それでも続く生活の

碧海カツオ

それでも続く生活の 1

「飛べないって」


 Dはほんのり笑った。同居人のキングペンギンがフリッパー(ペンギンの羽でもありヒレでもある部分だ)を羽ばたかせているのが少し気にくわないのだ。


「ペンギンには無理なんです。もともと飛ぶいきものじゃないんですから。かわりに泳ぎが得意で――」


 ため息まじりの制止にも、キングペンギンはひるまない。フリッパーをばたつかせることに集中している。

 Dはあきらめて読書を再開した。

 彼らはずっと、一人と一羽で生活している。


  ✕


 Dとキングペンギンのおうさんとの出会いはそれほど複雑なものではない。

 迷子のペンギンをDが道端で拾ったのだ。南極からはるばるやってきたのか、近くの水族館からやってきたのかは分からない。念のため県内の水族館には片端から連絡したが、返ってきたのは

「当館で管理している個体はすべて確認されておりますが……」

という回答ばかりだった。親身になって話を聞いてくれる水族館も動物園も多々あった。それでも手がかりはいっこう掴めない。


 それにこのペンギン、何を思ってか飛ぼうとする。なんどもなんども羽ばたいて、鳥よりも魚に近いその羽をばたつかせて。そのことを伝えると、決まって担当者は困惑していた。


「きみは変わりものだなあ」


 Dはそう言いながら、この変わりものと一緒に暮らすことにしたのだった。


  ✕


「よう、イワシ男」


 路地裏でDが呼び止められたのは、今月に入って二度目である。一度目はカツアゲだった。


 今しがた彼を呼び止めたのは、幸か不幸か、三好みよしユキノだ。幸か不幸かの「幸」は彼女がきわめて数の少ない親友であり、なおかつ幼馴染だからで、「不幸」はグレてしまった一匹狼ヤンキー女子だからだ。


 グレたといっても言葉遣いがすこし男らしくなって人とあまりつるまなくなったくらいで、暴力などは振るわない。Dだけはときどき小突かれる。


 彼女の親もDもグレた彼女を特に心配することなく、この春無事に二十四歳を迎えた健康優良ヤンキーこそがユキノである。


 Dに意識というものが芽生えたころから、ユキノはすでにそこにいた。いわばDのパンツのようなものである。小中高と時を経るごとに、立派なグレ娘に成長してしまった理由が、Dにはよく分からない。ユキノの生来の気質だったのだろうと勝手に片付けている。幼いころはあれほど真っ白なブリーフだったのに、いまやクールな黒のボクサーパンツ。ああ、無情なるかな流るる時は。


 家族ぐるみの付き合いのおかげか、互いの母親経由で近況はつつぬけだ。最近ユキノ嬢が下着を買い換えたということさえDは知っている。別にありがたい話ではない。その時はさすがにそっと耳を塞いだ。手遅れであったが。


 怒り方さえ知らなそうな三好家の母親は、自身の娘がグレた理由をこう分析する。

「あの子、もとから騎士タイプなの。ナイトよ、ナイト。お姫様みたいかわいくなるより、強くなって大事な人を守りたいって思ってるみたい。カッコいいでしょ?ふふ、格好いいでしょ?私の娘なのぉ」


 「イワシ男」と呼ばれたDは路地裏を行くのを少し躊躇した。このまままっすぐ進めばヤンキーユキノを無視はできないだろう。だが、くるりと背を向けた途端に幼馴染はスリーパーホールドを華麗に決めてDを絞め落とすに違いない。長年の経験かく語りき。結局、やあ、と自分から声をかけた。


「久しぶり、とか元気してた?とか何かあるだろ、なんだ、『やあ』って。横丁のご隠居かお前は」

「ハハ……理不尽て君の形をしてるよね」

「それより、ほらこれ。やる」


 ユキノが煙草をふかしながら、目線で己の足元を指した。バケツいっぱいのイワシ。


「え、すっごい! 助かるよ、ありがとう」

「父さんが昼間釣ったんだよ。王さんにおみやげですって、伝言」

「いや、本当にありがとう。今日はごちそうだなあ。ふふふ」


 ユキノはDの喜びようをみて満足げに笑った。


 Dがバケツいっぱいのイワシで簡単に懐柔されたのには訳がある。

 別に、彼が無類のイワシ好きで三食おやつにイワシの煮たのを食べているという訳ではない。彼の同居人、キングペンギンである王さんの大好物がイワシなのだ。


 王さんは動物園でモデルのアルバイトをしているので、食事はそこで済ませてくることが多い。それでも、やはり家でゆっくり食べてほしいと思うのがDの同居人心である。


「あ、王さん」


 ユキノのうしろの方から、よたよたとペンギンが歩いてきた。小柄な影をみて、慌ててDが駆け寄る。


「王さん、どうしたんですか、こんなこぎたない路地裏で」

「悪かったな『こぎたない路地裏』でたむろしてて」

「バイト終わったんですか。今日は職場の人とご飯食べなかったんですか!それならちょうどよかった、今日はごちそうですよ、ほら、ユキノがくれて」

「フフン」

「ほらみて王さん! 黒ボクサーのヤンキーが鼻高々で威張ってる! おっかしいね」

「黒ボクサー?」


 ユキノはきょとんとして目をしばたたかせた。

 一方、王さんはフリッパーをぱたぱたさせた。これが当たるとけっこう痛いので、Dとユキノは自然に一步後ずさる。


「そうだ、イワシ、食べきれなかったらもったいないし。動物園におすそ分けしていいかな」


 ユキノはうなずいた。


「じゃあちょっと行ってくる。王さんは家で待っててください、お疲れでしょうし」


 ユキノと王さんの返事も待たず、Dはバケツを提げて駆け出した。


  ✕


 王と名付けられたペンギンは知っている。なぜユキノ嬢が愚連隊(一人なので本当は「愚連隊」ではなく「愚」だ)の真似事をしているのか。


 それは、大部分、Dのためだ。


 ユキノに言わせれば、Dは昔から軟弱だった。ちょっと叩かれたってへらへら笑っているし、軽んじられてパシリにされているのに、気付かず平気でいる。教師が勘違いしてDを叱りつけたイタズラは、本当は同じクラスのガキ大将が画策し実行したものだった。陸上部の先輩がDにえばりちらしているのは、他の部員と違ってDが決して反抗しないからだ。競技ではいつも勝てないくせに。


「お前さ、バカにされてるんだよ。舐められてるから好き勝手されんだ」


 幼いころからの気安さと、生まれつき衣装嫌いの舌が中学生のユキノにそう言わせた。怒りをぶつける方向が間違っていることは分かっていても、他にどうしていいのか分からなかったのだ。しかしその頃のDは、いまと変わらない穏やかな笑顔で


「そうかも」


 とだけ言った。それきりだった。


 そのうち、Dが受けていたいろいろな仕打ちは無くなって、誰も彼も(D自身でさえも)そんなこと忘れてしまった。ユキノだけが、あの「そうかも」を忘れられずにいる。


 だから、おこがましいと言われてもおせっかいだと言われても、ユキノはずっと怒っているのだ。あっけらかんとしたDの顔を見て、時々馬鹿馬鹿しく思いながら。


 そういうことを、彼女が母にさえ言わない事どもを、時間を見つけてヒトならぬペンギンにとつとつと話している。


 王さんはその話を聞くあいだ、相づちを打つようにうなずいている。そしてユキノが話し終わると、かなり加減して、フリッパーで背中を叩いてくれる。トン、と当たる励ましが、ユキノの肩の力を抜いてくれるのだ。


「王さん、ごめんな」

 王は首をかしげた。

「あいつが王さんぐらい賢けりゃあなあ」

 今度は反対側に首をかしげた。意図しないユーモラスな動きに、ユキノは笑って「なんでもないよ」と手を振った。

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