アモラル・メモリア

 Yはしとやかな令嬢である。これだけ言えば十分彼女についてよく知ってもらえただろうが、あえて色々付け足すならば、学があり頭が切れ、ひけらかさず謙虚で、常に場をわきまえて行動し、時には勇敢で、時にはちょうど必要なだけ臆病だ。


 だから今はその臆病さを活かして待つのよ、私。Yは自分に言い聞かせる。十七の身空に、夜の古い洋館、暖房も焚かれないでいるのはひどくこたえた。ただでさえ温室育ちのご令嬢だ。


 そこへ、コツ、コツ、とのんびり調子の足音が近づいてきた。来るなら来なさい、とY嬢は身構える。


「やあやあ深窓のお嬢さん、貴女がワタクシのすみかに訪ねてくれるとは嬉しいことだ!実のところ君とは初対面ではないのだが、君のその怜悧な頭脳が僕を覚えていることを願うね、そう、君が狐であって豚ではないことをこいねがうよ!」


 調子外れのサアカスみたいに興奮して、仰々しい装飾つきの扉の向こうから男が登場した。楽しげにくるくると回転して近づいて、手に持ったステッキを振り回しながら喋るので、Yは男が話している間何度も首を引っ込めなければならなかった。かろうじて理解できたのは「僕たちどこかでお会いしましたか」という、ただそれだけの話。怪人の言うところの「怜悧な頭脳」によって、可能なかぎり前向きに解釈すると、そういう内容になる。


「お邪魔しておりますわ。こちらからご挨拶にもうかがえなくて申し訳ないけれど、『これ』だから……分かってくださいますね」


 椅子に縛られた手足をちょっと動かしてみると、男は「分かるさ、可哀想にねぇ」とうなずいた。


「それで、あなたを覚えているかどうかというお話なのですけれど。あなたがその奇怪な仮面でお顔を覆っているからには、確証をもって『お会いしたことがあります』とは申し上げられませんの」

「うん、うん、素敵なお嬢さん。よい答えだ。貴女がワタクシを『知ってい』ようと『知らな』かろうと愉快にあらず。愉快でなければワタクシは気まぐれに君の命の焔を吹き消すだろう」

「まさに風前のともしびと言った塩梅あんばいですのね」

「フフ、それはあまり面白くないな」

「あら、ひどい」


「さて、貴女はワタクシにさらわれてしまった訳だ、ご令嬢」


 唐突に、おかしな調子で男が言った。止まることを忘れたメリー・ゴーランドのようにぐるぐるぐるぐるとYの周りを回って(そう、謎解き中の名探偵がするように!)、興奮気味に続ける。


「あまりにも! あまりにも君の様子が平静なので、この怪人は少々不審に思っている。君、誇りに思うがいい! 怪人を怪しませるとは大したお嬢さんだ」

「どうもありがとう。でも、仕方ないと思いますわ」

「なぜ?」

「だってあなた、わたしのことを狐とか豚とか、そういう風におっしゃったでしょう? 私、怒ってますの。今にも『これ』を引きちぎることができそうですわ」


 そう言って、Yは縛られた両腕をひねろうとした。実際、ギチギチと荒縄が悲鳴をあげたので、怪人と名乗るおかしな男も少しだけサアカス気質を引っ込めた。


「君を侮辱するつもりはなかった。紳士にあるまじき発言だったね。君が不満というなら謝ろう。だがもしも、名誉のためにいのちを捨てるくらいならば、だ、お嬢さん。やはり豚にもなりたまえ、」

「また豚と!」

「らちが明かないな。いいさ、君に問う、ただこれだけを問う。『君は私のことを知っているね』」


 Yは考えた。ゆっくりゆっくり考えた。やがて月影が深い森に沈んでも、朝日が昇っても動かなかった。


 怪人は不思議と甲斐甲斐しく、Yの口元に温かいスープを運んだり手洗いのために縄を解いたりと世話を焼いてくれた。もちろん、逃亡だけはさせてくれない。


 夜になって、Yはおもむろに言った。


「ねえ、怪人さん」

「なんだね、気丈なお嬢さん」


 男は答えた。彼にはもう何もかも、分かっているようだった。


「あなたのことを知っているか、もう少しだけ考えてもいいかしら?」

「構わないさ」


 それからというもの、Yは少しずつ開放されていった。

 まず、縄を解かれた。怪人が、赤くなった縄目の跡にそっと手を重ね、視線を伏せた。まるで祈るように。彼の世界が大切なものを失ったように。一晩のうちに、跡はきれいさっぱり無くなった。


 次に、彼女は屋敷の中を自由に歩き回れるようになった。彼女が最初に通された部屋と、かろうじて人の気配のある寝室の他は、誰も住んでいないらしい。あまりに埃っぽくて不健康なので、Yは一週間のうちに屋敷の中をあらかた掃除してしまった。怪人は何も言わなかったが、少し、眉をひそめてはいた。


 そしてとうとう、彼女は屋敷を出た。スープの材料になる腸詰めや野菜のたぐい、それにひと月は二人で暮らしていけるだけの米を背負って、夕方にはまた戻ってきた。怪人はなぜだかびっくりして、仮面の向こうで目をまんまるにして言う。


「きみ、戻ってきたのかい。そんな米の袋を持って?」

「わたし、こうみえて力持ちなのですわ」

「そういえば初めて会った日、君は荒縄を引きちぎろうとしていたなあ。つまりきみは相撲取りみたいにお強いわけだ。ハ、ハ、そうかそうか、帰ってきたか!」

「まあ、お相撲ですって!」


 Yはひと月分の米袋を思い切り怪人に投げつけた。


  ✕


 それから幾月か過ぎて、いまだにYは古びた洋館に帰っている。答えは、まだ出ない。もはや怪人からの問いの内容さえ忘れてしまった。


 いつしか二人は家族のような、親友のような不思議な関係になっていた。


 ――――そして、最後の夜が来た。正義の足音。規則正しい軍靴のようなその音は、しかし、Yと怪人のいる広間の前で立ち止まった。良き時代、まだ扉の向こう側に、が居た時代。


「さて――」


 扉の向こうで名探偵の声がする。


「仮面の男、正義の悪人。来るがいい。君と僕との、最後の対決だ」


 Yの手をかるく握って、怪人は囁く。


「気丈なお嬢さん。無礼な召使、最高の友だち。僕は行く、かの好敵手との『対決』へ。きっと怪人は死ぬ。だが君、覚えておいてくれたまえ。君と僕とのこの日々は、まさしく人間同士の日々だった。君、ゆめゆめ忘るることなかれ!」


 怪人はひらりとマントをひるがえすと、鳥より猫より身軽に去った。


「あのご質問の答えですわ」


 今は過ぎ去りし怪人の影へ向けて、絞り出すようにYは言った。


「私、あなたのことを。もう何度も、何度も、何度も。こうして、あなたの終わりを看取るだけ。怪人さん、悪者さん。それでも、わたし」


 豪奢な館の一室で、青白い月の光がYを照らしていた。

 怪人はそれきり現れなかった。


「さて――」


 それからのこと。夜の続きは朝陽であると、Yは知る。怪人は去った。永遠に。

 けれど、不思議なことにそれからのYの人生を、一人の男が常に支えていた。時には親友、時には家族。男はまるで普通のひとのようなことを言いながら、時にはサアカス気質な言葉を使う。そして生涯真っ黒の杖を手放さなかった。Yが彼を看取るまで。


  ✕


 ヨシノ老婦人は、本を閉じて微笑んだ。

「あら、案外お早いご到着ですのね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る