明日は理紗が東京に帰る日である。当初の予定では諒輔も一緒に帰る予定であったが、至道一味との抗争が一段落するまでは島を離れるわけにはゆかず、神崎と共にもうしばらく残ることにしたのだった。理紗は仕事の都合が有り、そういつまでも休みを取っていられない事と、穏の長者と目されて狙われる危険性があったので、予定通り東京に帰って貰うことにしたのだ。
理紗は一人で帰ることを承知したが、最後にもう一度、美しい神坐の海でシュノーケリングをしたいと言う。諒輔にとっても、この島に来た翌日に見たサンゴと熱帯魚の美しさは感動的であったから、理紗の願いを叶えてあげたかった。拓馬に相談すると、神坐の沖合にはこの前の場所よりもずっと素晴らしいポイントがあるとのことであった。
拓馬の操縦するクルーザーで、沖合に向かった。天気は今日も快晴、濃紺の海に白い航跡が長く引かれて行く。今日の諒輔は前回に懲りて、ラッシュガードをしっかり身に着けている。もちろん理紗も然りである。拓馬はインストラクターとして一緒に海に入るが、神崎は監視役として船上に残ることになっていた。
海の色がコバルト色になり、サンゴ礁の海域に入ったことが分かる。拓馬は慎重に船を操りサンゴ礁の間をすり抜けて行き、水深のやや深いところで船を停止し碇を降ろした。
「お待たせしました、ここがこの辺りで一番きれいなシュノーケリングポイントです」
拓馬は自慢顔で言うと、満面の笑みを浮かべた。人気スポットらしく、少し離れた所にすでに数隻の船が停泊しており、その船の周囲でシュノーケリングをしている人達の姿が見えた。今日は絶好のシュノーケリング日和であり、石垣島など周辺の島から向かってくる幾つもの船影が遠く近く見受けられた。
だが気になるのは理紗の何やら気乗りしない顔色である。あんなに楽しみにしていたのにどうしたことかと訊ねると「少し船酔いしただけ」との答えである。それなら泳いでいる内に気分は回復するだろうと予定通りシュノーケリングをすることにした。
諒輔たち3人はマスクとフィンを装着すると、船の後尾の手すり付きのラダ―(梯子)から海に入った。先頭を拓馬が行く。10メートル程も泳ぐとそこはサンゴ礁で、色とりどりの魚が群れ泳いでいた。拓馬が手招きする方に近付くと、イソギンチャクの触手が揺れる中にオレンジ色の魚がいる。カクレクマノミだ。何年か前、ディズニーのアニメでこの魚を主人公にしたものが上映され、大人気になった魚である。その付近は枝状の珊瑚の群落で、宝石のように鮮やかな色をした小魚が行き来している。更に進むとテーブル珊瑚が辺りに広がり、黄色い魚が群れをなして目の前を横切って行った。
夢中で過ごす内に予定の時間が経過し、拓馬の指示でクルーザーに戻って休憩をとることになった。引き返すことにした辺りは、サンゴ礁の外縁とも言うべき所で、クルーザーからは大分離れている。この先の海の底は、崖のように急に深く落ち込んでいる。マンタも時折通るというので、外洋に続いているのであろう。
拓馬は「先に船に帰りますが、諒輔さんたちはゆっくりサンゴ礁伝いに船に戻って来て下さい」と言い残して、先にクルーザーに向け泳いで行った。諒輔と理紗を二人切りにして上げようとの拓馬なりの配慮かもしれなかった。しかし理紗は浮かない顔をしている。船酔いがまだ治らないのかと気遣うと、「実は….」と前置きして「諒輔がとっても楽しそうにしているので黙っていたけど、先ほどから危険予知アラームが鳴っているの、何か起こらなければいいのだけど……」
理紗の顔は青ざめ表情は真剣そのものであった。理紗には危険予知能力が備わっていることを知る諒輔はマスクを取り外し、周囲を見渡した。エンジン音がする。外洋から近付いて来るのは大型のゴムボートであった。
その頃、船上の神崎も大型のゴムボートが諒輔達のいる方向に向かうのを見つめていた。ゴムボートはサンゴ礁の手前で止まると、ボンベを背負ったダイバーと思われる者4,5名が海に入るのが見て取れた。ダイバーは水中に潜ってすぐに姿を消した。神崎は道真神威教の襲撃に違いないと確信し、大声で呼びかけたが諒輔達に届かない。クルーザーの直ぐ近くまで泳いで来ていた拓馬は、神崎の声を聞くと大急ぎで船に上がってきた。神崎から敵の襲撃だと聞くと、緊急時用の発炎筒を取り出して発火した。
クルーザーに立ち昇る炎を見て、諒輔は緊急事態と覚ったが、その時、敵はすでに諒輔達が泳ぐ海面の下に迫っていたのだった。
「理紗、注意しろ! 敵の襲撃だ!」
諒輔は、シュノーケルを口から外し、隣で泳いでいる理紗に向け叫び手を差し伸べた。
「敵はどこなの?」
手を握り返してきた理紗も緊張で顔が強張っている。
その時、諒輔は強い力で海中に引きずり込まれた。海水を飲み込み、むせながらも海中でダイバーらしき者が諒輔の右足首を掴んでいるのが見える。息苦しくなり、やたら滅多ら手足をバタつかせ、身体を捻るとやっと掴まれていた右足が自由になり、海面に顔を出して息を吸うことが出来た。
理紗は大丈夫かと周囲を見渡すと、ぐったりとして仰向けになった理紗を、二人のダイバーが両脇を抱える様にしてゴムボートの方に連れ去ろうとしているところであった。その後方を数名のダイバーがガードするように追う。諒輔は追い掛けたが、理紗との距離は広がるばかりであった。その時になって、神崎と拓馬の叫び声に漸く気が付いた。二人は手招きし、口々にクルーザーに早く戻れと叫んでいる。
(そうだ、あのゴムボートをクルーザーで追跡しなくては)
諒輔はクルーザー目掛け懸命に泳いで行った。
拓馬は、碇を上げ、エンジンを始動させクルーザーを諒輔の方に近づけた。しかし、周囲はサンゴ礁であり、ほんの僅かしか移動させることが出来ない。諒輔が泳ぎつくのを待つしかなかった。その間に道真神威教のダイバーたちは、理紗をゴムボートに引き上げ、自分達も乗り込むと船外機を始動させ走り去ろうとしていた。
諒輔は精一杯泳いでいるのだろうが、それを待つ神崎と拓馬にはスローモーション動画を見るようでなんとももどかしかった。やっと諒輔が船に到着すると神崎が手を差し伸べて引き上げ、待ちかねていた拓馬がクルーザーを発進させた。
サンゴ礁の中から、外洋に出るには慎重な操船が必要であり、その間、ゴムボートとの距離は開いていった。しかし一旦外洋に出るとクルーザーはゴムボートよりも速度がずっと早く、距離は次第に狭まっていった。行く手の海上には山のような西神坐島の島影が浮かんでいる。
「理紗さまの姿が見えます」
先行するゴムボートを双眼鏡で探っていた神崎が叫ぶ。
「どうやら手足を縛られているようです」と言いながら神崎は双眼鏡を諒輔に手渡す。
襲われた直後、理紗はぐったりしていたので心配だったが、今こうして双眼鏡で見ると理紗の意識は回復しているようである。神崎が言うように、手足をロープ状のもので縛られており身動きが出来ないようだ。
クルーザーはゴムボートに接近し、理紗が助けを呼ぶ声が聞こえてくる。拓馬はゴムボートに接舷して諒輔たちが跳び移れるようにしようとするが、敵もジグザグに進路を変えるなどして容易に近づけさせない。ゴムボートの航跡が波となってクルーザーを上下させ、ゴムボートに近付いても跳び移るチャンスが中々見いだせない。行く手に西神坐島の島影が大きく迫ってきている。
「体当たりしますか!」拓馬が焦れて叫ぶ。
「だめだ、理紗が放りだされるかもしれない」諒輔が叫び返す。
拓馬は接舷をあきらめて、ゴムボートの先に回り込んで停船させる作戦を試みるが、小回りのきく相手は、するりと横をすり抜けてしまう。
西神坐島はもう目の前である。島に近いこの周辺は岩礁があり、注意しないと座礁してしまう恐れがあった。ゴムボートは、岩礁にはお構いなしにカムザ川の河口目掛けて突き進む。クルーザーは仕方なく、大回りして河口に向かうが、一足早く河口に到着したゴムボートは河口からカムザ川に進入し、上流に向け遡り始めた。クルーザーも少し遅れて後に続く。
しかし、川に入っても追い詰めることが出来ないまま、あの河川桟橋が見える辺りまで来てしまった。ゴムボートのダイバー達が、河川桟橋から上陸するのは明白だったが、クルーザーでの追跡は、河川桟橋の手前で断念せざるを得なかった。この辺りになると、川の水深は急に浅くなりクルーザーでは、これより先に進むことは出来なかったのである。
双眼鏡で敵の様子を窺うと、ゴムボートを河川桟橋に接岸し、ダイバーたち数人で理紗を抱え上げて上陸するのが見て取れた。警備隊員が4,5名ほど待ち構えている。どうやら銃器で武装しているようだ。クルーザーが近付けば発砲するとでも言うように銃をこちらに向けて威嚇していたが、クルーザーがそれ以上近づかないことを確認すると、ダイバーから理紗の身柄を受け取り、傍らに停車していた車2台に分乗して、急な坂道を登って行った。
その様子を、歯ぎしりする思いで見ていた諒輔は「理紗を助けに行くぞ!」と叫んで、拓馬にクルーザーを西神坐港に回すように指示した。
日野に援護を要請しようとしたが、電波が届かない海域のようで携帯電話は使えなかった。港に近付いたところでやっと携帯が繋がり事情を話すと、『ちょうど強制捜査するための準備をしていたところです。しかし準備が整うまでもうしばらく時間がかかります。全てが整ったら連絡するので、それまでは迂闊な行動を慎むようにして下さい』と釘を刺された。しかし、諒輔にはそれまで待つ様な悠長な気持は微塵も無い。
西神坐港に着くと、桟橋に車を貸してくれる人物が待ち構えており、キィを渡してくれた。車は以前借り受けたあの軽トラックである。拓馬が船の無線を使って手配してくれた貴重な車であり、例えポンコツ寸前のような軽トラックでも調達出来て本当に有り難かった。
軽トラックは、以前と同じ港の外れに置かれていた。今回は思うところがあって運転は神崎に頼んだ。諒輔は助手席に乗り込む。パーカー、7分丈のパンツ、デッキシューズというスタイルは、これから敵地に乗り込む意気込みとはかけ離れていたが、表情はいつになく厳しく真剣そのものであった。ちなみに神崎の服装も、ティシャツにジーパン、スニーカーと戦闘とはおよそかけ離れたスタイルである。
やがて行く手にゲートが見えて来た。予想通り銃器を手にした警備隊員が待ち構えている。人数はいつもの倍の4名である。近づく車に銃口を向けている。
「奴らは銃を構えています」神崎がブレーキを踏み停車させた。
「神崎さん、私を信じて車ごとゲートに突っ込んで下さい! いいですね」
諒輔はそう言うと、呪を唱え、印を結んだ。
「分かりました、全速力で突っ切ります」
神崎が力強く応えて、アクセルを踏み込み、ベレーキペダルにおいた足を外した。タイヤを軋ませて軽トラックが急発進する。
いつの間にか軽トラックは白い燐光で包まれていた。車の周囲に結界を張ったのだ。その白い結界は諒輔の怒りで形あるものに代わって行った。車を運転する神崎には、その形がどのようなものか分からなかったが、警備隊員たちには白い燐光が虎の形になるのが見て取れた。白虎が襲ってくると恐怖した警備隊員は一斉に発砲しだした。しかし、結界に覆われた軽トラックに銃弾はどれ一つ当たらない。燐光を発しながら白虎はゲートに迫った。警備隊員が銃を撃つのを止め、慌てて道を開ける。白虎はゲートに躍りかかった。鉄製のゲートが一瞬の内に吹き飛ばされ、残骸が宙高く舞い破片となって落下した。警備隊員たちは落下物から身を避けるに必死であったが、気が付いた時には白虎の姿ははるかかなたに走り去ろうとしていた。
カムザリゾートに到着した。ホテル前には誰ひとりいない。そのまま裏手に回り、従業員用駐車場に駐車した。ここからは徒歩でラビリンスに向かう。密林を抜ける途中、以前迷彩服などを隠したところに立ち寄り、茂みの奥を探すと、幸いにもあの時の装備がそのまま残されていた。迷彩服に着替え、頑丈な編み上げの軍靴を穿き、迷彩帽を被ると、防水リュックからナイフなどを取り出し身に着けた。
着替えた二人は戦闘モード全開といった高揚した気分で密林を進み、ラビリンスに近付いて行った。周囲を警戒しつつ入口に向かうが敵の気配が無い。それどころか入口の扉が開いたままになっている。
(至道の指示によるものだろうか? 何かの罠を仕掛けようとしているのだろうか?)
「敵の罠かも知れません」同じ思いを抱いたのだろう神崎が囁く。
「そうですね、念のために式神を呼び出しましょう」
諒輔は呪を唱えて犬麻呂と牛麻呂を召喚し、この前と同様、ラビリンスの道案内をするよう命じる。
二人の式神の案内で、迷うことなく地下の道真神威教の施設の入り口であるエレベーターホールに到達した。途中、監視カメラで諒輔と神崎の姿がチェックされている筈だが、何の咎め立てもないのが不気味ではある。
どうしたものかと思案していると、こちらにやって来る足音がする。現れたのは社長室長の星嶋であった。
「ようこそカムザリゾートへ、たらちねの間で社長がお待ちです」
星嶋は表情を変えずに言うと、踵を返して歩き出した。星嶋に続き、一行は教会の前を通り、警備カウンターを過ぎてたらちねの間の前で立ち止まる。どうやら至道にとって最も有利な場所であるたらちねの間で対決する作戦のようだ。
「式神をたらちねの間に入れるわけには行きません。もしそこらに居るようでしたら退けて下さい」
「式神のことは分かった、しかしこの者は連れて行くぞ」
諒輔は後ろに控える神崎を見やりながら告げた。
「構いません、でも式神はすぐに消して下さい」
星嶋は対戦した神崎をそれなりに認めたようで、入室を拒まなかった。諒輔は呪を唱えて犬麻呂と牛麻呂を引き下がらせると、星嶋に続いて神崎と共にたらちねの間に入った。
聖母の像のあるホールには10名ほどの警備隊員が、緊張した面持ちで立ち並んでいた。星嶋は右手の病室の入り口を差し示し奥に入るよう促す。
病室では至道と穂来が壁際の椅子に座り待ち受けていた。至道は、丈の長い白い寛衣を身にまとい、大振りの勾玉を連ねた長い首飾りをしている。これが道真神威教の教主の正装なのだろう。穂来は何時もの黒のスーツ姿で足を組み、諒輔たちが入って来るのを不機嫌そうに眺めている。その横に掛川が立って控えていた。
「お前が穏の長者だったとはな」
至道は椅子から立ち上がると部屋の中央に歩み寄り諒輔を睨みつけた。星嶋が後に従い待機する。至道は巨漢であるが、背の高さは諒輔にやや劣る。しかし巨体から発する圧力は強烈だ。そんな二人の様子を穂来は相変わらず壁際の椅子に腰かけたまま見続けている。
「そうだ私が穏の長者だ、理紗は穏の長者ではない、すぐに開放しろ」
諒輔も至道の方に歩み寄ると、やや見下ろすようにして睨み返した。神崎は諒輔の背後をガードするように周囲に警戒の眼差しを向けている。
「安倍理紗が穏の長者でないことは、先刻承知だ、用が済めば解放して構わん」
いたずらっ子が、何か悪巧みするときに見せるような笑みを至道は浮かべた。
「用が済めばだと、どういうことだ?」
「知りたければ教えてやろう、これを見るがいい」
至道は手を上げて星嶋に合図した。星嶋は奥に行くとカーテンを押し開いた。そこには二つのベッドが置かれており、手前のベッドに理紗らしい若い女性が横たわっている。赤い長襦袢のような着物を着せられているが、丈が短く膝から下はむき出しだ。どうやら赤い着物の下は水着のままのようであった。頬には妙な形のものが口紅で描かれている。奥のベッドは植物人間状態のサイのものである。
「理紗! 大丈夫か」諒輔は叫び、近付こうとした。星嶋がすかさず割って入り阻止する。
「死んではおらん、眠らせているだけだ……それより良く見るがいい、頭に何が被せられているかな?」
言われて理紗の頭をみると、なんと呪殺鉄輪の法で使用するあの鉄輪が、恰もティアラのように被せられているではないか。至道の思惑が分かり諒輔は戦慄し、怒りを爆発させた。
「至道、お前は理紗を鉄輪の法の生霊にするつもりだな!」
「さすが穏の長者、察しの良い事だ」至道はせせら笑うと、おもむろに印を結び、呪を唱え出した。穂来はこの様子を見るや椅子から立ち上がり、部屋の奥のサイのベッドの側に行き、そのやせ細った手を握った。星嶋と掛川それに神崎もこれから始まる事態がただならぬものになると予感して部屋の隅に退く。
部屋が暗くなり始めていた。照明を切った訳ではなく、至道の立つ病室の中心から闇が湧きあがり広がって全体を覆って行くのだった。次第に濃くなる闇に至道の呪祖がうねるように響く。諒輔は怒りを鎮め、冷静さを保とうと気を丹田に集中し、理紗が横たわるベッドの辺りの暗がりを凝視した。
暗闇の中にぼうっと浮かび上がるものがあった。それは横たわる理紗の身体から発するもので、あたかも幽体離脱した霊のようであった。至道の呪文が、通奏低音のように流れる中、その呪文に導かれるように靄のようなものは、ベッドからするりと床に降りた。しかし形はまだ定かではなく、微かに人形をしたものが、さわさわと蠢いているのであった。
至道の呪文が一段と強まると、人形の頭部に小さな三つの明かりが灯った。その明りが大きくなるにつれ、おぼろげだったものは今や、打杖を右手に握りしめた若い女の姿となって浮かび上がっている。蝋燭の灯りに照らされた顔は、理紗のものであるが、能「鉄輪」のシテが付けていた泥眼の面のようでもあった。
理紗の生霊は諒輔にじりじりと擦り寄ってくる。このままでは間もなく鬼女となり襲ってくるだろう。真俊に施したような生霊祓いをすれば退けることが出来るが、そうした場合、理紗に与えるダメージが大きい。最悪の場合、理紗は死に至るか、そこまで行かなくとも脳障害を引き起こす可能性がある。
(「呪祖返し」を使うしかない)諒輔は決意すると印を結び、呪を唱えた。
呪祖返しの法は裏土御門家に伝わる秘法であり、穏の長者しか扱うことが出来ない強力な呪術であった。始祖安倍晴明がこの法を使って、呪祖をかけた相手の陰陽師を死に至りしめたことが『宇治拾遺物語 巻第二の八 晴明、蔵人少将封ずる事』に記録されている。
理紗の生霊は諒輔との距離が狭まると、手にした打杖を振り上げ今にも襲いかかる姿勢を見せた。しかし襲う相手が諒輔であると感じ取ったのか、あるいは呪祖返しの法の効果が早くも現れたのか、理紗の生霊は固まってしまったように動かない。それを見た至道は顔を紅潮させ一段と声を張り上げた。それに感応したかのように理紗の生霊が動き始め、上げた手を振り下ろそうとしたが、諒輔が無言で気を放つと振り上げた手はそのままにくるりと至道の方に向き直った。そして諒輔の気に押されるように、今度は至道の方に歩み寄って行く。
近付いて来る理紗の生霊に至道は慌てた。あらん限りの声を張り上げ、印を組んだ両手を激しく上下に動かして呪を唱える。しかし理紗の生霊はそんな至道の声に感応することなく振り上げた打杖を躊躇する様子もなく鋭く打ち下ろした。
避ける間もなく打ち据えられた至道は苦痛に顔を顰めたが、更に襲いかかってくる理紗の生霊を見て両手で頭を抱えた。
「待て、お前が打ち据える相手は俺じゃない! 間違えるな」
至道は、喚くが理紗の生霊は容赦なく打ちかかって来る。
「もうよい、鉄輪の法は止めだ、元の身体に戻れ!」至道は納めの呪を慌ただしく唱えた。
理紗の生霊は動きを止め、しばらくその場に佇んでいたが次第に形が薄れて行った。それと同時に闇が払われて行き部屋に明かりが戻った。至道の顔は青ざめ、荒く息をしている。立っているのがやっとの状態だった。
諒輔はその隙に理紗が横たわるベッドに走り寄り、頭の鉄輪を取り去りながら呼びかけた。
「理紗、大丈夫か? 眼を覚ませ!」
理紗はうめき声をあげ苦しそうな表情をしながらも、ゆっくりと眼を開けた。
「僕だよ、諒輔だ! 分かるか?」
理紗は一旦開けた目を眩しいものでも見る様に細めていたが、目の前にあるのが諒輔の顔とやっと認識したようであった。
「あぁ、諒輔……」理紗は安堵の表情になり、両眼から涙をあふれ出させた。
「起き上がれるかい?」
諒輔は横たわる理紗の肩の下に腕を差し入れ、上体を起こした。理紗が諒輔の首に腕を回してくると、もう片方の手を理紗の膝下に差し入れ抱き上げて部屋の中央に戻った。
「呪祖返しの法にまんまとしてやられたわ……それにしてもお熱い事だな」
いつの間にか元気を取り戻したらしく、至道が抱き合う諒輔と理紗を見て声を掛けた。
「これで俺に勝ったと思うなよ、理紗などという霊力のかけらもない者を生霊に仕立てたから不覚をとったが、今度はケタ違いに強い霊力を持っているから覚悟しろ!」
至道の叫びを聞いてこれまで沈黙を保ってきた穂来が声を上げた。
「また母さんを使う気ね、もう母さんに頼るのは止めるんじゃなかったの?」
「うるさい、おまえは黙っていろ! 今度こそ穏の長者を仕留めて見せる」
「母さんを生霊にするのは止めて! 母さんが生霊になるなんて、見ていられないわ」
「母さんを使うのはこれが最後だ、穂来、見たくないならお前は眼を瞑っておれ!」
兄と妹のやり取りを聞いていた諒輔は抱きかかえた理紗を壁際の椅子にそっと座らせて部屋の中央に戻った。至道は理紗が寝かされていたベッドから鉄輪を拾い上げ、奥のベッドのサイの頭に載せた。サイも赤い着物を身に着けているが、身の丈に合っていて踝まで覆っている。至道は鉄輪が確り被さっていることを確かめると部屋の中央に戻り諒輔と対峙した。そんな様子を見た穂来はそれ以上言い募るのを諦め、唇を噛みしめた。部屋に緊張が一気に漲るなか、至道が呪を唱え出した。
先ほどと同じように至道の周囲から闇が広がり、部屋は溶暗に包まれて行き、一番奥のベッドに横たわるサイの身体から燐光が発せられ始めた。それと同時にサイに接続された脳波計の針が激しく動き出す。諒輔はしばらくその様子を見つめていたが、眼を閉じ、気を集中すると呪を唱え、印を結んだ。
サイの身体から生霊がじわりと滲み出る。理紗の場合はすっと浮かび上がるように現れたが、サイの場合はねっとりとした液体となって流れ出て、床に滴り落ちた。まるで血溜まりのようなそれは、ずるずると部屋の中央に流れてくると、ガス状のものを立ち昇らせ始めた。そこから放たれる妖気は尋常ではなく、部屋にいる者だけでなく、隣のホールに詰めている警備隊員たちの心まで凍りつかせた。諒輔にもサイの力が並大抵のものではないことがひしひしと伝わって来る。
立ち昇ったガス状のものは、おぼろげながらも人形となり、頭上の鉄輪の蝋燭にも火が灯った。どうやら若い女のようである。徐々に形が鮮明になっていったが、その姿には見覚えがあった。真俊を襲ったあの生霊と同じである。右手に槌、左手に5寸釘を持っているのも同様であった。そしてその口から陰に籠った声が漏れ出した。
「恨めしや御身と契しその時は、玉椿の八千代、二葉の松の末かけて、変わらじとこそ思いしに、などしも捨ては果て給ふらん、あーら恨めしや」
蝋燭に照らされた顔は、早くも鬼女のものになっており、今にも諒輔に躍りかからんとするように口を大きく開け、牙をむき出した。
この時に至り、諒輔はかっと眼を見開き、九字を空に切り早九字護身法を唱えた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
サイの生霊は弾かれたように後方に吹き飛ばされ、形が崩れ出した。見る見るうちに皺深い老婆の姿に変身して行く。諒輔は引き貯めた両手を勢いよく突きだし、気を飛ばした。
「ぎゃぁ!」サイが吠えて、くるりと向きを変えると至道の方に近付いて行く。
それを見た至道が「母さん、戻るんだ、敵は後ろだ!」と喚き、懸命に呪を唱える。サイの生霊は息子の言葉に感応して、踏み止まり、振り返ると諒輔に歩み寄ろうとする。
「そうだ、その男が我が一族千年の怨敵、穏の長者だ」至道は絶叫する。
諒輔は近付いて来るサイとの間合いを測り、飛びかかろうとする寸前に、手をさっと祓い、気を発する。サイは悲しげな叫び声を上げると、身を捩り至道の方を見やり、その場に倒れ伏した。
「立て! 立つんだ……母さん僕の願いを聞いてくれ」至道が泣き叫ぶ。
サイの生霊はなんとか立ち上がり、歩もうとするがまた崩れ落ちてしまう。息子の為にあらん限りの力を尽くそうとするサイの姿は凄絶であり、悲惨であった。
突然サイの動きが停まった。脳波計、心電計などの計器類も動きを止めた。生霊の形が薄れ始める。
「母さん、どうしたんだ! 闘いは終わっちゃいないよ」至道はオロオロ声である。
穂来が薄れゆくサイの生霊に近付き語りかける。
「母さん、もういいんだ……もう充分だよ」
サイの生霊は穂来を見上げると、掠れた声を絞り出した。
「ホキ、スマナイ……」
サイの姿はますます薄れ、部屋に明かりが戻って行く。
「生命維持装置の電源を切った……」ぽつりと穂来が呟いた。
計器のすべてが電源ランプの明かりを消し、動きを止めていた。
「何? なんだと、穂来、お前と言うやつはなんてことしでかしたんだ!」
至道はサイのベッドに駈け寄り、その顔を覗き込んだ。
「何をしたかって? 解き放ってあげたのさ」
「違う! お前は母さんを殺したんだ」
至道はサイの痩せさらばえた身体をゆすって叫ぶ。
「死んじゃ駄目だ! 死ぬな母さん!」
身も世もなく泣き続けていた至道であつたが、突然立ち上がると諒輔を指差して叫んだ。
「こいつを殺せ、道真神威教の法敵、穏の長者を生かして返すな!」
次に穂来を指差すと「こいつは捕らえて監禁しておけ」と周囲の警備隊員に命じた。
隣のホールに待機していた警備隊員が特殊警棒を手に、雪崩れ込んできた。諒輔は即座に呪を唱え、身の回りに結界を張り巡らせ理紗を引き寄せた。警備隊員は特殊警棒で打ちかかるが、結界に触れた警棒は弾き返される。その様子を見ていた星嶋がスーツの内側に吊るしたホルスターから拳銃を引き抜き構えた。神崎は果敢に戦っていたが、諒輔はその腕を掴み結界に引きいれる。その時、轟音とともに拳銃が撃たれた。結界に守られた諒輔たちには、弾は当たらない。
「撃て! 撃つんだ」至道が狂ったように叫ぶ。
至道の声に応えて星嶋が拳銃を連射した。狭い部屋に多くの人がひしめいており流れ弾が警備隊員の何人かを負傷させた。
「撃つのを止めろ!」「味方が負傷した!」
警備隊員はパニック状態に陥った。その隙に諒輔たちは結界に守られて室外に出る。結界を張っていれば、打撃や銃撃を跳ね返すことが出来て防御力は充分なのだが、攻撃力となるとせいぜい体当たりして相手を弾き飛ばすぐらいしかできない。その体当たりも衰弱した理紗を抱えてでは、到底相手に打撃を与えられない。今は敵に対する攻撃よりも、理紗を守り逃れ出ることだ。
エレベーターホールの前を過ぎ、迷路への通路に入り込んだ。理紗に肩を貸して進むのでその進みは緩やかにならざるを得ない。追いつかれて当然なのだが、どうしたわけか誰も追ってこないようである。行く手も窺い敵の気配がないことを確認すると諒輔は結界を解除し、「ふぅー」と大きく息を吐いた。結界を張り続けることは穏の長者にとってもかなり気力と体力を必要としたのだ。
「もう大丈夫、一人で歩けるわ」
理紗は諒輔の腕から身を離すと、数歩進んだがよろけて諒輔に支えられた。水着の上に丈の短い着物を着た理紗の姿はかなり妙なものだったが、今はそんなことに構っていられない。
「無理しなくていいんだよ」
「少しふらついただけ、さぁ行きましょう」
諒輔の心配をよそに理紗は一人で歩んで行く。あわてて諒輔が先頭に立ち、次に理紗、最後に神崎という隊列で進みだした。
かなり時間がかかったが、どうやらラビリンスの出入り口に無事に辿り着くことが出来た。出入り口の扉は開いている。そっと外の様子を窺うと扉の前に何者かの後姿がある。右手にモップ、左手にバケツを下げたその姿は、以前ポルトガル村で見かけた掃除のおばちゃんのようである。そのおばちゃんが誰かに怒鳴られている。
「何だお前は? そこで何をしておる?」
くぐもった声だが至道の声のようだ。
「何ってあのう、この辺りを掃除しようと……」
おばちゃんは萎縮しておずおずと答える。
諒輔は外の様子がもっとよく見える様に、首を伸ばした。
掃除のおばちゃんと対峙しているのは空気ボンベを背負い防護服に身を包んだ10名ほどの者であった。
中央の巨大な体躯の者が至道に違いない。諒輔達が迷路で手間取っている間に、エレベーターを使って先回りしていたのだ。至道はフルフェイスのマスクを装着しているから、くぐもった声になる。それにしても敵が防護服を身に着けているというのは悪い兆候だ。
「やつらは、サリンを使うつもりかもしれない」小声で理紗と神崎に伝え、呪を唱えて再び結界を張った。
「えーい、邪魔だ、こいつを脇にどけろ」
後ろに控えていた防護服姿の者が、進み出ておばちゃんの腕を掴み引きずって道の脇に置き捨てた。おばちゃんは腰が抜けたのか、その場にへたりこみ喘いでいる。
諒輔は理紗と神崎を結果の内に入れると、3人揃って扉から外に出た。
「やっと出てきおったか、待ちかねたぞ」
「暑苦しい恰好で出迎えのようだが、熱中症にならぬよう気をつけるがいい」
「ふん、余計なお世話だ、それよりこれを見るがいい」
至道は右手を差し出し、手を開いて掴んでいた物を見せた。何やら注射アンプルを大きくしたようなガラスの容器である。
「これが何だか……もう分かるな? そうサリンだ」至道が勿体ぶって告げる。
サリンと聞いた理紗が諒輔に縋りつく。
「結界は拳銃の弾も寄せ付けないが、サリンはどうかな?」至道は余裕たっぷりだ。
マスクで顔は見えないが、多分にんまりと笑ったことであろう。
「ねえ、どうなの、結界はサリンも防げるのでしょう?」
理紗が心配そうに聞く。結界は物理的なものや霊的なものは寄せ付けないが毒ガスなど気体や化学物質から身を守られるかというと、どうも難しそうである。
「どうした、答えてやれ、サリンは結界で防げるかどうか聞いておるぞ」
答えに窮した諒輔が押し黙ると、至道は勝ち誇ったように続けた。
「式神を使おうなどと考えても無駄だぞ、わしの身体に少しでも触れたら、このガラス容器を貴様たちの足元に投げ捨てるからな、防護服を着ていない者は皆即死だ!」
諒輔は忙しく考えを巡らせた。穏の長者危機存亡の時である。このような場合は、最後の一手である守護神獣の玄武に頼るしかない。諒輔は急ぎ呪を唱え出した。しかし、この術の効果出るのは時間がかかる。理紗は動揺しながらも、諒輔が今何をしようとしているか察することが出来た。
(なんとか時間稼ぎをしなければ….)
「そこのおばちゃん…..掃除のおばちゃんは関係ないでしょ、助けてあげて」
理紗が道端に座り込んだままの、掃除のおばちゃんを指差して至道に頼み込む。
「そんな時間はない、ここに居合わせたのがこの女の運の尽きだ」
「そんな! この人はカムザの従業員でしょ助けてあげてお願い!」
「うるさい、つべこべ言うな!」
至道は吠えるとガラス容器を持つ手を大きく振り上げた。玄武はまだ現れない。万事休す、これで終わりかと観念した時、道端にへたり込んでいたおばちゃんが立ちあがるや至道に飛びかかった。そして振り上げた至道の腕を関節技で決めつけると、その手から容器を奪い取った。その動きは俊敏であっと言う間の出来事であった。
至道たちは言うに及ばず、諒輔たちも呆気にとられてしばし動きを止めた。
「この女を取り押さえろ、サリンを取り戻せ!」至道の叫び声に、防護服を着た者の一人進み出ると拳銃を突きつけておばちゃんに告げる。
「大人しくしろ、その容器をこちらに渡せ」
マスク越しながらも抑揚のない陰気な声には聞き覚えがあった。
「その声は社長室長の星嶋だね」おばちゃんも星嶋と察したらしい。
「おまえが、潜入捜査官だったとはな、迂闊にも気が付くのが遅れた」
「こいつが捜査官だと、ならば撃て、殺してしまえ!」至道が喚く。
星嶋はゆっくりと照準を定める。それを見た諒輔たちがおばちゃん……いや捜査官を結界に引き入れようと慌てて駆け寄ったその時、耳をつんざく拳銃の発射音がした。
(捜査官が撃たれた!)と諒輔は唇を噛みしめた。
しかし意外や手を血で赤く染めているのは星嶋の方で、手にしていた拳銃は地面に転がっている。拳銃を撃ったのは捜査官で右手に拳銃、左手にサリンの容器を握っている。どこかに隠し持っていた拳銃を素早く引き抜いて星嶋の手を撃ったようだ。さすが警視庁随一の凄腕の捜査官である。
「動くと撃つ!」捜査官が凛とした口調で言い放ち、拳銃を防護服の一団に向けて牽制した。地面に転がった拳銃は神崎が進み出て拾い上げる。
「待て、撃つな! 抵抗はしないから防護服を脱がしてくれ、暑くてかなわん、死にそうだ」
至道はフルフェイスのマスクをかなぐり捨て、真っ赤に上気した顔を露わにした。30度を超える日差しの下で密閉式の防護服を着続けるのはもう限界であったのだろう。至道以外の者もマスクと背負った空気ボンベを取り外し、防護服を脱ぎ始める。手に負傷した星嶋は他の者に手伝って貰いながらであったが、それにしても皆、緩慢な動作であった。
「防護服を脱いだら、観念してその場に跪きなさい、さぁ早く!」
捜査官に怒鳴られて跪いた至道であったが、にやりと笑い告げた。
「さぁて、観念するのはどちらかな?」
至道は不敵な表情をすると、顎をしゃくってラビリンスの裏手に通ずる方角を指し示した。諒輔たちが示された方を振り返ると、わらわらと警備隊員が現れてくるではないか。エレベーターを使って地上に出て来た警備隊員であろう。至道は防護服を脱いでいる間に、仲間を無線で呼び寄せたのだ。更にホテル棟の方からも警備隊員が駆け付けてくる。
このままでは圧倒的多数の敵に囲まれてしまうに違いない。一難去ってまた一難である。諒輔は改めて玄武の出現を促すために呪を唱えた。この間に理紗は捜査官に近付き結界の内側に入るよう促す。諒輔、理紗、神崎それに捜査官の4人は結界の中にいるが、次々に集まる警備隊員に囲まれてしまった。駆け付けた警備隊員は銃器を所持しており、その内の何人かは至道の命令を待たず発砲したが結界に守られた諒輔たちには当たらない。しかし十重二十重に取り囲まれてしまった今、逃げることも出来ず進退極まってしまった。
玄武はまだ現れない。いつもぎりぎり切羽詰まらなければ出現してくれない玄武であるのは先刻承知だが、それにしてもじれったい。頼りになるのは結界だが、実はそういつまでも張り続けることは出来ない。というより、気力も体力もすでに限界に近い。
(頼むよ玄武、現れてくれ!)諒輔が心の中で悲鳴をあげたその時……
「来たわ! ほら聞こえるでしょ」捜査官が空の彼方を眺めて叫んだ。囲んだ者達の叫び声で気が付かなかったが、確かに何かの音が空の彼方から近付きつつある。その音は次第に大きくなり、いまや轟音となって迫ってきた。諒輔たちと取り囲む者たちの全員が上空を見上げる。
遡ること30分程前、警察庁の日野が搭乗するヘリコプターが石垣島空港を離陸した。搭乗ヘリはUH60JA、通称ブラックホーク、その後に輸送ヘリUH47チヌークが続く。チヌークは機体の前後に回転翼がある大型のヘリで搭乗しているのは警視庁の特殊急襲部隊とNBCテロ対応専門部隊の混成チーム50名であった。特殊急襲部隊はSpecial Assault Teamの略称のSATとして一般に知られているが、その任務は重大テロ事件、銃器等の武器を使用した事件等への対処である。またNBCテロ対応専門部隊とはNBC(Nuclear/核兵器、Biological/生物兵器、Chemical/化学兵器)を使用したテロが発生した場合に、迅速に現場に臨場して、原因物質の除去、被害者の救助、避難誘導等に当たることを任務としている。道真神威教に対するサリン防止法及び銃刀法違反容疑の強制捜査の為に特別に編成されたこれらの部隊を指揮するのが警察庁警備局参事官の日野であった。
それにしても、ここまで準備するのは並大抵ではなかった。強制捜査の令状を裁判所から得るのが先ず第1の関門であったが、潜入捜査官の資料に加え、諒輔から送られてきた道真神威教の地下施設の写真を添えることにより取得することが出来た。次に問題になったのが、捜査部隊の編成である。道真神威教は銃器で武装しているうえに、サリンなどの毒ガスを所有している可能性がある。通常の警察組織ではとても対応できない相手である。警察庁の上層部には自衛隊の協力を仰ぐべきだとの意見もあったが、日野は警察組織内の特殊急襲部隊とNBCテロ対応専門部隊を動員することで対応可能と主張し、最終的にこれが認められた。最大の問題は輸送手段であった。南海の孤島のような西神坐島に、強制捜査部隊をどうやって運ぶかという難問である。当初は大量に人員と資材・車両が運べる船舶を使うことが検討されたが、それでは時間がかかり過ぎる。諒輔たちの潜入を支援するために秘密捜査官はかなり危ない橋を渡っており、身元がばれる危険に晒されていたのだ。日野はヘリで強襲するしかないと、警察庁長官や内閣官房長官に訴えてやっとのことでこの作戦の実施となったのであった。諒輔から理紗が拉致されたと聞き、急遽出撃体制を整えることが出来たのは、そのような準備がなされてきたからであった。
ヘリは陸上自衛隊沖縄基地の第15飛行隊のものである。警察にも小型のヘリはあるが、50人もの人員を輸送できる大型ヘリは自衛隊しか保有していない。そのため輸送作戦の指揮は陸上自衛隊の飛行隊長が行うことになっていた。万一の敵の反撃に備え、UH60JAには重機関銃を装備し自衛隊の銃手を同乗させての出撃である。最近のテロ組織は携帯型の対空ミサイルを所有していることも珍しくないので、機銃で武装することは決して過剰な対応ではなかった。
事前の自衛隊との打ち合わせでは、今日の気象条件には問題なく目的地の上空に達することは可能だが、ヘリが着陸できるかどうかは、現地の地形や広さ及び敵の妨害などを確認しないと何とも言えないとの自衛隊側の説明であった。着陸出来ない場合は、特殊急襲部隊をロープで降下させねばならない。
向かう先は西神坐島ラムザリゾート。秘密捜査官から発信されるGPS情報は、捜査官の現在位置が古代遺跡ラビリンスの前に居ることを告げている。
特徴ある西神坐島の島影がどんどん近付いて来る。
「前方山の中腹にカムザリゾートのホテル棟が視認できます」
副操縦士席の飛行隊長がヘッドホンを通して話しかけて来た。
「了解!」日野は返答するとマイクを握った。
「総員警戒態勢に入れ、間もなく目的地空上空、SAT部隊降下準備」
ホテル棟が眼下に見えて来た。
「CH60とCH47だ」神崎が飛来してくるヘリコプターをみて叫ぶ。ヘリは爆音を轟かせて頭上を通り過ぎたが、中型ヘリはすぐに戻って来ると上空を旋回しだした。上空を過ぎる時の風圧と騒音が凄まじい。ヘリのドアには機銃が装備されているのが見える。大型輸送ヘリは大きく回ってホテル棟の方に戻って行く。
「撃て、撃ち落としてしまえ」
ヘリの騒音に負けまいと至道が狂ったように絶叫する。警備員たちは低空を旋回するヘリに向けて、一斉に銃を発砲するが防弾仕様になっているのであろう、命中しても跳ね返されてしまう。
大型ヘリはカムザリゾートの駐車場と思われる上空でホバリングしながらロープで武装要員を次々に降下させている。
「あれは警察の特殊急襲部隊SATでしょう」
神崎が諒輔と理紗に解説する。捜査官は満足げに大きく頷いている。頭の三角巾と眼鏡を外した捜査官の顔は意外と若々しい。上空のヘリがホバリングしながら拡声器を使って呼びかけを始めた。
「これより、サリン防止法及び銃刀法違反容疑で道真神威教とその施設に対し強制捜査を開始する。無駄な抵抗を止め、武器を捨て直ちに投降せよ。繰り返す、武器を捨て直ちに投降せよ」
拡声器で声が割れているが、日野の声であることが分かる。
「日野さんだわ、日野さんが助けに来てくれたわ」
相変わらず水着の上に丈の短い着物という妙な姿の理紗が興奮して叫びながらヘリに向かって手を振った。
「怯むな、撃て、撃ちまくれ!」
至道に叱咤激励された警備隊員たちが、上空のヘリに銃を乱射する。猛烈な射撃にヘリは一旦退くかに見えた。
一方上空の日野は、性懲りもなく撃ちかけてくる相手に業を煮やして機銃の銃手に命じた。
「威嚇射撃用意!」
銃手が機銃に取り付く、ヘリは急旋回すると低空で警備隊員たちの頭上に迫った。
「威嚇射撃、撃て!」
機銃が火を噴き、警備隊員の周囲の地面に土煙があがり、銃痕が走った。ジャングルの樹木が銃弾に枝葉を吹き飛ばされる。眼下の警備隊員たちは、機銃の威力に圧倒されたのであろう右往左往している。
「投降すれば罪が減ぜられる。武器を捨て投降せよ、直ちに武器を捨て投降せよ」
威嚇射撃をして一旦通り過ぎたが、またラビリンスの広場の上空に戻ると拡声器で呼びかけた。この呼びかけが功を奏したのか、警備隊員たちは銃を捨て、ジャングルに逃げ込み始めた。警備隊員が四散した後の広場は意外と広い。
「何とかこの広場に着陸出来ませんか?」
日野が機内無線で飛行隊長に問いかける。
「ラジャー、やってみましょう」
ヘリは着陸態勢に入った。
「戻れ! 戻って戦え!」
至道が叫ぶが、パニック状態の警備隊員は誰ひとり言うことを聞こうとしない。至道の回りには誰もいなくなり、至道一人が広場の中央で立ち尽くしていた。星嶋の姿もいつの間にやら消えている。至道はがっくりと地面に膝を落とした。その頭上に灼熱の陽の光が容赦なく降り注ぐ。
ヘリが砂埃を巻きあげ、轟音と共に着陸した。その後方、ホテル棟に通じる道からは防弾服に身を包んだ特殊部隊が駆けこんで来るところであった。
諒輔はというと、気力体力が限界に達しようとしていた。結界の燐光が薄れ、諒輔は地面に崩れ落ちた。
「諒輔、確りして」
理紗がしゃがみ込み、心配そうに諒輔の頬を撫でた。神崎と捜査官も同様にしゃがみ込み諒輔を見つめる。
「あっ! 何をする」
その時声を上げたのは捜査官であった。ラビリンスの建造物の物陰から現れた星嶋が走り寄り、捜査官を突き飛ばして、握っていたガラス容器を奪ったのだ。諒輔が弱り結界が消滅する機会を窺っていたのだろう。
「これを見ろ! サリンだ!」星嶋がガラス容器を持った左手を上げて叫んだ。広場に集結し至道の周囲を取り囲んでいた特殊部隊員たちの動きが止った。近くにいる神崎、捜査官も星嶋が手にしたサリン容器を見てその場に立ち竦む。
「いいか俺に触れたらこれを投げつける」
星嶋の声を聞いた至道が立ち上がり両手を星嶋の方に差し伸べた。
「星嶋、よくやった。さすがわしの一番弟子、さぁそれを持ってこちらに来い」
至道の言葉に導かれるように星嶋が広場の中央に歩みを進めた。その反対側の特殊部隊員の人垣をかき分ける様にして前面に出て来たのは日野である。
「よく聞け、お前たちは完全に包囲されている。しかもここは陸から遠く離れた島だ。逃げることは絶対できない。観念してその容器を渡せ」
星嶋は負傷した右手をだらりと下げ、時々よろけながらも至道のもとに辿り着くと、サリン容器を至道に手渡した。
「逃げようなどとは思わん。かくなる上はたらちね様が待つ永遠の王国に行くまでだ。ここにおる者共全員を道連れにな!」
至道は星嶋の肩を左手で抱き、その顔を覗き込む。星嶋が頷くのを見て至道はサリン容器を持つ右手を大きく振り上げた。
「待て、待つんだ!」
日野の絶叫も空しく、至道の手からサリン容器が空に向かって放り投げだされ、陽の光にキラキラと煌めきながら放物線を描いた。
そして、容器は地面に落ちた。
居合わせた誰もが息をのみ容器が落ちた地面の一点を見つめていた。サリンの容器が割れ悲惨な事態になることを全員が想像し戦慄したが、不思議なことに容器は割れずに地面に転がっていた。
一瞬の静寂後、特殊部隊員が喚声を上げて至道と星嶋に殺到し、その身柄を拘束した。日野は進み出て地面にしゃがみ込み、サリン容器を見つめ首を捻っていたが、NBCテロ対応専門部隊に容器の回収を指示した。
そんな様子を諒輔は半身を起して眺めていた。気力と体力を使い果たし何も出来ない自分が情けなく、容器が放り投げられた時は絶望に打ちのめされた。しかしサリン容器が地面に落ちるその一瞬、地中から何かが現れ容器を咥えたのを見たのだ。
「玄武だ!」絶望から一転して歓喜の声を上げた。
「私にも見えたわ、また玄武が助けてくれたのね」理紗は感激で涙が溢れ止まらない。
そんな理紗の顔がぼやけて、諒輔の意識は薄らいで行く。安心した途端に緊張の糸がプツリと切れたのだ。
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