第七章 生霊祓い

 翌、6月25日、諒輔と理紗が朝食をとっているテーブルに真俊がやってきた。相談したいことがあるので、食後、事務所に寄ってくれとの申し出である。真俊は眼の下に隈を作り、憔悴した表情であるのが気がかりであった。諒輔に相談したいということだったので、理紗を自室に帰し、一人で事務所に出向いた。

 事務所の中の奥まった所に社長室があり、出迎えた真俊は諒輔をその中に招じ入れた。狭いスペースに小振りな応接セットが置かれている。諒輔は勧められるまま椅子に腰かけ真俊に向き合った。

「先ほどはお寛ぎのところ、食事の席に押し掛けて失礼しました」

「いえ、構いません。それより顔色が悪いようですが何かありましたか」

「えぇ、私にとっては異常な出来事が……でも他人からみると大したことじゃないと言われそうで……」真俊は不安げな表情を隠そうとしない。

「どんなことです? 言ってみて下さい。昨夜の集会で、何か異常があればどんなことでも連絡し合う約束したでしょう」

「そうですね、分かりました……実は恐ろしい夢を見たのです。いやあれは夢ではなく現実のものだったのかもしれません」

 諒輔は真俊の眼を見つめ、勇気づける様に頷いて見せ、先を促した。

「深夜、気がつくとあれが部屋にいたんです。私は金縛りにあったように、身動きどころか、声を上げることさえ出来ませんでした」

 その後、真俊が話した内容は、神懸かりした咲江が見たものとほぼ同様であり、真俊の部屋にいたものは、至道の呪祖による生霊に違いなかった。

「漁業組合長も同じような悪夢に悩まされていたことをご存知ですか?」

「えぇ、何かの祟りであったと噂で聞いていました。だから余計に不安なんです。私も、漁業組合長と同じように死ぬのかと……」

 不安に怯える真俊に、何と告げるべきか一瞬迷ったが、危険な状況であることは伝えておくべきだ。

「強力な何かに取り憑かれています。容易ならざる事態です」

真俊は何か言おうとしたが、声にならずただ大きく頷くばかりであった。

「しかし、我々はあなたを助ける手立てを知っています」

「本当に助ける手段を知っているのですか?」

藁にも縋るというような表情で真俊は訊ねる。

 “私は穏の長者です”と言っても、真俊には何が何だか分からないだろう。ここは嘘も方便で理紗に登場願うことにした。

「実は、安倍理紗は安倍晴明の直系の子孫なんです。彼女は陰陽道に通じており、悪霊祓いの方法を知っています」

 真俊は安倍晴明の名を聞くと納得したようで、しきりに頷いている。安倍晴明公の威力は絶大だと改めて感じた。

「ただ、助けるにはユタの咲江さんの協力も必要です。金城社長から事情を説明して、今夜社長の自宅に来るよう言ってくれませんか」

 諒輔一人でも生霊祓いは出来るのだが、真俊や家族の者を安心させるためにはユタの力も借りた方が良いと判断したのだ。

「分かりました、諒輔さんと理紗さんも来てくれるのですね」

「もちろん行きます。我々が必ず撃退してみせますから、心配しないで普通に仕事をしていて下さい」諒輔は力強く励ました。


 さてその夜、10時、理紗を伴って真俊の自宅を訪れた。理紗は最初、気味悪がって同行を拒んだが、理由を説明してなんとか一緒に来て貰っている。今夜の理紗は裾まである黒のサマードレスに黒のショールを肩にかけ、サングラスをしている。いかにも胡散臭いが、見方によっては霊能者らしい雰囲気がないでもない。

真俊の自宅は、鉄筋コンクリート造りの大きな2階建の建物であった。玄関を開けると真俊と拓馬の父子が出迎えた。そして咲江がすでに到着していて、別室でユタの装束に着替えていることを告げた。応接室に入ると、真俊の妻や両親がいて挨拶を交わした。そうこうする内、着替えを終えた咲江が応接室に現れたので、早速段取りを打ち合わせすることにした。

咲江に漁業組合長と同じ悪霊が真俊に取り憑いていることを説明すると、一人ではとても太刀打ちできないと咲江は主張した。そこで諒輔は咲江を納得させるための小芝居を打つことにした。真俊とその家族の信頼も得て置く必要がある。

諒輔は、皆に気付かれないように小さく呪を唱え、犬麻呂と牛麻呂を呼び出した。

「皆さん、良くお聞きください。ここにいる安倍理紗さんは陰陽師として有名な安倍晴明公の直系の子孫です。晴明公から代々受け継がれた強力な呪力の持ち主です。では理紗さん、その呪術の力を少しばかり、皆さんに示していただけますか」

 理紗とは打合せ済みのシナリオである。理紗は小さく咳払いすると勿体ぶった仕草で、ハンドバックからハンケチを取り出した。

「それではほんの少しだけですよ……ありゃぁ!」

 理紗がいきなり大声を上げたものだから、一同驚き、のけぞる。諒輔と犬麻呂、牛麻呂もびっくりだ。理紗は手にしていたハンケチをふわりと投げ上げた。すかさず犬麻呂と牛麻呂は腰に差した扇子を開くと、ハンケチを煽いだ。するとハンンケチの周囲に五色の霞がかかり、その霞が薄らぐと羽衣を肩にかけた小さな天女が空中に舞い出た。しばらく優雅に舞っていたが「はぁー!」とまた理紗が大声を発すると、犬麻呂と牛麻呂は煽ぐのを止めた。天女はたちまち元のハンケチに戻り、ふわりとテーブルに落下した。

「よーく分かりました、理紗さんの力、しかと拝見しました」

真俊が感嘆した表情で言うと、居合わせた人は皆、頷いて納得した。咲江も頷いていたが「何かそこんかい居るようだが、あれーうんじゅぬ遣い神か?」と理紗に訊ねた。

「ほぉーほっほっほっ、さすがユタ殿、その通りにございます。可愛いらしき者どもでございましょう?」

 理紗に可愛いと言われて、犬麻呂と牛麻呂は嬉しそうにモジモジしている。それにしても理紗はやり過ぎである。ボロが出ないうちに幕引きにしなければならない。呪を唱えて犬麻呂、牛麻呂を引き下がらせると、「うっふん」諒輔は大きく咳払いし「さぁこれで皆さんもご納得していただけたようなので、悪霊退散のための準備にかかります。それでは真俊さんの寝室に参りましょう」と言って立ち上がった。


 真俊の寝室は2階にあった。夫婦の寝室は別々のようで、真俊の寝室は、襖を仕切にした和室2間が当てられていた。片方の部屋にユタの祭壇を作ることにし、真俊が寝る部屋には、いつものように布団を敷かせた。用意してきた紙製の等身大の形代を敷き布団に置くと、諒輔の準備はこれで終わりである。咲江の祭壇作りを理紗と一緒に手伝い完成すると、諒輔、理紗、咲江は応接間に戻った。真俊は12時になったら寝室に行く手筈になっており、それまでは拓馬と居間で酒を飲んで過ごしている筈である。諒輔達もその時間に寝室に行くことにしていた。応接室には、泡盛、ウィスキーなどと酒のつまみが出されていたので、ちびちびやりながら時間の過ぎるのを待つことにした。


 十二時少し前、真俊が応接間にやってきた。さすがに緊張した面持ちである。諒輔は心配しないよう励ましつつ、先頭に立ち2階に上がった。咲江と理紗は祭壇のある部屋で祈祷をすることになっている。理紗はもちろん祈祷の真似ごとをするだけだ。諒輔は真俊、咲江の二人に霊符を渡し、肌身離さず身につけて置くよう念を押した。霊符を渡された咲江は「おぅ、くれーぬセーマンの印!」と有り難そうに押し頂いた。理紗には既に渡してあり、肌に着けている筈であった。

「霊符を身につけておけば、悪霊はそこに人が居ると気付かないから安心して下さい」

諒輔はそう言うと、真俊と共に布団の敷かれた部屋に入り仕切の襖を閉めた。

 部屋に入ると、理紗のアシスタントとして悪霊祓いの準備を行うと真俊に告げ、形代の上にそっと寝そべるよう指示をした。真俊が言われたようにするのを見届けると、照明を切り、部屋の片隅に座って生霊祓いの準備にとりかかった。

生霊祓いなどの悪霊退散の法は、裏土御門家のいわばお家芸とも呼べるもので、古来、公家、殿上人、有徳人などから要請を受けて、施してきたものである。従って並みの悪霊であれば、裏土御門に連なる者なら誰でも祓うことが出来たのである。しかし、今夜の相手は、最強の呪祖「鉄輪の法」によるもので、これに対抗できるのは穏の長者しか居ない。諒輔は気を引き締めて祈祷に集中し、形代に真俊の気を写し取った。

「そっと起き上って下さい。形代は破れやすいので気を付けて……起きたら隣の部屋で待機していて下さい」

真俊は上体を起こすと、這うようにして隣の部屋に行った。襖がぴったり閉められたのを見届けると、諒輔は気を鎮め気配を消した。後は生霊の現れるのを待つばかりである。


 午前一時を過ぎても生霊は現れない。更に一時間が経過して、床の間に置かれたアンティークな時計が、チンチンと小さな時を告げた。ややあって迫る者の幽かな息遣いが聞こえた。

(いよいよ鬼女が現れるぞ)

胸の内で自分に言い聞かせたその時、空気がざわめくような気配があり、暗がりが凝縮されて、室内は真の闇に包まれて行った。

「来るぞ!」諒輔は隣の部屋に向け低く叫ぶと、部屋の片隅の闇を凝視した。

 先ず現れたのは、赤い点であつた。それは闇に光る獣の眼のようであったが、次第に大きくなり、ちろちろと揺れる三つの炎になった。三つの炎は、鉄輪の脚の蝋燭の灯であり、その炎に照らされて、人らしき陰が滲み出て来た。最初はぼやけていたが次第に輪郭を形作り、赤い着物を身に着けた女の姿が浮かび上がった。その姿は若い女のようであるが、蝋燭の灯で揺らめく女の形相は鬼女そのものであった。

 それはしばらく身動きをせず、陰が形になるのを待つ様であったが、形が整うと“ぐらり”と動いて、真俊の形代に向け歩み出た。手に何かを携えている。右手に槌、左手には五寸釘、丑の刻参りと同じ道具だ。

「恨めしや御身と契しその時は、玉椿の八千代、二葉の松の末かけて、変わらじとこそ思いしに、などしも捨ては果て給ふらん、あーら恨めしや」

 鬼女は陰に籠った声音で呟くと、一転して、獣のような敏捷な動きで形代に飛びかかり馬乗りになった。形代の首に五寸釘を左手で当てると、槌を持つ右手を大きく振り上げ「いで命をとらん」と叫び、槌を振り下ろした。

「うぐっ!」苦痛の呻き声を上げたのは鬼女であった。

 周囲を訝しげに見渡していたが、また右手を振り上げ、勢いよく振り下ろした。

「ぎゃぁ!」

鬼女は槌と五寸釘を投げ捨てると、自分の喉を両手で押さえて身悶えた。緑の黒髪は白髪に代わり、すらりと伸びた腰は押し曲がり、着物の袖から伸びた白く艶やかな両腕は皺だらけのものに変じて行った。それは痩せさらばえた老婆の姿であった。奇妙なのは口が烏天狗のように尖っていることであった。

 諒輔は“頃は良し”と見定めると、止めの呪を唱えた。老婆は白眼を剥いて痙攣して輪郭を崩して行った。そして次第に陰が薄くなり消え去った。

布団の上に残された形代には大きな黒い染みが付いていたが、諒輔は取り上げると、折り畳んで、無造作にズボンのポケットにねじ込んだ。

「終わりました。もう大丈夫です」

 諒輔が隣の部屋に声を掛けた。恐る恐る襖を開けて三人が部屋に入って来た。

「咲江さんと理紗さんの祈祷により、無事に悪霊を祓いました」

 自信に満ちた諒輔の言葉に真俊は一先ず安心した様であった。それでも、まだ不安は拭い去れないようで「何やら恐ろしげな声が聞こえましたが、あれは悪霊のものですか?」と訊ねた。

「さて、アシスタントの私には、良く分かりかねるので、理紗さんにお答えいただくとしましょう」

 いきなり振られて、理紗は一瞬戸惑った様子を見せたが「いかにも悪霊の声です。あの断末魔の声お聞きになられたでしょう。悪霊は懲らしめられ、祓われました。二度と現れることは無いでしょう」厳かに告げた。役者ぶりが板についてきたようだ。

「そうじゃ、悪霊やもう現れねーん」

 咲江もそう断言すると、真俊はようやく得心したようで、肩の力を抜き皆に向かい頭を下げた。

「ありがとうございます、お陰で助かりました。本当にありがとうございました」

 心底、恐ろしかったのであろう、その恐怖から解放されて、語尾が涙声になっていた。

「あれは漁業組合長を襲った悪霊と同(むにー)もぬであったな、それんかいしても恐ろしき相手じゃった」

 咲江の述壊に一同頷き、しばらく無言であったが、諒輔が沈黙を破った。

「さぁ、夜明けまでまだ時間があります。一眠りしましょう」

「いや、興奮して眠ることは出来そうにもありません。よろしかったら下で飲み明かしませんか?」

 疲れたし、眠くもあったので、どうしようかと思案している内に理紗が発言した。

「私も、今さら眠れないわ、ご家族の方も心配しているでしょうから、無事に済んだことを伝えてあげたらどうかしら」

 何時もながらに、まっとうな理紗の申出に、逆らうべくもなく、諒輔は承知したのであった。


 階下に行き、寝ないで起きていた家族の者に無事に悪霊祓いが出来たことを伝えると、皆、大層喜んで、家族も交えた酒盛りになってしまった。明け方になると諒輔も理紗も酒の酔いと疲れのために泥のように眠ってしまい“ヴィラ星の砂”の自分たちの部屋に戻ったのは6月26日の正午を過ぎていた。二日酔いで気持ちが悪かったが、部屋でシャワーを浴び、着替えをすると、少しばかり食欲が出て来た。理紗も少しなら食べられそうというので、メイン棟のレストランに行くことにした。

 サンドイッチにジュースという軽い食事をとっていると、拓馬がやってきて、昨夜の礼を述べ、悪霊払が成功したことが噂として既に島中に広がっていることを告げた。また神崎が今朝早く、カムザリゾートを調査すると言って、西神坐島に出かけたことも伝えた。

「それにしても、理紗さんがあんなに凄い霊力の持ち主だなんて知りませんでした」と理紗に向かい“恐れ入りました”と言うように頭を下げるとフロントに戻って行った。



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