第6話 長距離ランナーの孤独



1962年のイギリス映画です。


昔、それもこの映画が公開された、今から思えば随分昔、若者というのは既成の価値や概念に反抗するものだ、というレッテルを貼られていたような気がする。


たとえばこの頃、映画の世界においても、ヌーベル・バーグ(新しい波)と呼ばれる既成の映画製作の概念をぶち破る映画が次々と生まれた。


小説の世界でも、ヌーボー・ロマンと呼ばれる作品群が生まれていた。


この時代に青年期を過ごしたらさぞかし面白かったろうと私は思うのだが、この映画は、そうした時代の空気や若者の姿を如実に写したような映画だと思う。


アラン・シリトーの原作小説も読んだが、実に面白かった。映画は、原作の物語をごく忠実になぞっていた記憶があるので、この映画の価値はその原作によるところが大きい。


今の若者には、そういう反骨精神も、批判的な気分も、すっかりなくなってしまったように思われるのだがどうだろう。


反抗する対象がなくなってしまったのかもしれない。もう、あらゆるものが既に出来上がってしまっていて、その隙間がないのだろう。


しかしこの時代は違ったのだ。

どうでしょう。小説の世界で、何か既成を打ち破る新鮮な作品を求めるというのは新人賞によくある文句だが、そういう作品はそうそうあるものではないから、ここに「長距離走者の孤独」の物語を紹介するので、参考にすることはできないでしょうか?



ある感化院で、長距離走の選手にされたコーリンは、毎日毎日長距離走の練習をさせられている。それは、黙々とした、孤独な行為だ。


自分が大会で優勝すれば、この感化院の名も上がり、院長も鼻高々というものだ。


コーリンは貧しい町に生まれ、18年間貧しい家で育った。

父は僅かな金を稼ぐために汗水流して働き、癌でポックリ死んだ。貧しい中で、母は男と遊んでいた。ガールフレンドと盗んだ車で旅行した。


彼は走る。


いよいよ大会の日、彼はトップを独走していた。院長の得意げな顔が見える。


しかし彼は、ゴールの直前で、突然走るのをやめてしまった。


後続のランナーが彼を追い越してゆく。


彼は、笑っていた・・・。

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