第九章 都内高級ホテル
葬儀の打合せを兼ねた夕食が済むと、諒輔は一人、病院の近くのホテルに向かった。葛城が気を利かして手配してくれたのだ。部屋に入ると、シャワーを浴びる気力もないまま、ジャケットを脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。
酷い頭痛がして諒輔は目覚めた。何やら夢を見ていたようだ。千年の記憶を遡って行く時に垣間見たイメージの数々が猛烈なスピードでフラッシュバックされ、厖大な情報が洪水のように湧き出し、溢れかえる感覚に必死に耐えていた。しかしこうして目覚めて、夜が明けたことを知った今、それは千年の記憶の封印が解かれ、記憶が一斉に蘇った瞬間だったのだと悟った。
恐る恐る諒輔は記憶を探った。記憶は忠彬が先祖代々引き継いできたものと、忠彬の代に取り込んだものとがあり、先祖からの記憶は、それぞれの代の陰の長者の人生の記憶と陰陽道に関するものがほとんどであった。その中には呪術に関するものがあり、式神遣いの法などもあるようであった。
一方、忠彬自身が取り込んだ記憶には、「物理学」「化学」「医学」「経済学」「法学」「文学」など近代から現代にかけての学問が網羅されていた。医学においては「脳生理学」など脳に関するものが多く、経済学においては「投資理論」など金融に関するもの多く含まれていた。語学は英語の他、フランス語、ドイツ語、中国語など多数に及び、それらの言語で自由に会話することが出来るようであった。その他に芸術、武術、スポーツなど、実に様々なものが取り込まれており、忠彬の貪欲なまでの知識吸収に改めて驚かされた。
諒輔は起き上がり、ベッドから降りると、先ずは小手調べに呪術が実際に使えるか試してみることにした。印を結び、呪を唱えた。ぼぉっとした影が二つ浮かび上がる。
「お呼びにございますか」
声を揃えて低頭するのは、あの犬麻呂と牛麻呂、童形水干姿の式神であった。式神には主人として威厳を持って対応すべしというのが、引継がれた記憶であった。
「忠彬様から陰の長者を引き継いだ三輪諒輔だ。お前達二人は身の回りの世話と警護をして呉れる者共と聞いている。今後は私の式神として尽くせ」
「畏まって候、して今日の御用の趣は」
少年特有のやや甲高い声である。問い返された諒輔は、はたと困った。何を言い付けるか考えていなかったのだ。
「うむ、そうだな、朝の支度など頼もうか」
二人は少し思案するようであったが、犬麻呂は浴室に行くと風呂の用意を始めた。牛麻呂は、諒輔のシャツとズボンを脱がしにかかる。戸惑う諒輔の意を介さずにパンツまで脱がそうとするので、慌てて自分で浴室に行き、パンツを脱いで浴槽に飛び込んだ。湯はまだ三分の一ほどしか貯まっていないが、手足を伸ばすと快さが広がった。
湯が肩を浸す頃、犬麻呂、牛麻呂は諒輔を湯船から出し、座らせると二人掛かりで諒輔の頭、手足、背中などを洗い始めた。こんな調子で傅かれては堪らない。風呂を出ると早々に告げた。
「あぁ、もう良い、後は自分で始末する。下がって良い、ご苦労であった」
呪を唱えると二人の式神は低頭して退くと、ぼおっと霞んで消え去った。
「ふぅ、やれやれ、やりつけないことは迂闊にやるものじゃないな」
独り言を呟いて、衣服を身に付けた。
葬儀は忠彬の世田谷の屋敷に於いて神式で行われた。クリスチーナ、理紗、諒輔、葛城の他、参会者は故人にごく近しい人に限られて執り行われたのであったが、忠彬の死を知った人達の中から“忠彬を偲ぶ会”を開催したいとの申出が寄せられた。
申し出たのは忠彬がこの20年程逗留していたホテル関係者達であった。一人息子が駆け落ち同然に家を出た後、その心痛により間もなくして妻が亡くなり、さすがの忠彬もひどく気落ちした。そんな気持ちを紛らわすために、家族の思い出が詰まった屋敷を出て、ホテル住まいを始めたのであった。
始めはほんの数週間位の積りが、よほどそのホテルが気に入ったのか、その後二十年近くも逗留することになったのだ。忠彬にとっては、この二十年ほどはそのホテルが自宅のようなものであり、ホテルの従業員達も忠彬を慕い、家族のように接してきたのであった。
その話を聞いた、クリスチーナと理紗は偲ぶ会の開催に同意し、是非自分達も出席したいと申し出たのであった。偲ぶ会は、クリスチーナが京都に帰る前にという計らいで、急遽クリスチーナが京都に帰る日に開催される運びとなった。
偲ぶ会の当日、諒輔の宿泊するホテルに大型のリムジンが迎えに来た。
「葛城様は打合せの為、会場に先に行かれました」
詰襟制帽姿のあの運転手はそう告げるとドアを開けた。車内にはすでにクリスチーナと理紗がいて、理紗は和服の喪服姿で忠彬の遺影を抱えている。車内に乗り込み、ボックス席の二人に向き合うように座ると、諒輔は英語でクリスチーナに話しかけた。クリスチーナはごく普通に応対したが、理紗は諒輔が話す流暢な英語に驚いていた。
「諒輔さん、何か変わりましたね」
理紗は諒輔の顔を繁々と見つめた。クリスチーナも同意するように頷く。
「やはりそう思いますか。実は鏡を見て、以前の僕とは大分違うと感じていたのです」
「えぇ、以前はどこかぼうっとしたところがあったけど……あら、御免なさい」
「いえ,皆にそう言われていましたから」
「今日の諒輔さんはとても理知的な顔をしてるわ」
「理知的か……なんせ千年の記憶を取り込んだらなあ」
少し複雑な気持ちであったが、そんな会話を取り交わしている内に目的地に着いた。
会場となるホテルは都内でも有数の高級ホテルで、広い敷地内には回遊式の日本庭園や茶室もある。正面玄関の車寄せにリムジンが停車すると、すかさずホテルの従業員が車のドアを開けた。一行が車を降りると、そこに年老いたドアマンがおり、理紗が掲げる忠彬の遺影に恭しく辞儀をして一行を入口に案内した。
クリスチーナと理紗の後に諒輔が続く形で入口を入る。ロビーには大勢の人達が待ち構えていて、行く手の両脇に整列していた。それらは、フロントクラーク、コンシェルジュ、ベルマン、ウエイター、ウエイトレス、バーテンダー、室内清掃係、ひと際目立つのが白く高いシェフ帽の一団などホテルの各職制に応じた制服に身を包んだ人々であった。
お驚きながらも、歩みを進めると、両側の人々は口々に「お帰りなさいませ」「お帰りなさい」「先生お帰りなさいませ」などと言い、忠彬の遺影に向け丁寧に辞儀をするのであった。ハンケチで涙を拭う者、隣の人の肩を抱く者、皆が忠彬の死を悼み悲しんでいた。
整列の最後に葛城と支配人らしき人がいて、二人が先導して、一行を忠彬の部屋に案内した。その部屋はスイートルーム仕様で、リビング中央のテーブルには白い薔薇が飾られていた。忠彬が好んだ種類の薔薇だと、葛城が説明した。
二つあるベッドルームの一つは書斎として使っていたようで、ベッドの代わりに紫檀の大きな机と皮張りの椅子が置かれていた。しかし、その机と椅子以外は、ほとんどがホテルの調度品のようで、全体に品よく調和がとれていた。忠彬が私物を極力持ち込まず、また部屋を自分の好みに変えようとしなかったのであろう。そんな配慮もホテルマンには好もしく思えたことであったろう。
一通り、部屋を見て回った一行は、宴会場フロアにある偲ぶ会の会場に案内された。会場には、先程ロビーで出迎えてくれた人達が待っていて、人垣を作っていたが、入って来た一行のために道を開けた。
会場内は普通の立食パーティーのように、食べ物、と飲み物が用意されていた。クリスチーナと理紗が正面の一段高い壇に促されて上ると、支配人らしき人がマイクをとり挨拶を始めた。
「私、当ホテルの総支配人をしております工藤と申します。本日は我々従業員の無理なお願いをお聞き届けいただき、安倍忠彬様を偲ぶ会がこうして開催出来ましたこと、従業員一同心から感謝しておる処でございます。またご遺族の皆様はご葬儀でお疲れのところ、ご臨席を賜り厚く御礼申し上げます」
工藤は壇上の遺族にお辞儀をして、挨拶を続けた。
「ご存じのように安倍先生は二十年来、当ホテルをご自分の住まいのようにご使用していただき、その間我々従業員に対し、父のごとく接していただきました。また博学多才の先生は、我々が困った事態に遭遇した時には、適切なアドバイスをしていただき、何度も助けていただきました。先生が亡くなられたとの悲報に接し、従業員一同、深い悲しみを覚えた次第でございます。本日は、それぞれの立場で先生の想い出を語り、先生のご遺徳を偲びたいと存じます。皆様どうぞよろしくお願い申し上げます」
拍手してよいものやら誰もが、躊躇していたが、諒輔が拍手すると、ほっとしたように拍手が沸き起こった。
遺族を代表してクリスチーナが挨拶し、引き続いて献杯が行われると飲食しながらのパーティーとなった。しばらくすると、従業員が交互にマイクを取り、自分が体験した忠彬のエピソードを語って行った。どれも心温まる話で、感激屋の葛城は話の一つ一つに涙を流していた。クリスチーナと理紗も感動で顔を紅潮させていた。
出席者はホテルの制服ではない普通の格好をした男女も混じっていた。総支配人の工藤に聞くと、このホテルの常連客で忠彬と馴染みの深い人にも声をかけたとのことであった。その中に妙に気になる背広姿の二人連れがいた。その内の一人の顔に大きな傷があったので、目立ったのがその理由だが、もう一方の男も眼光が鋭く独特のオーラを放っていた。 その男は長髪、色白で一見すると女と思い違いしそうになる優男であった。諒輔がなお注意して観察して気が付いた。傷のある男は、以前襲ってきたワゴン車の背の高い方の男に違いなかった。傷により引き攣った顔が以前と変わっていたので気付くのが遅れたのだ。その二人は部屋の隅に行くと、辺りを憚るように小声で話し始めた。諒輔は精神を集中して二人の男の心を読んだ。会話の内容が伝わってくる。
『安倍忠彬が死んだことは確認された。問題は次の陰の長者が誰かと言うことだ』
優男が傷のある男の耳元で囁いている。
『血縁者はあそこにいる孫娘しかいないのではないですか』
傷のある男が、壇上の理紗を見やりながら囁き返す。
『しかし、若い女の上に外国人の血が混じっていることを考えるとどうもな』
『そうですね、あの孫娘に陰の長者が勤まるとは到底思えません』
『うむ、陰の長者が引き継がれなかった可能性も否定できぬか』
『それなら、我々にとって、正に好都合』
『いや楽観論は禁物だ。我々の知らぬ血縁者が他にいる可能性もある。情報収集と探索を強化する必要があるな……うん?』
優男が会話を中断し、怪訝な顔をして周囲を見回した。心を読まれたことを察知したのだろうか。二人連れは、もう一度壇上を睨みつけると、踵を返して会場を出て行った。もし、心を読まれた事を察知する能力をあの男が有しているとすれば、侮るべからざる敵と言わざるを得ない。
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