Aの最後の一日は

 晴れた日の夕方、十一階の冷たい手すりに手をかけて、Aは世界を眺めた。

 目下をふらふら走ってゆく真っ黒の自転車が、スーツ姿の男を運んでいく。彼は明日も同じようにこの道を運ばれてゆくのだろう。平和なのだ。壊滅的に平和な夕方に、Aは疲弊していた。


 初めて、仮病で会社を休んだのだ。


 Aは仕事ぎらいではない。

 けれど、それだけだった。Aはいつの間にか全てへの関心を失っていて、これは彼をひどく焦らせる事実だった。たとえ彼が単調な仕事に就いていて、新奇なものを創出するような人物でないとしても、やはり世間と美への関心は絶対に必要なことがらである。彼にとってはそれが唯一世界へ参加する方法だったのだ。


 Aは唐突に、あの黒い自転車の男が角を曲がって見えなくなったら十一階から飛び降りようと決めた。ふらふら、ふらふらと、あの角を、男が――――




 ――――引き返した。


 Aは拍子抜けしてしまった。忘れ物でもしたのか、はたまた道を間違えたのか、男はまだ視界に入っていて、Aの住むマンションより少し背の低い向かいのビルの前で自転車を止めた。


 しばらくして、向かいのビルからきっちり白髪をまとめた老婦人が現れ、男に気付いて手を上げる。Aはその二人を見て、はたと思い出した。


 それはとても俗的なことで、彼にとっては神聖なことだった。重要で陳腐なこと。『明日は燃えるゴミの日である』という事実。そして、毎週二回やってくる燃えるゴミの日を、彼が狂おしく欲していたという事実。15リットルのゴミ袋に生活の残滓を詰めておくり出す、あの儀式。


 それを、Aはこのうえなく愛している。


 Aは会社を辞めることにした。貯金は少ないが、どうということはない。彼は週に二回もゴミの日がやってくるこの世界をこれからも生きていく。


 老婦人と自転車の男が手を振りあって別れる。スーパーにでも行くのか、歩きだす老婦人の後ろ姿を、自転車の男が熱心にじっと眺めていた。Aには男がまるで、老婦人に恋でもしているように思えた。


 そういうこともあるのだろう。


 Aの最後の一日が、今日も平和に終わりゆく。

 

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