それでも続く生活の 2

 おうさんはペンギンの宿命として必然的に、カワイイカワイイと言われるが、もうオジサンである。


 だからいい加減、若者のやきもきするやりとりにはお腹いっぱいなのだ。ユキノ嬢の飼い猫もそう言っている。イエネコのくせに、ユキノの知らないところで外に出て遊んでいる不良娘だ。飼い主に似て。


 気心知れず、実の息子のように溺愛している青年が、飄々としているくせにどこか抜けていて、そうは言っても油断ならないあののんびり屋が。どうしても叶えたい願いがあるなら、何にかえても叶えたいと思っている。


 しかし、青年が願いを口にすることは無いだろう。なんでも気安く言っているようで、届かないと思い込んだ場所には立ち入らない。この青年の長所で短所だ。


 どうしたものかな、そう思いながら、今日も水族館のバイトに精を出す。


 同僚の憐れむような笑いにも、何も知らない観客の歓声にもめげることなく、今日も空を飛ぶ練習にいそしむのだ。


  ✕


 とある飼い猫。シラトリという白猫である。シラトリがユキノ嬢と出会う前は、ずっとDに面倒を見させていた。捨て猫ではあったが、Dという優秀な下僕がいたので生活には困らなかった。


 Dはミィミィと命令する子猫に非常に従順で、中学校の裏の雑木林に毎日やって来て奉仕してくれていた。それはそれは大切にしていた捨て猫を、どうして彼女に預けたか。シラトリにはおおよそ見当がついている。


 心底大切なものをお互い預けあっておいて、平気で他人面をしているのだから、人間というものは本当に食えない。その点だけ、シラトリと王さんは意見が一致する。


 シラトリだってユキノのことが大切だ。Dによって三好家へ預けられて以来、ユキノは親友なのだ。シラトリの面倒を見るニンゲンはすべからく従者であることを思えば、これは特筆すべきである。


 だからこそ、最初で最後の親友には幸せになってもらわねばネコの沽券こけんに関わる。


 どうしたものかしら。そう思いながら、シラトリは今日もなんにもしないで塀の上に寝ころがっている。


  ✕


 ある日、突風が吹くみたいな勢いでDがユキノの家に飛び込んできた。ユキノの母は仰天したし、ユキノは「あのぼんやり屋が走ってくるなんて槍でも降るかな」とのんきに考えていた。


「よ、よ、ヨシノさんが、若い男と……!」

 Dが息を切らして、やっとそこまで口にすると、ユキノはすぐに合点がいった。ずいぶん古風な言い回しをしているが、ユキノの祖母の「恋人」の話だろう。


「ああ、あの人か。ありゃ爺さんの『生まれ変わり』だ」

「な、なんて?」


 Dがあんまりひどく消耗しているので、さすがのユキノも哀れに思って話してやった。自分の祖母と祖父との、無道徳な、あまりに無道徳な友情の話。


「まあ、なんだ。要するにうちのばあさまとじいさまは、どこまでいっても『惹かれあう』ってやつなんだろうな」


 どこまでホントか知らないけど、まあ、あの人は詐欺師じゃないよ。それだけはホント。

 そう言うユキノの瞳をじっと見て、Dは考えた。


「生まれ変わり」

「だってさ」

「それってすごすぎる」

 お騒がせしましたぁ。はーい、またおいでね。ユキノの母と普段どおりの挨拶を交わして、Dは来た時よりは穏やかに、しかし早足で帰っていった。おいてけぼりのユキノはきょとんとして見送った。


 Dはもう少しだけきちんと、誰より仲よしな幼馴染のことを考えてみることにした。


  ✕


 Dはこう見えて一応教師である。高等学校で古典の教諭をしている。周りにはどう思われているのやら、彼が教員採用に受かったと聞いた時、母親までびっくりして茶碗を落としてしまった。ペンギンの王さんは「やったな!」とばかりにフリッパーを振り上げたが、その激励はDの方から辞退した(本当に、シャレにならないくらい痛いのだ)。


 そういえばあの時、ユキノは何も言わなかった、とDは思い返す。それなりにいる昔からの友人連中も、家族も知り合いも、声の大きな魚屋さんも、そろって驚き祝福してくれたのに、当時ユキノ嬢はむっすり押し黙っていた。何を考えていたのかは誰にも分からない。


 そんなミステリアスボーイッシュヤンキー令嬢の一番の理解者は(ご両親を除けば)やっぱりDなのだが、それでも、彼女の考えがすべて分かるわけではない。


「王さん、おれ、路頭に迷っちゃったかなあ」

 台所でなにやらがさごそしていた王さんが、顔だけこちらに向けた。手(羽)は止めない

「ヨシノさんと若い男の人が楽しそうに話してて、それがどうも、……ああ、春だなあって」


 はいはい、と王さんは頷いた。首をかしげて続きをうながす。


 「おれ、なんか、いいなあって思っちゃって。ヨシノさん、幸せそうだったなあ。多分ああいう相手がいればユキノも――いやいや、うーん。でもなあ」


 ………………。


 沈黙と硬直の中、王さんは内心、跳び上がらんばかりに喜んでいた。

 あのDが! 女性どころか人類すべからく灰色のオブジェと思っていそうなDが! 数少ない、色つきの人間として扱っているユキノに、ようやく、ようやく自覚を――


「ま、いいか」

 王さんは嘴をぽかんと開けた。いいかと言ったのかこの小僧は。無頓着にも程がある。この愛すべき能天気な小僧っ子にガツンと入れてやらねば。


 ぽやぽやとカラーボックスから漫画を取り出すDの背後。メラメラと使命の炎を背負った王が、彼の最強の武器たるフリッパーを振りかざした。


  ✕


 シラトリは知っている。なぜDが自分を手放したか。責任の放棄ではない。彼にとって猫(つまりはシラトリにゃん!)が世界一の存在であることはゆるぎようもないのだから。でも、一人の人間に一つの世界とは限らない。猫は一つの世界で九度生きるが、人は一度きりの命で九つの世界を渡り歩く。


 彼の九つの世界はほとんど灰色で、しかしその中に、ひときわ鮮やかで輝くものを見つけてしまった。ずいぶん昔のこと。彼はずっとまぶしくて目を逸らしている。


 ユキノがドタバタ慌ただしく家から出ていくのを、シラトリは玄関の一番涼しいところで見送った。


 くあっと大あくび、ひとつ。


  ✕


 ブレーキが壊れたんだな。

 Dはベッドに寝転がったまま合点した。王さんに打たれた腰の痛みが熱をもち、全身に広がっている。だからとりとめのないことを考えてしまうのかもしれない。


「おい大丈夫か!王さんがすげえ慌ててうちに来て……!」


 峠の走り屋みたいな鋭いカーブをキメて、ユキノがDの寝室に飛び込んでくる。ドアの鍵を閉めずにおいてよかった、とDは胸を撫で下ろした。いくら気心しれた幼馴染でも、扉にぶち当たる姿は見たくはない。


「王さんだけに、まさに『おう』慌て。なんつって」

「次つまんねえ事言ったらベッドごと窓から放り出すぞ」

「そんなにか……」


 ふう、と安堵のため息をついて床に座りこんだユキノを横目に、Dはため息をついた。これまでには感じたことのない居心地の悪さ。なんとなく、尻の据わりが悪い。


 どうしようもなくて、もぞもぞとユキノに背を向けた。


「で、何寝てんだ。病気?」

「熱でたんだ。王さんに殴られ――あ、多分おれが悪いんだけど」


 ユキノが仰天して振り返る気配がした。


「王さんがそんなことするって、あんたよっぽど何かしたのか」

「おれ。あの時確か……」


 ぼんやりと空を眺めながらDは独りごちた。王さんがフリッパーを振り上げるまでに話していたことを思い出す。

「確か、ユキノのことを話してた」

「は?」

「ヨシノさんと若い男が歩いてたって知らせたことがあっただろ」

「ああ、ばあさまとじいさまの話?」


 もちろん、生まれ変わりなんて眉唾な話だとDは思っていた。しかし、老婦人と若い男が二人で連れ立って歩いている光景は、他人のDでさえ疑問を抱かないほどに「らしい」と思わされたのだ。


「それがどうして私の話になんの」

「いや、その時のヨシノさんがすごく、……いや、なんでもない」

「なんだよ、言えよ。気になるだろぉ」

 寝返りを打つと、思いのほか近くにユキノがいた。澄んだ瞳がなんのてらいもなくDを見つめている。


 おもむろにDは手を伸ばした。ユキノの耳元にそっと手を添えると、少しだけ色素の薄い髪がさらりと流れる。ユキノは身動き一つしなかった。熱に浮かされた幼馴染の奇行を黙って受け入れている。


「ユキノはすごくカッコいいよ」

「は?」

「へへ。おれは大丈夫。ヨシノさんにもよろしく」


 やっぱり、ブレーキがこわれたんだ。Dは納得した。ついでに体温調節機能も壊れてしまったのかもしれない。さらに熱があがった気がして、布団を目深にかぶって面会謝絶の意を示すと、ユキノはすぐに理解した。


 「なんか分かんないけど王さんすげーヘコんでた。ちゃんと話せよ。あとこれ、みかん。食え」

 「うん、どーも」

 「じゃあ、また」

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