第八章 安倍晴明

 諒輔と理紗と葛城は並んで特別室のリビングの大きなソファーに並んで腰かけている。真ん中に諒輔、その左側に和服姿の理紗、そして右側が葛城だった。諒輔が精神を集中出来るようにと部屋の照明のほとんどが消され、部屋は薄暗い。

「それでは、開始します」

 諒輔が告げると、理紗が諒輔の左手をそっと握った。手を握られるのは正直うれしいが、これでは精神集中出来ないと困っていると「では気をつけて」と理沙は握った手を離した。少し気落ちしたが、気を取り直し、精神を集中させて行った。


 意識が薄れて行く。巨大な渦に巻き込まれ下へ下へ落ちて行くような感覚。そのスピードがどんどん増して、もうこれが極限と思われた時、周囲のすべてがまばゆく発光し、何もかもが瞬く間に霧散霧消した。気が付くと諒輔は真空の宙に浮かんでいた。

光も色も音も無い無間地獄かと思われたが、宙の彼方に小さな光が一つ浮かんだ。蛍のように淡い光は、次第にその数を増していったが、中にはテニスボール程に大きなものもあった。そんな大きな光は放電と共に映像を一瞬浮かび上がらせる。家族団欒の光景、赤ちゃんを抱いて幸せそうに微笑む婦人の姿、欧州旅行の風景、東京大空襲と思われる悲惨な光景など様々であった。

 どうやらこれらの光は忠彬の記憶であるようだった。光は次々に増殖し隙間無く埋め尽くされたが、突然その全てがまばゆく発光し当たり一面真っ白になった。と、次の瞬間またもや諒輔は、真空の宙にいた。そして暫らくすると小さな光が浮かび、増殖を始めた。放電と共に浮かび上がるイメージには、皇族と思われる人々との談笑、神宮外苑で行われたという学徒出陣式、マッカーサー元帥とその幕僚などの光景があり、仲間とジャズを演奏する楽しげな光景もあった。それらは忠彬の父親の記憶に違いなかなかった。

 

 このような事を何度も、繰り返し昔へ昔へと記憶を遡ったが、 三十数回目は少し様子が違った。辺り一面真っ白になったその後は、真空の何も無い宙があるだけの筈なのに、今回は最初から大きな月のようなものがぼうっと浮かんでいるのだった。暗赤色の血を滲じませたようなそれは、いかにも禍々しく不気味である。

『これこそが、土御門家の創始者、安倍晴明公の記憶』

固唾を呑んで見守る諒輔であった。

 

 稲妻が数本、宙を走り、続いて凄まじい雷鳴がした。月のようなものが振動し、燐光を放ち始めた。しばらくすると卵の殻がひび割れる様に砕け、辺りに濃密な妖気が漂った。

「千年の眠りを破るは、いかなる者か」

 声がする方を見たが、闇よりも更に黒いガス状のものが蠢いているだけである。そんなおどろおどろしい中にあっても、それほど恐怖は感じない。しかし畏れはある。

「三輪諒輔と申します。この度、安倍忠彬様より裏土御門家の長を引き継いだ者です」

自分でも驚くほど、確りとした声が出た。

「忠彬から引き継いだとな」

「はい、忠彬様は私に記憶を転写した後、間もなく亡くなられました」

「死ぬるは必定。じゃがな、我らの記憶は引き継がれることにより、永遠の命を得ることが出来るのじゃ」

黒いガス状のものは徐々に収斂し、今や人の形になりつつある。

「晴明様、私が裏土御門の長となることお許しいただけるでしょうか」

「お前、もう一度名乗ってみよ」

人の形は、更に鮮明になり衣冠束帯の人物と分かるほどになった。

「三輪諒輔と申します」

「安倍一族の者か」

「いえ、そうではありません」

「なんと、安倍の血を引く者ではないというのじゃな」

「はい」

「うーむ、何と言うことじゃ。安倍の血を一滴も引かない者に、裏土御門の長を引き継ぐなど、このわしが許さん」

 放たれた怒気に呼応するかのように稲妻が走り、雷鳴が轟いた。

「そこの者、覚悟はよいな。今、この場にて取り殺してくれるわ」

 諒輔は焦った。何とか凌がなければと必死で訴えた。

「しかし、晴明様。私が死んでしまえばあなた様を始め、全ての裏土御門の長の記憶がこの世から消え去ってしまいます。皆さんの永遠の命が失われるのです」

「そのようなこと言われんでも分かっておる。つべこべ言わず観念しろ」

先程にも増して、大きな稲妻が走り、雷鳴が轟き、諒輔の直ぐ近くにその一つが落ち炸裂した。

 諒輔は黙した。やるだけのことはした。言うべきことは言った。これ以上じたばたしたところで仕方ない。諒輔は思考を遮断し、心を無にしようと務めた。激しかった稲妻と雷鳴がいつの間にか治まり、晴明と思しき人影はじっと動かず声も発しない。奇妙な静寂が広がった。


「晴明、これよ晴明」

 いつの間にか宙空に、青く輝くものが浮かんでいる。静寂を破ったその声はそこから漏れ出しているようであった。

「あぁ、その声は……」

 声に気付いた晴明が驚きの声を上げた。

「そうじゃ、賀茂忠行じゃ」

「これはお師匠様、なんとお久しゅう」

 そう言えば、晴明は師の賀茂忠行から、陰陽道の極意を修得したのであった。今昔物語の巻第二十四の第十六話に、晴明公が師の加茂忠行から陰陽道を伝えられた様子が「此道ヲ教フル事瓶ノ水ヲ写スガ如シ」と記されている。あの青い輝きは、その折に取り込んだ賀茂忠行の記憶に違いない。

「晴明、そちは、この者をどうしようというのじゃ」

「はい、安倍の血筋を引かぬ者、この場にて打ち殺さんとしていたところにございます」

「したが晴明、すぐに殺さず逡巡していたであろう。それは何故か」

「この者の言う通り、殺してしまえば千年の記憶が絶えまする。それに……」

「それに、なんじゃ」

「こしゃくな奴ながら、この晴明に怖じることなく物申すとは中々の者。更に申せば、命乞いもせず慫慂として覚悟を決めた物腰、殺すに惜しいと不覚にも逡巡した次第、面目次第もありませぬ」

「晴明よ、わしが何故この場に現れたか分かるか。そちの逡巡を責めに来たのではない。この者に呼ばれたのじゃ。この者の血脈に感応したのじゃ」

「なんと、それは真にございますか」

 晴明が諒輔の方に顔を向け質した。

「これ、そこの者、お前は賀茂の血を引く者か」

 幼い頃、糺の森で母から幾度となく聞かされてきたことを思い出し答えた。

「私の母が嫁ぐ前の旧姓は賀茂でした。母の実家は京都で、下鴨神社に所縁の深い家柄と聞いています」

「晴明よ、聞いたであろう。確かにこの者、安倍の血は引いておらぬが、陰陽道の家柄の血を引く者じゃ。このわしに免じて、この者を裏土御門の長として認めてはくれぬか」

「ははぁー、お師匠様の仰せとあらば、この晴明、お指図に違うことなど微塵も致しませぬ」

 晴明は忠行の声に向かい深々と辞儀をすると、諒輔に向かい直し威儀を正した。

「三輪諒輔と申したな。その方、裏土御門の氏長者としてしかと認め祝福しようぞ。わしに連なる代々の者共も、この新しき陰(おん)の長者を助け祝福せよ」

稲妻が走り、雷鳴が轟いた。それは、諒輔が裏土御門の長になったことを祝す、花火と号砲のように明るく晴れやかなものに感じられた。


 拡散し混沌としていた意識の彼方で微かに声が聞こえる。

「諒輔さん、諒輔さん」

「諒輔さん、戻って来て下さい」

 その声は次第に大きく鮮明になる。

「もう一時間近くになるわ。諒輔さん大丈夫かしら」

 その声が理紗のものだと気がついた。

「大丈夫、必ず帰ってきます」

 葛城の声だ。諒輔は二人の声が無性に懐かしかった。

「あっ、今、口が動きませんでしたか。いや、確かに動きました」

「えぇ、私も見ました。諒輔さん、諒輔さん。眼を覚まして下さい」

「お願い、戻って来たのでしょう」

諒輔は眼を開いた。

「あぁ戻って来たのね」

「大丈夫ですか、どこか異常はありませんか?」

 心配そうな葛城と理紗との顔があった。

「えぇ戻りました。どこも異常はないようです。今のところはどうやら……」

理紗と葛城は床に跪き、其々が諒輔の手を握っている。そうした姿勢で二人は懸命に諒輔を励まし、語り掛けていてくれたのだろう。

「あぁ良かった。時間があまりにかかるものだから、心配で、心配で」

理紗は涙声であったが、葛城は感激の為か声も出ない。

「どうもありがとう。二人が付いていて励ましてくれたお陰です。本当にありがとう」

 諒輔は二人の手を交互に握りしめた。

「お疲れでしょう。ベッドで休まれますか?」

 葛城が気を遣う。

「いや大丈夫です。それより飲み物をいただけますか」

 葛城がリビングルーム備付けの冷蔵庫からミネラルウオーターを持ってくると、理紗がグラスに注ぎ諒輔に手渡した。諒輔がミネラルウオーターを飲む間に、理紗と葛城はソファーの前の椅子に座り、諒輔と向き合った。葛城は改まった調子で尋ねた。

「それで、晴明公はお認めになられたのですね?」

「はい、裏土御門の氏長者であることお認めいただき祝福を受けました。でも“オンの長者”って何でしょう?」

「あぁ、晴明公はそう仰られましたか。陰(おん)の長者のオンとは陰陽道の陰のことです。つまり陰の長者とは裏土御門の長を指す言葉です」

 葛城は涙を溢れさせながら嬉しげに説明した。理紗は「おめでとう諒輔さん、私、信じます。お爺様の言われた事、諒輔さんの言われた事、すべて信じます」と喜びの声を上げた。

「ありがとう、理紗さん、信じてくれて僕も嬉しいよ」

 一同が喜びに包まれていた時、ドアをノックする音が聞こえた。葛城が涙を拭いて立ちあがりドアに向かった。ドアを開けるとそこにクリスチーナが立っていた。

「お久しぶりです。良くお越し下さいました。どうぞ中にお入り下さい」

今日のクリスチーナは黒のパンツスーツ姿で、髪をアップに纏めビジネス用の大きなバッグを肩にしている。大学の講師らしい出で立ちである。部屋に入ったクリスチーナの姿を見て、理紗が駆け寄り、二人は抱き合った。

 一通り其々の挨拶が済むと、葛城はクリスチーナに忠彬が数時間前に亡くなったことを伝えた。クリスチーナは天を仰ぎ、隣に座った理紗の肩を抱いて引き寄せた。

「理紗、あなたに知らせて置かなければならないことがあるの。皆さんも聞いて下さい」

 そう前置きしてクリスチーナは、語り出した。

「理紗、あなたはお爺様を恐ろしい人だと思っていることでしょう。お父様から言い聞かされて育ったのだから、そう思うのは無理ないことです。でも本当は違うのです。あなたが東京の大学に進学したいと、私に泣いて訴えたこと憶えてる? 当時私は大学の臨時講師をしていたけど、とてもそんなお金は無かったの。そこで以前から、“何か困ったことがあれば何でも相談しなさい”と言って下さっていたお爺様に事情を話したの……そう、あの時は葛城さんに大変お世話になりましたね」

 葛城に眼を向け一息つくとまた話し始めた。

「勿論お爺様は私の願いを聞いてくれたわ。でも、お爺様が学資を出したと理紗が知れば、大学進学を諦めると言うに違いないから、理紗には内緒にしておこうと言われてね、今まであなたに話す機会がないまま……」

 クリスチーナは声を詰まらせ、涙ぐんだ。

「あぁ、分かったわ、泣かないで。私の為に皆がしてくれたこと、感謝するわ」

今度は理紗が、クリスチーナの肩を抱いて手を握った。

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