万能の書
「万能の書?」
客の言葉を繰り返して、男は怪訝な表情を浮かべた。眉間にしわが寄って自然と語気が鋭くなる。対して客は、店に入ってきたときと同じすました表情で「ああ」と頷いた。
「そう呼ばれるものを探しているんだ。この店に、似通った名前の商品はないか」
この時点で、頭がおかしい奴なんだなと店主は判断した。コンコルディアでは狂ったやつも頭がおかしくなったやつも珍しくはない。見た目は普通でも会話が成り立たない人間だって少なくはない。
この客はそういう類の薬物中毒者なのだろう。となると、万能の書とは薬の隠語か。だとしてもウチにきたのは間違いだ――そんなことを考えながら、店主は一応説明をしてやることにした。
「あのな、そういうのは本屋に行ってもらわないと。あるいは裏通りの店だ。いくら三区の……《
男が取り扱うのは貴金属と宝石だ。中に薬物を仕込むという手口も存在するが、店主自らそういった細工を施した事は無い。
「知っている。だから、この店に来た」
客はそれだけ言って、ケースに並んだ商品を見始めた。何かを探すように視線が動く。
(まぁ、散らかしたり、暴れたりしなければいいか)
店主は大きなため息をついた。会話が成り立たないというのは意外と気力を持っていかれるのだ。暴れないだけマシとはいえ、好んで相手をしたいとは思わない。
改めて客を見る。白衣……と呼んでいいのだろうか。くたびれて汚れたものを羽織り、その下に簡素なシャツを着ている。顔色は良くも悪くもない。ただ、血管が見えるほど白い手が少し気になった。頬がこけるほどではないが肉付きはよくないらしい。
(珍しい話でもない)
コンコルディアは荒野の中にある町だ。やせた大地では食べ物もそう育たない。土を買って作った農園がないわけではないが、都市全体の食を賄うには不十分だ。
加えて家畜も少ない。事故死――人同士の争いに巻き込まれることも、コンコルディアでは事故だ――が多いうえに、そもそもここまで家畜を売りに来る商人がいない。肉も卵も、ほとんどが外の商人頼みだった。
商人も売れるとわかっているからか、定期的にコンコルディアにやってくる。それでも、一度に運べる量は限られていて、頻度だってそう多くはない。
食品は高い。コンコルディアの土壌でも収穫が望める芋や豆は比較的安価だが、それにすら手を出せない層が一定数いることも事実だ。薬をやっていて食事に回す金がないという例もよくある。
この客もそうなのだろう、と店主は予想した。羽織が汚れているのも、きっと替えを買う金がないからだ。人を襲って物を奪えるほどの力があるようにも見えない。
(だが、だとすれば余計にわからんな)
食品も衣服も買う余裕がないのに、貴金属や宝石を扱う店に来る。薬に飲まれ判断力が失われているのならおかしな話ではないのだが、店主には何とも言えない違和感があった。
理由を探して客を観察する。相手は店主の視線には気づいていないようで、ショーケースを熱心に眺めていた。濁った灰色の瞳が粒ひとつひとつに向けられている。
30後半くらいだろうか、目の下にはクマがあり、なんとなくやつれた印象がある。商品を見定めるためか目を細めれば、その印象はより強くなった。
きゅっと結ばれた口は、一度閉じたきり動いていない。纏う空気は冷たく硬かった。……そこまで見て、店主はふと気づき、彼の瞳へ視線をやった。
濁ったダークグレー。細められたその目は暗かったが、光が消えている訳ではなかった。意志がない人間はもっと混沌とした色をしている。どこかを見ているようでどこも見ていないような、地に足がついていない者特有のそれではない。
(薬はやっていないのか?)
もし薬をやっていないのなら、彼は真性の狂人だろうか。それはそれで面倒だ。
「ここには――」
客が顔を上げた。視線が商品から店主に移される。
「ここには、並んでいるもの以外の商品はあるか」
「いくつか粗悪品と加工前のやつは後ろにあるが……書物はないぞ」
「何を当然のことを」
はん、と客が鼻で笑う。
「おい、あんたが言ったんだろう。万能の書が欲しいって」
「ああ、そうだ。だからこの店に来た」
「だから――」
「深紅の宝石だ」
しびれを切らして声を挙げようとしたところで、それを遮るように客が言った。
「深紅の宝石……鉱石、という方が正しいかもしれない。名称は万能の書の他、賢者の石、血の石、紅玉石。ルビーよりも深い紅だ。少数派だが、エメラルドタブレットと呼ぶ者もいる」
つらつらと客の口から語られる特徴に、店主は目を丸くした。つまり――この客は、最初から宝石を求めていた?
「ま、待ってくれ……宝石なんだな? その、書物ではなく」
「最初からそう言っている」
言ってねぇよ。続けて口から零れそうになる罵倒ごと言葉を飲み込んで、店主はメモ用紙を手に取った。もう片方の手でポケットのボールペンを取り出し、万能の書、宝石と用紙に書き込む。
「深紅……紅玉石、だったな。ルビーではないんだな?」
「違う。もっと濃く、深い色だ。硬度もルビーほどはない」
「ガーネットはどうだ? あれにも種類があるし、深紅ってたとえに相応しい色だと思うが」
「ガーネット……いや、わからないな。おそらく違うと思う。紛れている可能性もあるが、少なくとも既存の宝石ではない」
「既存の――宝石じゃない?」
ああ、と客は頷いた。
「正確には、既存の宝石には分類されない、だな。10年前にも存在が確認されているが、どこで、どうして見つかったかまでは記録に残っていない。ただ、コンコルディアで発見されたのは間違いなさそうだった」
「10年前か……」
その頃にもこの店はあったが、開いていたのは先代、店主の義理の親である。7年前から店を継いではいるが、それまでは商館で別種の仕事についていて、宝石のことは全く学んでいなかった。
「オヤジに聞けば、何かわかるかもしれんが」
「なら頼む。可能なら、他の人間にも同様のことを尋ねてほしい。どんな些細なことでも構わない。今は質よりも量を優先したい」
「そりゃあ、なんたってそんなに」
「研究のためだ。金が必要なら、これを前金にするといい」
客が汚れた白衣のポケットから、くしゃりと何かを取り出した。ポップな柄が描かれた紙――菓子の包み紙だろう――に交じって、紙幣が無造作に置かれる。
「そう難しいことではないからな。ひとまず20ドルだ。有益な情報が手に入れば、ひとつにつき追加で20ドル。実物が手に入れば大きさにもよるが……300ドルは出すと約束しよう」
「は、」
情報屋でもない店主に出すには破格の金額だ。情報ひとつで20ドル。それだけではなく、こんな口約束でも20ドルを出すという。
「あんた、取引ってのを知らねぇな」
末端とはいえ、一度は《眠る心臓》の本部に務め、今もそこに所属する店主だ。下衆も策士も愚図も見てきた。それでもこんな飛び切りの阿呆はなかなか見なかった。
「確かに取引は知らない。だが、人間は選んでいる。ふたつ隣の通りではなくあえてここに来た、といえば理解できるか」
ふたつ隣の通りといわれて思い浮かべたのは別の宝石店だ。あそこは貴重な品をいくつも仕入れる代わりに、まがい物も多い。金額も相場の倍以上というふざけた店である。
「金に糸目をつけないほど真剣だ。だが……だからこそ選ぶべきものは選んでいる。引き受けてもらえるか」
「――いいぜ、引き受ける。ただし金はあんたが言った通りの額だ。どんな小粒でも、実物には300以上を出してもらう」
カウンターに置かれた20ドルをしまって店主は答えた。相手は阿呆だが馬鹿ではなさそうだった。
「ひとまずはオヤジに聞いてみる。10年前にこの店の店主だったから、何か知ってるかもしれん。客や仕入れ先にも聞いてみよう」
「頼む。もしそれらしいものがあれば、取り置きしておいてくれ」
「わかった――連絡はどうする?」
「定期的にこちらへ顔を出そう。手紙でも構わない。西の物見塔はわかるか」
店主は頷いた。物見塔という名の小高い建物が三区の西にあり、一応、そこが都市と外を分ける目印となっている。
「その近くに住んでいる。物見塔近辺、パトラシア・J・アルゼフ。目印は緑のベルだ」
コンコルディアには番地が存在しない。管理するものがいないからだ。手紙や荷物の配達は、地区名と、通りや目印となる建物に宛名、場合によってはさらに細かな目印を指定して行う。荷物がきちんと届かないこともあるが、たいていの場合はこれだけでなんとかなった。
「パトラシアさんな。わかった。何かあれば手紙を出すことにする」
「ああ。……どうか、よろしく頼む」
軽く頭を下げて客、パトラシアが店を出た。残された店主は雑多なメモを見て、少し前と同じようにため息を吐き出す。
「会話はできたが、これだけの情報じゃあな」
面倒な仕事になりそうだ。それでも断れなかったのは宝石商としてのプライドだった。
まずは義父に話を聞こう。息子にも偏屈なところを見せる人だが、何とかなるはずだ。そのための準備として、店主は貰った紙幣を1枚、5ドルのそれに両替しておくことにした。
何事も、結局は金である。
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