第九章 潜入

 六月二十八日、諒輔、理紗、神崎の3人は石垣島に向かった。警察庁の日野から、道真神威教の対策を協議するために八重山署にやって来るので、この機会に情報を交換したいとの申し出があったからだ。当初、諒輔と神崎の二人で出向く予定であったが、理紗を東神坐島に一人にして置くことが危惧されたので一緒に行くことにしたのであった。

 八重山署は石垣市登野城にあり、地上3階建ての堂々たる建物は、建築されてからあまり月日が経っていないのか、白い外装、赤い屋根が鮮やかである。諒輔達が受付で案内を乞うと2階の応接室に通された。

 待つほども無く、日野が応接室に現れ互いに久闊を叙した。その後、情報を交換する中で、諒輔はカムザリゾートの古代遺跡風の建造物の深部に医療施設があることや、ポルトガル村の旧ホテルの地下に金庫室のようなものが設置されていることなどを日野に告げた。ところが意外にも日野は、それらのことを既に知っていた。

「実は、カムザリゾートには、秘密捜査官を潜入させています。その者は警視庁公安部でも指折りの優秀な捜査官で、これまでに重要な情報をいくつも知らせてきています」

「そうでしたか、でも大変危険な任務ですね」

「はい、もし身元が彼等に知られたら命は無いでしょう。そこで相談なのですが……」

日野は一呼吸置くと、3人の顔を見渡した。

「その捜査官は非常に優秀ですが、潜入期間が長引くにつれ、身元が割れるリスクが高まっています。この局面であまり無理な捜査をさせる訳には行かないのです。そこで以前、箱根の研修所に潜入してサリンの調査をした経験のある諒輔さんに白羽の矢を立てた次第です」

「カムザリゾートに忍び込み、サリン関連の調査をして欲しいということですか?」

「えぇ、至道一味がサリンを保有していることを立証するのが目的です。その証拠さえ掴めれば、奴等を一網打尽にすることが可能です」

 日野の話によれば、古代遺跡風の建造物の地下深部に道真神威教の各種施設があって、その施設の一つがサリンの貯蔵庫であるらしい。そこに忍び入って証拠を収集して欲しいということなのだ。それらの施設に入るには、正剛も使用した直通エレベーターを使うのが最も簡単な方法であるが、そのエレベーターは厳重なセキュリティ対策が施されており、部外者が使用することは不可能とのことであった。侵入するには、宿泊客用のアトラクションとして作られた迷路を通り抜けて地下に降りて行かねばならないという。

「もし、諒輔さんが引き受けてくれれば、捜査官が潜入の手引きをしますが如何ですか?」

 至道とその一味を検挙できるのであれば、引き受けても良いと諒輔は思うものの、カムザリゾートの敷地内に入ること自体が先ず難しいだろう。

「神崎さん、車道を使わずにジャングルの中を通ってリゾートに進入することは可能ですか?」

「前にも申し上げましたが、ジャングルの中を進むこと自体が大変なことです。更に彼等の警戒網に引っかからないように侵入するのは、並大抵のことではありません」

「夜間であれば彼等の目から隠れて入り込めるのではないですか?」

「ジャングルは陽が差し込まず昼でも暗いのです。ましてや夜は真の闇のような暗さです。とても進むことは出来ません。それにハブは夜行性で夜間のジャングルは極めて危険です」

「なるほど、車道以外を通って侵入するのは無理か......」

「いや、一つだけ方法があります。この地図をご覧になって下さい」

 神崎は持参してきた西神坐島の地図を卓上に広げた。

「ここに、流れているのがカムザ川ですが、カヌーなど底の浅い船で遡ると、この3段の滝の下あたりまで行くことが出来ます。川の途中に河川桟橋があり、そこに監視所が置かれているようなので、そこを上手く潜り抜ける必要がありますが」

「あぁ、分かった。監視所は式神を使えば何とかなるだろう」

「3段の滝の下に辿り着いたら、滝の横をロッククライミングの要領でよじ登らねばなりません。ここを登り切ると、カムザリゾートの裏山に出ることが出来ます」

 諒輔にはロッククライミングの経験が無い。スポーツジムで何度かインドアのフリークライミングを試みただけである。カムザリゾートに入り込むことは、想像以上に大変そうだ。

「なんだか自信が無くなってきたなぁ」

 諒輔が思わず弱音を吐くとすかさず理紗が叱咤した。

「なによ、“なんくるないさー”が諒輔の身上でしょう、どんと引き受けたらどうなの」

 手厳しい理紗の指摘に諒輔は閉口しながらも、日野の申出を引き受ける決意をした。諒輔と神崎が潜入することとし、秘密捜査員との接触方法など日野と綿密な打ち合わせをして、3人は八重山署を後にした。

警察署を出ると、神崎は沢登りやロッククライミングに必要な機材を調達してくると告げて二人と別れた。残された二人は石垣島の商店街で買い物と食事を楽しんだ。久しぶりに都会でデートしたような気分になった諒輔は上機嫌であった。


 二十九日早朝、諒輔と神崎は拓馬の運転するクルーザーで西神坐島に向かった。早朝の出発になったのは、潮の満ち引きや波浪の予想などから判断しての決定であった。今日の二人は、迷彩帽に迷彩服、ハブ防止用の編み上げ軍靴、防水リュックサックを背負うというスタイルである。

西神坐港には拓馬の友人が待ち構えていて、自分が店長をしているダイビングショップに車で案内してくれた。西神坐島は断崖絶壁で囲まれた島で、砂浜はごく限られた場所にしかないが、その友人はその数少ない浜辺に面した所で、ダイビングやカヌーツアーのガイドと用具のレンタルをしていた。

 その店長の話によれば、カヌーで3段の滝まで遡ることは、以前に観光客用のツアーにも組み込まれていた位で、行くこと自体はそれほど問題ないが、途中にカムザリゾート用の河川桟橋があり、常時監視要員が詰めているとのことであった。

店長からルートの詳しい説明を聞き、装備を再点検すると二人はカヌーで海に乗り出した。浜辺の周辺はサンゴ礁で囲まれていて波は静かだが、河口に行くためにはサンゴ礁の外に出て、小さな岬を回り込まねばならない。幸い今日は凪でサンゴ礁の外に出てもそれほどの波はなく無事河口に着くことが出来た。


 河口はマングローブが密生しており、蛸の脚のような根を泥水に浸している。河口付近の河の流れは緩やかで、神崎と呼吸を合わせてパドルを使うと、滑るようにカヌーは進んだ。しかし、中流域に差しかかると、流れが少し急になり力を込めないと進まなくなった。それでもさほどの体力の消耗はなく、川面に覆い被さる樹木を時折掻き分けながら、順調に河を遡って行った。

神崎は、カヌーを漕ぐ手を休めると、腕時計で時の経過を確認し、前方に聳える山容を眺めていたが「そろそろ監視所です」と告げ、双眼鏡を諒輔に渡した。これからは神崎一人がパドルを使い、先頭の諒輔が双眼鏡で前方を探りながら進むことになる。神崎はカヌーを岸辺寄りにして、音を立てないように注意深くパドルを使った。やがて双眼鏡の視界に桟橋らしきものが見えてきた。

「河川桟橋があります」

「ラジャー、監視要員は見えますか?」

 諒輔は双眼鏡で桟橋の周辺を見回す。

「監視哨のような小さな建造物があります、それから車がありますね、あっ、人がいます」

制服姿の警備員が二人、煙草を吸いながら話し込んでいる。小休止といったところだろうか。銃器の類は携行していないようだが、胸にマイクを下げ、イヤホンをしている。無線で常時警備本部と連絡をとっているようだ。彼らに、絶対見つけられることなく通り過ぎなければならない。諒輔は神崎に、警備員が二人居ることを告げ、桟橋に近い岸にカヌーを着けるよう指示した。神崎は巧みにパドルを操って、桟橋から見えにくい岸辺にカヌーを着けた。そこは足場が悪く樹木が密生しているが、樹の枝に掴まり、なんとか上陸することができた。神崎にその場で待機するよう言うと、神崎はカヌーをロープで樹木に固定した。

 諒輔はよじ登るのに手ごろな樹木に足を掛け這い上がった。すると、桟橋の様子が見えた。双眼鏡を目に当てると間近に彼等の姿が観察出来る。丁度、警備員の一人が車に乗り込むところであり、エンジンをかけると急な坂道を登って行った。交代のために二人いたらしく、一人が去って警備員一人が残された。

 更に双眼鏡で付近を観察すると、桟橋に1台、監視哨にⅠ台の監視カメラが設置されていることが見て取れた。桟橋のカメラは川の方向に向けられており、川を行き来する船を監視するもののようであった。監視哨のカメラは警備員が立つあたりを映しており、警備員の様子をチェックする目的のようだ。

 諒輔は、木の枝から下りると呪を唱え、犬麻呂・牛麻呂を呼び出した。犬麻呂には親鳥擬態の術を、牛麻呂には吐霧如乳の術を施すよう命じた。二人の式神は頷くと、密林の中を分け入って桟橋に近付いた。

 犬麻呂は警備員に近づくと、腰の扇子を引き抜き半開きにすると、ふわりと空に投げ上げた。扇子は空中で色鮮やかな尾羽を持つ鳥に姿を変え、警備員の足元に羽音を立てて舞い降りた。警備員は何事かと足元の美しい鳥を眺めている。鳥は怪我をしているかのように、バタバタと羽ばたきしながら地面を這いまわる。警備員が取り押さえようと近付くと、すっと1メートル程鳥は飛び退り、また地面で羽ばたきを続ける。これぞ、犬麻呂得意の親鳥擬態の術である。

 その間に牛麻呂は桟橋の先端に立ち、扇子を広げて口元に宛がうと、川に向かって息を吐きだした。その息は乳白色をしており、ドライアイスの煙のように川面に落ちて広がり、辺りは濃い霧で包まれていった。これぞ牛麻呂得意の吐霧如乳の術

 式神二人の様子を窺っていた諒輔は、頃や良しと、神崎に合図してカヌーを固定していたロープを解かせた。諒輔がカヌーに乗り込むと、なるべく音を立てないようにパドルを使って、乳白色の霧の中を進んだ。警備員はまだ擬態の鳥を追い回しているようで、難なく桟橋を通り過ぎることが出来た。しばらくしてカヌーを岸に寄せ、犬麻呂と牛麻呂を呼び寄せた。二人の式神は密林の暑さと湿気にぐったりした様子で、舌を出して、はぁ、はぁと忙しなく呼吸をしている。熱帯の地、しかも昼日中に式神を遣うのは可哀想だったと気付き、充分に労って呪を唱え引き下がらせた。

 

 川幅が狭まり、流れが速くなってきて、二人は力を込め、息を合わせてパドルを漕いだ。しばらくすると行く手から滝音が聞こえ、なおも進むと滝が視界に入った。3段の滝はその名の通り、3つの滝が連続しており、一番上が上段の滝、真中が中段の滝、カムザ川に落ち込む一番下は下段の滝と呼び慣わされていた。諒輔と神崎は下段の滝のしぶきに濡れながら、カヌーのパドルを操って、どこか上陸できる所がないか探した。滝の落下する付近は切り立った崖になっており上陸するのに適した箇所を見つけることは出来なかったが、少し離れた所に何とか上陸出来そうな所が見つかった。二人はカヌーから降りると腰まで水に浸りながら、協力してカヌーを陸に引き揚げ、中から防水リュックサックとロッククライミング用のザイルやヘルメットなどを持ち出した。

簡単な糧食と水分をとり、防虫薬を手や、顔、首筋などに入念に塗り込んだ。ヘルメットを被ると用意はすべて整った。これからは神崎が頼りである。リュックサックを背負い、ザイルを肩にすると神崎の後について、下段の滝の取り付き口に向かって歩き出した。

密集するシダの群れを掻き分けてしばらく行くと、下段の滝の中程に出た。威嚇するような轟音が諒輔を怯ませたが、神崎は平然と「これから沢登りです」と挑むような口調で告げた。先に神崎が上り、そのルートを辿り諒輔が進む。滝の飛沫で濡れる岩場は滑りやすいので、足元を良く見ながら登るべきだが、高所恐怖症の傾向がある諒輔は下をあまり見ないようにしようと決めていた。


 沢登りは初めての経験だったが、スポーツジムで数回行ったフリークライミングの経験が思いのほか役に立った。ジムのインストラクターから、3点ホールドなどの基本は教えられていたので、それを思い出し基本に忠実に、ゆっくり着実に身体を上に移動させていった。また、ジムで筋肉トレーニングをずっと続けていたことも、大いにプラスになった。

やっと下段の滝をクリアした。これだけでも大変な思いをした諒輔は、(更に中段、上段と二つの滝を登るのか)と滝を仰いでため息をついた。しかし今さら引き返すことは出来ない。何が何でもこの滝を登り切らねばならないと観念し、「よし! 行くぞ」と自分に気合を入れた。

中段の滝は沢登りに慣れてきたこともあり、神崎に助けられながらなんとか登り切ることが出来た。問題は最後の上段の滝である。神崎の説明によると、上段の滝の最終部分は急な前傾壁になっていて、ここをクリアするには高度の技術と体力が必要とのことであった。体力はともかく、技術のない諒輔は途方にくれたが、神崎が先に上まで登り、ザイルを降ろすので大丈夫だと励ましてくれた。

 一息入れて、上段の滝にアタックを開始する。なるべく下を見ないようにしているが、足場が悪いところでは下を見ざるを得ない。はるか下方に川の流れが白く光っている。引き上げたカヌーはちびた鉛筆ほどしかない。ザワザワとした感触が下腹に走り、腰が抜けそうになったがどうにか踏ん張った。

 いよいよ最終部分に差しかかった。神崎はリュックサックを諒輔に預け、ザイルを襷掛けにすると、前傾した壁を登りだした。神崎は、両手だけを使って突き出た棚状の岩を這い上がり、身体を揺らした反動で、岩の裂け目を飛び越えるなど、超人的な動きをして遂に滝の最上部に辿り着いた。ハラハラして見守っていた諒輔は大きく安堵の息を吐いた。ザイルが投げ降ろされ、二人のリュックサックを結わえつける。神崎がそれを引き上げると、次は諒輔の番である。ザイルを腰に確り結びつけると最終難関に挑んだ。ザイルで確保されているという安心感があり、また神崎が上手に引き上げてくれたので、漸く諒輔も上段の滝を登り詰めることが出来た。

小休止の後、灌木を掻き分けて進むと、意外にも登山道のような人一人が通れるほどの道に出た。その道の先には展望台らしきものが設えてある。カムザリゾートの宿泊客がそこから、3段の滝を眺める為のものと思われた。であれば、展望台と反対の道の先はカムザリゾートに通じているはずである。付近にセキュリティ設備がないことを確認すると、ヘルメットを脱ぎ、ザイルなど共に茂みに隠して道を下って行った。


 注意深く進む内に下方にベージュ色の建物が見えてきた。この分ではカムザリゾートまで数十分以内に着くことが出来ると思われたが、下るにつれ、道の両側の樹木の密度が増して行き、ジャングルの様相を色濃くしていった。鬱蒼と生茂った枝葉が、日の光を遮り昼日中と言うのに薄暗い。朽ちた倒木の陰などに、ハブが潜んでいるかもしれないと神崎に告げられた諒輔は、びくびくものであった。その姿を見た神崎は「後ろの人の方が、ハブに咬まれやすいので」と先頭を諒輔に譲ってくれた。

 途中、熱帯特有のスコールに見舞われたこともあり、予想に反して一時間近くかかって漸くに光の差す開けた場所に辿り着いた。そこはカムザリゾートの敷地の境界とも言うべき所で、敵の監視エリアに立ち入ったことを意味する。神崎が首に下げていた双眼鏡を目に当て、入念に行く手を眺め回した。

「遺跡のようなものが見えます」

 神崎は方向を指差しながら、双眼鏡を諒輔に渡した。

「あぁ、あれが古代遺跡ラビリンスか」

ジャングルに視界を邪魔されて、その全容は見えないがそれが目指す建物であることは間違いないようだった。周囲に警備員などの人影は認められない。「チェックポイントがどの辺りか分かりますか?」

双眼鏡を神崎に返しながら、秘密捜査官が潜入に必要なものを隠している場所について訊ねた。

「えぇ大体の見当はつきます。もっと、近付けば目印を見つけることが出来るでしょう」

「分かった、それじゃ先に進もう」

諒輔はすっかり元気を取り戻し逸り気味である。

「これからは敵の監視の目を充分に注意して進まなければなりません。私に続いて下さい」神崎は教え子に諭すように言って先に立った。

この先は、ラビリンスを取り囲む密林の中を行くことになる。敵の気配を警戒しつつ進んで行った。


「確かこの辺りなんですが......」

 神崎はメモを広げ確認しながら周囲を見回した。そこはラビリンスから少し離れたガジュマルの生い茂る箇所であった。

「あっ、有りました」

神崎は一本の木の枝を、拾い上げ諒輔に見せた。木の枝の先が刃物で切り裂かれている。

「ここを掘ると何か出てくるのですね」

 警察庁の日野との打ち合わせによれば、秘密捜査官が潜入に必要なアイテムを埋めてくれている筈だ。神崎がリュックサックから、スコップを取り出し堀始めた。

果たして、そこにはビニールで包まれたものが有り、その包みから道真神威教徒用の白い道服とサンダル二人分、ラビリンスの迷路の手画き図面、それに車のキィが入っていた。車のキィは、敵に発見された場合に逃げ出す脱出用の車のもので、リゾートホテルの駐車場の一番奥に置かれているはずであった。諒輔と神崎は教徒用の道服に着替え、サンダルに履き替えると脱ぎ捨てた服や靴などを茂みに押し込みラビリンスの入り口に向け歩き出した。


 先を行く神崎が振り返り、押し殺した声で「話声がします」と注意を促した。耳を澄ますと、成るほど複数の人の話し声が行く手から聞こえて来る。腰を屈め、忍び足で進み、樹木の陰から様子を窺う。白い道服を身に着けた十数名の男女の道真神威教徒がラビリンスに向け歩いて行く。なおも観察を続けると、信者たちはラビリンスの入り口から中へと入っていった。その様子を見た諒輔と神崎は互いに見合って頷くと、小走りに走ってラビリンスの入り口に向かった。

 間近に見る遺跡風の建造物は、黒褐色の長四角形の岩石を組みあげて造られており、熱帯樹の根が絡まったり、苔むしていたり、或いは今にも崩れ落ちそうになっていたりと、いかにも廃墟の神殿のようである。入口の両脇には、神獣の石像が、またその奥に警備員が一人立っている。咎められるのではと危惧したが、諒輔と神崎が近付くと、早く中に入るよう急き立てられた。

思いがけずラビリンスの内部に、楽々と進入することが出来、拍子抜けするほどだったが、先に入った信者の姿はすでになく、これからは自力で迷路を通り抜けて、地下の道真神威教の施設に辿りつかねばならない。捜査官が描いた図面と見比べながら進むことにする。

内部は薄暗く、廃墟を模した造りであるが、宿泊客用に作られたアトラクションなので、所々に照明があったり、非常用出口の表示があったりして、本物らしさは今ひとつである。分岐点など要所要所に、入口にあつた神獣の石像と同様なものが置かれている。手がかりになるのは捜査員が描いた図面である。ペンライトの光で見る手書きの図面は見難いうえに、不正確な表示もあって、行止まりにぶつかったり、もと来た道に戻ってしまったりと中々進むことが出来ない。そもそも立体的な迷路を2次元の図面で現すのは無理がある。諒輔は犬麻呂と牛麻呂を呼び出すと、道先案内するように命じた。二人の式神は、壁面や地面を嗅ぎ回っていたが、先に入った信者の匂いの痕を嗅ぎ取ったのであろう、迷うことなく諒輔と神崎を誘導して行く。目的の施設は地下に有るので、下方に降りて行くに違いないと思っていたが、犬麻呂たちは意外や上へ上へと進み、とある神獣の石像のあるところで立ち止まった。どうやら、この石像の裏側に道真神威教の地下施設に通じる入口が隠されているらしい。

 どうしようかと思案していると犬麻呂は何かに気付いたようで、もと来た道に走って行った。すぐに戻って来ると、誰かがこちらにやってくると諒輔に告げた。耳を澄ますと成るほど人声が近付いて来る。「おい、もっと早くしろ」「教主様の講話が始まってしまうぞ」などの声が聞きとれた。神崎も気付いて皆一緒に横道に入り込み姿勢を低くする。やって来たのは、白い道服を着こんだ信徒の一行で、男女合わせて10名ほどもいるだろうか。石像の前で立ち止まり、先頭の一人が何やら石像に触れると、奥に通じる秘密の扉が開いた。

「奴等の後に続きましょう」神崎の耳元で囁くと、信徒一行の最後尾に付いて扉の中に入り込んだ。辺りは薄暗い上に、一行は先を急いでおり、二人が増えたことに誰も気づかない。足早に進んで行くと、下に続く階段があり、3、4階分程も降りただろうか、漸く道真神威教の施設区域と思われる場所に到達した。

 そこはやや広い空間で、明るく照明されたエレベーターホールであった。おりしも昇降箱が下降してくるところで、信徒一行は「教主様がお着きになるぞ、急げ!」「もたもたするな!」などと言い合いながら、奥に駆け込んだ。諒輔と神崎も一緒に付いて行く。一行は左右に開かれた扉の中に入ったが、諒輔達はそこを行き過ぎ更に奥に向かった。通路の角を曲がり、踏み止まると顔だけ出してもと来た方を窺った。至道を先頭に数名の者が左右に開かれた扉を入る所であった。お付きの者の中に、社長室長の星嶋の姿もある。

 捜査官の図面によると、今、至道達が入った部屋は道真神威教の教会のようだった。図面に書かれているのはそこまでで、更に先の施設部分がどのようになっているかは見当がつかない。それでも秘密捜査官はこの地点までは来たことが有るということであり、成る程、優秀な捜査官だと改めて感心した。

 改めて辺りの様子を窺う。どうやら施設の人達は、こぞって至道の講話を聴きに教会に詰めているらしく人気は無い。これ幸いと、サリン貯蔵所があると思われる最奥部に進んで行った。すると行く手に病院のナースセンターのようなカウンターがあるのが見て取れた。その前の通路に看板が置かれている。そっと近付き、看板の文字を読む。

“これより先進入禁止 警備隊本部”

カウンターには警備員……いや警備隊員と言うべきだろう制服姿の者が一人いて、監視カメラのモニターを見つめていた。カウンターの背後の部屋が警備隊の本部のようであるが、ここからは内部の様子は窺えない。

 今、諒輔達は道真神威教の施設の奥深くにいる。信者の道服を着ていたとしても、至道の講話も聞かずに徘徊している様子をモニターでチェックされたらたちまち警報が鳴り響くことだろう。ここは式神を遣って、警備隊員の注意を逸らし、その隙に最奥部に近付く他ない。屋外であれば、犬麻呂の親鳥擬態の術が有効だが室内では他の方法を使う必要が有るだろう。諒輔はしばし思案して、犬麻呂を呼び寄せると策を授けた。ところが犬麻呂は首を横に振って承知しない。諒輔は犬麻呂に本性の犬の姿になって、警備隊員の注意を逸らす策を授けたのだが、式神にとって本性を晒すのは、かなり恥ずかしい事のようで、中々承知しないのだ。駄々を捏ねた場合はこうするより仕方無い。

「また、デズニィーランドに連れて行くから」と約束すると、犬麻呂はコックリと頷き、本性の犬の姿に変じた。その姿は柴犬より少し大きめだが、日本犬の特徴をよく現している。くるりと巻いた尻尾と引き締まった身体つきは、いかにも敏捷そうである。また円らな瞳と丸い眉毛が愛らしい。

 犬の姿に変じた犬麻呂は教会の前や、エレベーターホールの間を行ったり来たりして、警備隊員がモニターで気付くよう頑張っている。しかし、警備隊員はモニターの中の犬の姿に中々気づかない。痺れを切らしたのか犬麻呂は警備カウンターの前にトコトコ歩いて行き、警備隊員の目の前の壁面に片足を上げて、おしっこをした。これには鈍感な警備隊員もさすがに気付いて「おい、そんなところにションベンするな!」と叫ぶとカウンターを飛び出した。犬麻呂はエレベーターホールの方に逃げて行く。その後を、慌てて警備隊員が追いかける。

 トイレに通じる横路に隠れていた諒輔達は,この隙に警備カウンターの前を通り過ぎる。背後に耳を澄ますと、追いかけるのを諦めて戻って来た警備隊員が、入口にいる警備隊員と無線でやり取りしている声が聞こえて来た。

「おい、聞こえるか? こちらに犬が一匹紛れ込んだぞ」

相手の声は聞こえない。

「入口でもっと確り見張ってなきゃ駄目だろう......えぇ? 猫一匹入り込ませないだと、何言ってるんだ、俺の目の前で犬がションベンして逃げて行ったんだぞ」など、言い合っている。

 そうこうする内に、水干姿に戻った犬麻呂が帰って来た。警備隊員はしばらく入口の警備隊員と侃侃諤諤していることだろう。

 

 最奥部分のサリン貯蔵施設が有ると思われる一画には、ロッカー室があり、その隣に防護服が吊り下げられた部屋があり、汚染物質を洗い流す除染室があった。これらの施設は、以前シュラ・コスメティックの箱根工場に忍び込んで発見したものと、ほぼ同様の配置である。諒輔は携帯電話のカメラでそれらを一通り撮影すると、最奥の貯蔵室に進もうとしたが、頑丈で密閉式の金属製の扉があり、入り込むことは出来なかった。金属製の扉は、ポルトガル村の旧ホテルの地下にあったものと、ほぼ同様の造りであり、重量感溢れるものである。この扉も一応写真に撮って、長居は無用とばかり、引き返すことにした。

そのとき、多くの人の話し合う声が聞こえて来た。至道の講話が終わって教会から信徒が出て来たのであろう。信徒の後ろに付いて、この迷宮から脱出しようと目論んでいたので、急いで教会の方に向かった。ところが、何人かの人たちがこちらに向かってくる気配がする。このままでは彼等と鉢合わせしてしまうだろう。咄嗟に、近くの扉を開けて室内に滑り込んだ。

 入った所は、壁も天井も白一色で、小さなホールのような趣である。中央には白い花で飾られた聖母像らしきものがあり、宗教的な儀式の場所のような雰囲気である。中央の聖母像近くにそっと進むと、右手に部屋の一部が見えた。医療機器らしきものがあり、消毒薬の匂いが漂ってくる。

(ここが、たらちねの間か?)

諒輔と神崎は顔を見合わせ頷くと、そっと病室らしき右側の部屋に入る。犬麻呂と牛麻呂も忍び足で後に続く。部屋の奥まった所が透明のビニール製カーテンで仕切られており、その向こうにベッドがある。その周囲を医療機器が取り囲んでおり、計器の表示盤には波型の図形が流れていたり、刻々と変化する数字が明滅したりしていた。

ビニール製のカーテンを押し開けて、そこに横たわる人物を観察した。白髪、痩せこけた身体、皺だらけの手足、それは、生霊となって真俊に襲い掛ったあの老婆に違いなかった。脳波計、心拍計、血圧計などの計器類の線と、点滴、胃瘻、排尿などの管で全身を繋がれており、口には酸素マスクが宛がわれている。ユタの幸枝が見た、生霊の身体に生えた細い蛇のようなものは、これらの線や管であったのであろう。諒輔が見た生霊は、口が河童のように尖っていたが、これは酸素マスクの形が現れたものに違いなかった。至道の母のサイが植物人間状態であることは、正剛の話で承知していたが、実際に間近でこうして見ると、いかにも痛ましい。

「そこにいるのは、誰なの!」

突然背後から声を掛けられ、驚いて振り向くと看護師と思われる白衣の女性が病室の入り口で立ち竦んでいる。その声に神崎が反射的に反応して看護師目掛けて突進した。それを見た看護師は恐慌をきたして、悲鳴を上げて逃げだしにかかる。神崎は看護師を取り押さえて、口を塞ごうとしたのだろうが、看護師の逃げ足は思いのほか速く、廊下の外に飛び出すと、大声で助けを求めた。

廊下の外は、至道の講話が終わったばかりで、かなりの人がいたこともあり、信徒と警備隊員が雪崩を打つように部屋に押し寄せて来た。

 諒輔は犬麻呂と牛麻呂に退路を確保するよう命じ、その後を追った。神崎は諒輔の背後をガードしながら付いて来る。二人の式神は、白い道服を着た信徒たちは簡単に排除していたが、警備隊員に対してはどうしたことか手が出せないでいるようだ。警備隊員の制服にはドーマンの印が縫い付けられている。そのため手出しができないのだろう。

そのため警備隊員に対しては、諒輔と神崎が相手になり進路を切り開いた。どうにかエレベーターホールまでやって来たが、そこには社長室長の星嶋がいて、諒輔達が近付いて来るのを冷ややかに見つめていた。至道の姿は無い。既にエレベーターで上に向かったのだろう。諒輔と星嶋の目が合った。

「お前は、あの医師の息子......なんで、お前がここに居るのだ?」

「何処に居ようとこちらの勝手だ、それよりそこをどけ、邪魔だ!」

 二人は対峙する形になり、式神を含む周囲の者は争うのを止めて、二人を取り巻いた。

「私が邪魔なら、実力で追い払ったらいいだろう」

 星嶋はスーツの上着を脱ぎ捨てると身構えた。空手かカンフーを使うようだ。

「武術なら私が相手をしましょう」神崎が前に出て星嶋と向かい合う。

 神崎は星嶋に無視され続けているのが我慢ならないようであった。

図らずも神崎と星嶋との一対一の闘いが始まった。両者実力が伯仲しているようで、中々勝負がつかない。周りの皆は固唾を飲んで見守っている。

その間、諒輔は一歩引き下がると、牛麻呂に吐霧如乳の術を行うように命じた。牛麻呂の口から吐き出される息は濃い霧となり、床を這い広がると、次にもうもうと立ち昇り、辺り一面は乳白色の霧に包まれていった。

神崎と星嶋の闘いは、一瞬のすきを突いて神崎が星嶋の脇腹に突きを入れて勝負がついた。神崎は、崩れ落ちた星嶋を見降ろし、荒い呼吸をしている。諒輔は神崎に近寄り、腕を引いて脱出することを告げ迷路に続く道に突き進んだ。


 ラビリンスの出入口には数人の警備隊員がいたが、蹴散らして脱出した。ジャングルに囲まれた屋外は蒸し暑く、犬麻呂と牛麻呂をこれ以上遣い続けることは出来ない。呪を唱えて二人の式神を引き下がらせると、諒輔と神崎はカムザリゾートの従業員用の駐車場に向け走った。後方から、多くの人が追ってくる声や足音が聞こえる。

ホテル棟の裏手に回り込む。従業員用駐車場の一番奥に、周囲の車から仲間外れにされたとでもいうように、1台の車がポツンと置かれていた。4輪駆動のランドローバーである。この車が、秘密捜査官の用意した緊急脱出用の車であるはずだ。諒輔が助手席、神崎が運転席に乗り込むと、神崎はキイを差し入れエンジンを始動した。

追いかけて来た警備隊員たちは、駐車場の車に分乗しているところである。神崎は、タイヤを軋らせ急発進すると、それらの車の鼻先を掠めて走り抜けた。正面玄関を経てメイン道路に出る。追いかけてくる車の数は5台か6台か、追いつかれたらまた闘わねばならない。しかし追跡してくる車の様子が変だ。真っ直ぐに走行できないようで、そのうちの何台かは、道から大きく外れて停車してしまった。傾いた車体の様子から、どの車もパンクしているようであった。多分、秘密捜査官が細工したものであろうが、お陰で楽々と逃走することができた。


 途中の検問ゲートには二人の警備隊員が待ち構えていたが、諒輔と神崎は易々と一蹴して無事西神坐港に車を乗り付けた。港の入口には、スーツ姿の女と男が待ち構えていて、諒輔達の車に近付いてきた。港にも敵が待ち伏せしていたかと緊張したが、年の頃、40代半ば、気の強そうな女性が何やら喚いている。

「遅かったじゃないの、私をこんなに待たせるなんていい度胸だわね」

車体にカムザリゾートのロゴが入っており、乗車している者が白衣の道服を着ていたので、迎えの車と勘違いしたようだ。

(でも待てよ、この女どこかで見たような......)

「全く気が利かない人たちね、さっさとドアを開けたらどうなの」

その時、諒輔は思い出した。

(シュラ・コンサルタンツの元研修広報担当、現在は月瞑の後を継いで社長の座にある鮫島穂来......)

今日の穂来は、黒縁の眼鏡をしていないので思いだすのが遅れたのだ。諒輔は車から降りると、にこやかに笑いかけた。

「鮫島さん、お久しぶりです」

穂来は、怒鳴りつけていた相手から気安く声を掛けられて、(こいつは誰?)という表情をして一瞬黙り込み、まじまじと諒輔の顔を見上げた。

「あ! お前は......」

 身長185センチという背の高さが、諒輔の大きな特徴の一つである。穂来は見上げるうちに諒輔のことを思い出したようだ。

「この車をどうぞお使い下さい。他の車は皆パンクして使いものにならないですから」

 諒輔は唖然としている穂来に手を振ると、神崎と共に桟橋の方に歩き出した。


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