90 ウォード侯爵家にて4
慌てて戻って来たデニスの手にはユーフェミアが出奔した時、デニスに渡していた治療ポーションが握られていた。
お守りがわりだと言っていた治療ポーションがまさか本当に使われる事になるとは……当のユーフェミアも予想していなかっただろう。
この治療ポーションの効果は不明だが、ユーフェミアが作ったものだ、きっと効果が有るに違いない、と屋敷中の人間が心の中で期待しながらデニスとダニエラを見守っている。
デニスがポーションをダニエラに振りかけると、ダニエラの身体が淡く光り輝き、蒼白だった顔色が元の血色に戻っていく。乱れていた呼吸も落ち着いてきたのがわかり、ダニエラの怪我が無事完治したのが見て取れた。
「もう動かして大丈夫だろう。デニス、部屋まで運んであげなさい。それと、ダニエラの目が覚めたら今日はゆっくり休むよう伝えて。君も今日は休んでいいよ」
「テレンス様……! ありがとうございます!」
テレンスに礼を言ったデニスは、ダニエラを大事そうに抱えると足早に去って行った。二人の様子をしばらく見ていたテレンスは、使用人たちの方へ視線を戻すと、少し申し訳なさそうに言った。
「デニスとダニエラが抜けて大変だろうけど、皆んなで協力して残った仕事を終わらせて欲しい。エルマーにも負担をかけるけど、よろしく頼むよ」
「承知いたしました。どうぞお任せ下さい」
エルマーを筆頭に使用人たちが深々と頭を下げて礼を取る。その姿は真の主人への敬意が表されており、ジュディは自分との温度差に驚かされる。
「さあ、ジュディ。久しぶりにゆっくり話そうか」
テレンスはジュディを促すと応接へ向かう。そしてお茶の準備を頼んだ後、人払いをするとジュディに向かって微笑みを浮かべた。
「こうして二人で話すのは何年ぶりかな?」
優しく微笑む様は、一昔前の社交界で貴族の令嬢たちを骨抜きにした時のまま、相変わらず美しい。
ジュディも嘗てはテレンスの微笑みに骨抜きにされた令嬢の一人で、彼に恋するただの少女だった。
そんな憧れの人物と再婚同士とは言え結婚出来たというのに、実際は甘い結婚生活とは程遠く、離れ離れの生活を送る事になった。
初めはその事を不満に思っていたジュディだが、テレンスと結婚した優越感にしばらく浸っていたので、その内気にならなくなっていった。
……別々の生活も今だけだという根拠のない思い込みも有ったのかもしれない。
結局、テレンスとは領地経営を理由に一緒に住む事は無いまま八年近く経ってしまっていた。
「……そんな昔の事、もう覚えていませんわ……! それより、どうしてテレンス様が商人の変装などをして此処にいらっしゃるの!? もしかして、今までもずっと……!?」
一度も自分に会いに来てくれなかった夫が、知らない間に訪れていたとは……! ジュディは夫が居ないのをいい事に、好き勝手やって来たアレコレを思い出し、背中から冷や汗が流れ落ちる。
「僕がそうだと言ったら、君はどうするの?」
「……っ!!」
やっぱりバレている……!? テレンスの様子に、ジュディはそう確信する。
「取り敢えずダニエラの件についてだけど……まあ、マリアンヌ達が言っていた言葉から、何となく察しはついているんだけどね」
「あ、あれはっ! ダニエラが、私の言う事を聞かないから……!」
ジュディはどう説明すればテレンスの怒りを買わずに済むか考えた。だが、普段使っていない頭をいくらフル回転させたとしても、上手い言葉が出てくるはずもなく。
「テレンス様……!! わ、私は……っ!!」
「ああ、いいよ。別に言い訳が聞きたい訳じゃないから。でも、ダニエラの意識が戻ったら心から謝罪するように。僕も後で詫に行かないとね」
ジュディが許しを請おうとしたが、テレンスはジュディが謝罪の言葉を発する前にピシャリと跳ね除けた。
テレンスはジュディの不品行を知っているにも関わらず、怒ったり責めたりするどころか全く興味が無さそうに見える。
そもそも、今までテレンスが怒ったところを見たことがない。
「僕も悪かったと思っているんだよ。君たちを長い間放置したままにしてしまったから、随分増長させてしまったようだ。領地を安定させたかったって言うのもあるけど……それにしても、不甲斐ない主人であり夫で、使用人たちや君たちには申し訳ないと思っているんだ」
意外なテレンスの言葉に、ジュディの緊張が少し解ける。
「君たち母娘がミアに対して行った所業は全て把握しているよ。それについては僕も同罪のようなものだからね。君たちだけの責任だとは思っていないよ」
(私の悪行を知ってもなお、テレンス様は許してくれるの……? やっぱり私はテレンス様に愛されている……?)
ジュディはテレンスの言葉を自分への好意から来るものだと思い、心が喜びで踊りそうになった。
だが、テレンスの次の言葉で浮かれていた心が急激に萎んでいく。
「だけど……寄りにも寄ってミアをアードラー伯爵へ嫁がせようだなんて……よくもまあ、僕にとっての禁忌をピンポイントで突いてくるよね。もしかしてワザとかなって思ったよ」
先程までの空気から一変して、刺すような視線がテレンスから発せられ、ジュディは狼狽える。
「……え? ……そ、そんな……禁忌……?」
「君がミアをアードラー伯爵……いや、違うな。ヴァシレフに嫁がせようと思ったのはどうして? この王国で悪名高い人物に義理とは言え娘を嫁に出そうとするなんて、正気の沙汰じゃないよね?」
「……ヴァシレフ? ……悪名……?」
ジュディは聞き覚えのない名前を聞いて戸惑ったが、テレンスの言葉にまさか、と驚く。
「アードラーの本名はヴァシレフだよ。まあ、ヴァシレフがアードラー伯爵家を乗っ取った、と言うのが正解かな」
「……わ、私は……!」
「うん、君はただ単に醜い男にミアを嫁がせたかっただけだよね? だからヴァシレフ……アードラー伯爵がどれだけ酷い男か知らなかったんだよね?」
「そ、そうよ! 中年の貴族で、後妻を探していると聞いて……だから……!」
「ふーん? 昔に面識があるのに?」
「……!? な、どうし……っ!!」
ジュディはテレンスの言葉に、思わず肯定の言葉を出しそうになって慌てて口を噤んだが、既に手遅れのようで、テレンスの柳眉がぴくりと動いた。
「……ああ、本当にそうだったんだね……。僕の我儘で今まで皆んなを……ミアには可哀想な思いをさせてしまったけれど……。うん、これでやっと終わらせることが出来るよ」
テレンスはソファに深く腰掛けると、ミアと同じ紫水晶の瞳を閉じて、あくまで穏やかに、自分に言い聞かせるように呟いた。
「……テ、テレンス様……!!」
ジュディはテレンスの様子に酷く胸騒ぎがして、これ以上テレンスに思考させまいとして声をかけようとしたが、時既に遅く──
「……ジュディ、やっぱり君がツェツィーリアを殺したんだね?」
テレンスは、ジュディが一番知られたくない秘密に辿り着いてしまったのだった。
* * * あとがき * * *
お読みいただきありがとうございます。
ちなみに15話のデニス視点を見てもらえると
ミアパパの都合がチラリと書いてるような書いていないような。
次でウォード侯爵家のお話は終わりです。
どうぞよろしくお願いします!
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