第104話 誓いの休暇
1959年のソ連映画です。
この映画を観た二十代の私は、全く理解していなかったのだと思う。
今観ると、本当に当時としては傑作であり、映画史に残る名作だと思う。とは言っても、今はもう忘れ去られているのだろうが。
村には、町へ通じる道は一本しかない。
まだ10代のアリョーシャも、この道を兵隊に行き、そして戦争が終わった今も、その道で待ち続ける母のもとへ帰ってくることはない。
アリョーシャは戦時中、通信兵として前線に赴き、ひょんなことから思わぬ手柄を立ててしまう。
お陰で、屋根が壊れたといっていた母のもとへ行き、屋根を直してやるために、往復で4日間、自宅への滞在が2日間、計6日の休暇をもらえることになった。
列車に乗り込み、片足を失って除隊となった兵士の荷物を持ってやったことから、その兵士の帰還に付き合うことになる。
その兵士は、出兵前から妻との仲が冷え切っていて、自宅に帰るかどうか逡巡していた。
ずっと妻を信じることができなかった彼だったが、自宅のある駅に着くと、妻が涙を流して迎えてくれる。
2人は固く抱擁する。
彼にはもう片方の足だけしか残されていないが、それでも妻に支えられて、2人は家路に着くのだった。
その後乗り換えた列車で、アリョーシャは、シューラという少女と知り合う。
臆病で、初めはひどく警戒していたシューラだが、アリョーシャと共に様々な出来事を乗り越えるうち、次第に彼と心通わせるようになる。
アリョーシャはある町に着き、戦場で見も知らぬ兵士に、家は同じ方向だから、妻に石鹸を届け、元気だと伝えてくれと頼まれたのを思い出し、その兵士の家を訪ねる。
しかし兵士の妻は、別の男が部屋に来ている最中だった。
二十代の頃、私が1番分からなかったのはこの部分である。なぜ故郷が近いというだけで、貴重な休暇に、面識のない兵士の細君に石鹸など届けるのだろうと。
ところが、どうやら大陸ではこうしたことを当たり前にやるようだ。
私は中国の場合しか知らないが、彼らは、日本人より遥かに「ついで」ということに労力を使うのを惜しまないのである。
アリョーシャとシューラは、その兵士の病気の父親に石鹸を渡し、その町をあとにする。
2人は残りの旅を続ける。
窓から見える木々や大地、そしてそこに重なるロシア民謡を思わせる音楽、それはまさにロシアの抒情というにふさわしい。
しかし束の間の2人の交流も、終わりがやってくる。
発車する列車を追い、シューラは走る。
僕の村の名前はー
列車の上から叫ぶアリョーシャの声は、車輪の音にかき消されてしまう。
そうして何とか村に戻ったアリョーシャは、母との再会を果たす。
しかし帰りの列車の発車時刻はすぐで、もう車に戻らなければならない。
号泣する母。
しかしアリョーシャはどうすることもできないのだ。
村に通じる道は一本しかない。
初めにも書いた通り、戦争が終わっても、アリョーシャは2度とその道を戻ってくることはなかった。
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