62 闇に囚われた者
マリカを傷付けず引き渡す代償として、禁呪の復元を条件に出されたエフィムは、アードラー伯爵から渡された魔導書を読み漁っていた。
その内容は、さすが「禁書」だけあって口にするのも憚られるものだったが、研究材料としてはこれ以上無い程優れた魔導書であった。
「なるほど……同じ痛みでも、伴う感情によって痛みが増減するのか……」
エフィムは魔導書が与えてくれる知識に夢中になって行くに連れ、自分でもその効果を試したいと言う思いが溢れてくる様になっていた。
以前は決して人に苦痛を与えようとは思わなかった心根が、魔導書の影響を受けて徐々に歪んでいっているのに自分では気付いていない。
だから、初めはアードラー伯爵に抱いていた得も言われぬ恐怖心も、今はすっかり失くしてしまっていた。
アードラー伯爵が手に入れた魔導書は、人智を超えたものに触れてしまった者がさらに深入りしてしまい、結果として発狂に至るが為に、「禁書指定」を受けていたのだが、未知の知識の魅力の前に、エフィムは抗うことが出来ずにどんどん嵌っていく。
正にエフィムは魔導書によって「精神汚染」されてしまったのだ。
現在エフィムは、アードラー伯爵から貸し与えられた屋敷の部屋の一室で<呪術刻印>の研究に勤しんでいる。
魔導国の研究院に帰らず、そのままここで研究しているのだ。
ちなみにマリカを連れ帰るのは研究院の総意である為、イリネイ副院長からも残留の許可が出ているので、エフィムは憂いなく研究出来るこの環境を気に入っていた。
「……で、あれば……怒りや不安と言う感情を増大させる術式も組み込む必要があるな……」
エフィムが夢中になって研究していると、部屋のドアをノックする音が聞こえ、一旦思考を停止する。
「やあやあ、エフィムさん! 進捗状況はいかがですかな?」
「伯爵、わざわざお越しいただかなくともこちらから参りますので、お申し付け下さい」
エフィムが滞在している部屋は、アードラー伯爵の執務室とはかなり離れているため、本来であればわざわざ屋敷の主が来るような場所ではないのだが、アードラー伯爵は結構な頻度でやって来る。
「いやいや、<呪術刻印>が気になって気になって、仕事が捗りませんでなあ。ついお邪魔してしまうのです」
「お待たせしてしまい申し訳ありません……だいぶ術式を理解出来て来ましたし、後少しで復元できるかと」
「そうですかそうですか! さすが魔導国の研究院期待の星ですな!」
「恐れ入ります」
「そう言えば、何やらこの屋敷の周りを何者かが嗅ぎ回っておる様なのですよ。エフィムさんの方は何か変わった事はありませんかな?」
突然物騒な話をされ、思わずエフィムは息を呑む。
「いえ、僕の方には何も……。あの、もしかして僕が『禁呪』の研究をしている事が法国にバレた……と言うことですか?」
法国の暗部に、禁忌を犯すものを探し出して粛清する機関があると聞いた事がある。もしそんな機関に見つかりでもしたら……エフィムなど一瞬で葬られてしまうだろう。
「はっはっは。いやいや、その点は大丈夫ですよ。法国の者じゃありませんのでご安心ください」
エフィムの心配をアードラー伯爵は一笑に付した。法国の事を良く解っている口振りだ。
「え……そうなのですか? じゃあ、一体何処が……」
「そこですよそこ! これが中々の手練の様でして、尻尾が掴め無かったんですよ。ここまで練度が高いとなると、噂の帝国特務機関か、獣人国の特殊部隊か……どちらかかも知れませんな」
「そ、そんな……! 帝国の特務って世界最強だと噂されている組織ですよね!? どうして帝国が此処を調べるのですか!?」
エフィムも実際に見たわけではないが、帝国には皇族を警護する騎士団の他に、裏の騎士団とでも言うべき最強の騎士団が存在すると噂で聞いた事がある。
何でも神話・伝説の神獣、「竜」を召喚するとか、その「竜」レベルの魔法を使うなどの噂がひとり歩きしている様で、実際実在しているかどうかも解っていない。
「そうそう! そうなんです! 私は帝国には手を出していませんからね、帝国に狙われる理由が無いのですよ。だから獣人国の奴らの方が可能性が高いのです」
「ああ、獣人は軒並み身体能力が高いですから……身を隠すのも得意でしょうし」
「全く全く。厄介な奴らだ。獣人のくせして生意気で困りますなあ」
「伯爵は獣人国と過去に何か……」
ここ、ナゼール王国は国教がアルムストレイム教ではあるが、法国ほど異文化に偏見はなく、獣人国とも交易が有る。
だから王国の貴族である伯爵が獣人国と過去に何かトラブルでも起こしていたのかと、純粋にエフィムは思っていたのだが……。
「……おやおや、余計な詮索は為さらない方が身のためですよ」
何かの逆鱗に触れたのか、アードラー伯爵の身体から、得体が知れぬナニカが這い上がって来るような恐怖を感じ、エフィムは慌てて謝罪する。
「も、申し訳ございませんっ! 出過ぎた真似を致しましたっ!! ど、どうかっ!! どうかお許しをっ!!」
エフィムは椅子から転がり落ちるように床に伏せ、額を床に擦り付けながら謝罪し、身体を縮みこませる。
全身からは汗が吹き出し、顔も涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
今のエフィムには、嘗て国立魔導研究院の中でも優秀と言われ、尊大な態度で振舞っていた昔の姿は見る影もない。
ここしばらくアードラー伯爵の屋敷で過ごした事もあり、エフィムは伯爵の恐ろしさを十分理解出来ていた。
この人物は敵に回したらヤバイ。殺されるにしても、まともに死ねる事など期待してはいけない……だから、伯爵の怒りを鎮めるためなら、自分のちっぽけなプライドや自尊心、矜持などかなぐり捨てて謝罪しないといけない、とエフィムは本能で理解した。
「はっはっは。いやいや、冗談ですよ、冗談。エフィムさんは大切な取引相手ですからな。丁重に扱わせていただきますのでご安心を」
先程の濃密な闇の気配を霧散させた伯爵は、安心させるようにエフィムに笑いかけるが、その笑みはエフィムにとって恐怖でしか無い。
伯爵はエフィムを「大切な取引相手」と言った。それは裏を返せば、エフィムが<呪術刻印>を再現出来ず取引停止となった場合、どの様な扱いになってしまうのか……。もしかすると何かの代償を払わされるかもしれない。
最悪の想像をして、震え上がっているエフィムに伯爵は思い出したように言った。
「そうそう、エフィム殿の研究に役立てていただこうと思いましてね、こういうモノを用意させていただきましたよ」
伯爵がそう言うと、いつから其処に居たのか、若い女が縛られ、口を塞がれた状態で立たされていた。
本来なら綺麗な顔立ちをしていたであろうその女は、髪はボサボサで艶を無くし、枯れ枝のように細い腕をしていて、身体はやせ細っていた。
「そろそろ破棄しようと思っていたんですがね、エフィムさんの研究に使えるのではないかと思いまして持ってきたのです。一応まだ自我も残っておりますし、壊れてはいませんのでお好きにお使い下さい」
「ありがとうございます……」
正直、その女を使って刻印の効果を実験できるのはエフィムにとってはとても有り難い事だった。
しかし、それは人体実験となり、本来なら、魔導国に限らず世界各国で厳禁されている。
だが、今のエフィムはそういう判断が出来るほど正常では無かった。
むしろ刻印がどの様に作用するか知りたくて堪らない。
エフィムの精神は徐々に闇に堕ちていくのだった。
* * * あとがき * * *
お読みいただきありがとうございます。
しばらくはほのぼのから離れますが、お付き合いいただけたら嬉しいです。
次のお話は
「63 闇に堕ちる者」です。
次は誰のお話でしょうねー?当てたらすごーい!
どうぞよろしくお願いします!
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