第105話 夢

1990年の日米合作映画です。


数多くの傑作、名作を世に送り出し、世界の映画人のみならず、各界の文化人からも尊敬されてきた黒澤明監督。


晩年の作品、特にこの「夢」以降の作品については、見方も意見も人によって分かれるのではないかという気がする。

つまり、作品の出来不出来という点において。


この「夢」は、「こんな夢を見た」から始まる8話の作品から成っており、私個人の好みでいえば、やはり好きなものとそうでないものとある。


第1話の「日照り雨」や、5話の「鴉」などは好きである。


「日照り雨」は、太陽が出ているのに雨が降る、そんな天気の日に、親から禁じられた、遠くへ行くことをしてしまい、狐の嫁入りを見てしまう少年の話だ。


「鴉」は、主人公が想像の中で尊敬するゴッホに会う話。

ショパンの「雨だれ」と共にゴッホの展覧会を観ている主人公の空想が始まり、主人公はそこで憧れのゴッホに出会い、ゴッホの絵の中をさまよう。


いずれも黒澤明監督の個人的な世界が強く出ていると感じる。


しかし私が最も好きなのは、第2話の「桃畑」と最後の「水車のある村」で、どちらもメッセージ性が強いのだが、そのメッセージに関係なく、私はこの2つの物語を観ていると涙が出てきてしまう。


どこがそんなに感動するのだと言われても、それがうまく説明できないから困ってしまう。


特に「水車のある村」では、葬式の行列が出てくると、その音楽と皆の舞に思わず胸が熱くなる。

この映画のクライマックスにふさわしい場面だ。


本来ならもう少しこの2つの物語を紹介した方がいいのだろうが、これから見る方のためにあえて割愛しようと思う。


ただ、最後の盛り上がりのままこの映画は終わらない。

いよいよラストという時、急に全体のトーンが暗くなり、イッポリト=イワノフというロシアの作曲家の組曲「コーカサスの風景」の第一番「村にて」という曲が流れ、その暗い雰囲気で映画は終わる。


この暗い曲をあえて最後に流したところに、私は監督の本心とでもいうものを見る気がするのである。

つまり、作品の中でいかに何を主張しようとも、地球はもうヤバいんだよ、とでもいうような。


この頃、何かの記事で黒澤監督は、地球はどうせもうすぐ滅びるから、それを見届けてから死にたい、と言っているのを読んだことがある。

冗談も入っていたのだろうか。

そうも言えない悲しさを、このラストには感じるのである。

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