ゼウスという神

 コンコルディアの中央にそびえたつ塔の最上階には、その名前の通り巨大な鐘が設置されている。


 高さはおよそ30メートル。10メートル地点と20メートル地点にそれぞれフロアがあるが、特に何かが置いてあるわけでもない。しいて言うならば20メートル地点のフロアに錆びた双眼鏡が数台置かれてあるくらいだ。

 最上階、30メートル地点にある鐘くらいしか特徴のない塔。昇る方法が長い螺旋階段のみということもあって、地下――鐘の塔からしかいけない地下街の残骸だ――に潜る目的か、他の区へのショートカット目的で使われることがほとんどだ。錆び付いた鐘を鳴らすために、30メートルという高さを昇るモノ好きはなかなかいない。


 そんな事情があるからこそ、1時間ほど前に鳴り響いた鐘の音に多くの住民が驚いた。控えめな音ではなく、大きな音。ちょっと鳴らしてみようかな、とイタズラで打ったわけではないとわかるような響きだった。錆び付いているせいで若干違和感があるが、それでも美しい音が各区に届く。


 一区の教会で信者たちの悩みを聞いていたアインも、当然その音を聞いた。神経質になっていた信者はその音にひどく怯えていたが、鳴らしたのはただの人間で、タイミングだって信者の悩みとは関係がない。

 それに、アインには鐘を鳴らした人物に心当たりがあった。確証とまではいかないが、あの塔を好み、よく昇っていた人物を知っている。先ほど聞こえた音は、10年前まではよく聞いていた彼の音と同じだった。


(もし彼だとしたら、ゼウスのあの言葉は彼に干渉するな、ということでしょうか)


 信者との話を終えて部屋に戻る途中、アインはそんなことを考えた。第四区の代名詞ともいえる過剰防衛はそもそも彼――ナンバーゼロの性質だ。ゼロがもし本当に戻ってきたのならば、何かしらの騒動が起こらないわけがない。


(そんな信頼、普通の人間であれば嫌がるのでしょうが……事実である以上、仕方がありません)


 ふぅ、と息を吐きだして自室の扉を開ける。教会内に作られたこの部屋の前にも当然警備員がいて、アインの姿を確認すると無言でお辞儀をした。

 さすがに部屋内に警備員は配置されていない。それゆえに自室は、アインにとって唯一といっても過言ではないプライベート空間だ。


「…………なぜ」


 だから、部屋に人影があれば疑問の声が出てしまうのは仕方がない。それが見知った――先ほどまで考えてた人物であればなおさらだ。


「や、アイン。久しぶりだね」


 人影、ナンバーゼロはひらりと手を振る。空いた窓に腰掛けて、持参したらしい本を読む姿に緊張感などない。


「外には警備員がいたはずですが」


 一応、そんな風に尋ねる。それくらい彼にとってなんでもないとわかっていながら、念のため。


「死角は意外とあるんだよ、アイン」


 案の定、さらりとそんなことを言う。この後の予定に警備の見直しが入った瞬間だった。


「そんなことよりさ、久しぶりに戻ってきた僕にひとことくらいあってもいいんじゃない?」

「……おかえりなさい、ナンバーゼロ。久しぶりに心地の良い鐘の音を聞けました」

「ふふ、ただいまアイン。うん、今はそれで満足だよ」


 柔らかな笑みを浮かべて、ゼロは窓から降りた。そのまま室内に置いてある椅子を引っ張って「ほら、アインはここに座って」などと言う。


「一応ここはわたくしの部屋なのですが……」


 そう言いながらも、アインは示された椅子に腰かけた。ゼロの奔放さは今に始まったことではないし、彼のそんな面を嫌いになれないのも事実だ。


「それで、どのような用件でしょうか」

「帰ってきたついでに顔を見せに来ただけ、とは思わないんだね」

「もしそうなら、挨拶を終えた時点で帰っているでしょう?」

「うーん、それはそうなんだけど……まあいいか。今日はアインに言っておかないといけないことがあって」


 もう一度窓に腰をかけて、ゼロは指を一本立てた。


「ひとつめ。僕はこれからストレス発散と現状把握のため、たくさん暴れます」

「はぁ」

「反応薄いなあ。……ま、いいか。ふたつめ。暴れるといっても基本実力を知るのが目的だから、殺しはナシ。四区に手を出したときだけ別だね」


 殺しはナシ。簡単に言うが、それがどれだけ難しいことかアインは知っている。実力が均衡している場合、殺して勝つよりより殺さないで勝つが難しい。殺さないとはつまり、「自分は強い」と主張するのと同意義だ。

 そして同時に、ゼロがそれだけの強さを持っていることをアインは知っている。


「みっつめ。一区の子たちにも手を出すけど、許してほしい」


 これが本題だったりするんだけどね。その言葉にアインは納得した。なるほど、このことだったのかと。


「えぇ。わたくしは何も言いません。あなたが無意味に住民を殺害するとも思えませんから」

「……ちょっと意外。もう少し詳しく説明しろって言われるかと思ってた」

「それは……少しだけ、気にならないと言えば嘘になってしまいます。けれども、ゼウスは『関わることなかれ』と仰いましたから」


 一区の《偶像の魂イドラ・アニマ》に所属するものの多くがそうであるように、アインにとってもゼウスの言葉は絶対だ。かの神が関わるなというのならばそれに従うまで。ゼロに対する信頼もあって、それ以上のことを尋ねようとは思わなかった。


「なるほどねぇ……。だから何も言わないと」

「えぇ。ゼウスの御言葉ですし……正式な神託ではなく、個人に当てた、唐突なものでしたから。きっと普段のものより重要なのだと思います」

「正式な神託、か。……アインは変わらないねぇ」

「? わたくしは何も変わっていませんよ。10年前も今も、わたくしはわたくしです」

「ああ、いやそういう意味じゃなくて……まあいいんだけど」


 首をかしげるアインに「調子狂うなあ」とゼロは頭を掻く。アインは当たり前のことを述べたつもりだったが、ゼロにとってはそうではなかったらしい。


「申し訳ありません、ゼロ。あなたを困らせてしまったようです」

「いや、いいよ。アインのせいじゃないし、慣れないといけないのは僕だし」

「……その、今一度尋ねさせてください。やはりあなたは、ゼウスを知っているのですか」


 違和感のある受け答えと、過去のやり取り。それはアインの中にずっとある疑問だ。

 ナンバーゼロはアインらが敬愛するゼウスを知っているのではないか。

 その問いかけにゼロはきょとんとした表情を浮かべた。だがそれも一瞬で消え、「あのねえ」と苦笑する。


「前にも言ったと思うけど、僕はゼウスを『知ってる』んじゃなくて『わかってる』だけだよ。アインをゼウスに会わせてあげるのは無理だし、ここにゼウスを連れてくることも不可能だからね」


 それは確かに、以前にも聞いた言葉だった。その違いはよくわからないし、彼がわかっていることが何なのかも当然分からない。ただ、アインも声しか知らぬ主神の手掛かりを、彼が持っていることだけは理解できた。


「ですが、ゼウスは確かに告げてくださいました。あなたがゼウスを知っているのだと」

「知ってはいない。理解はしているけどね。アインもきっとそのうちわかるよ」

「……それは、一体」

「あー、ダメダメ。ここから先は自分で考えないと。……僕はもう行くよ。じゃあねアイン」

「あ、ゼロ、待ってください!」


 窓から外へ出ていくゼロを見て、アインは思わず大きな声をあげた。まだ聞きたいことはたくさんあったのに、アインが椅子から立ち上がるよりも早くゼロの姿は消えてしまう。


「神子様!? 如何なさいましたか!?」


 大きな声に反応したらしい、部屋の外にいた警備員たちが扉を開けて中に入って来る。けれどもすでに、彼らが捕らえるべきナンバーゼロはいない。


「……申し訳ありません。わたくしは大丈夫です」


 ふう、と息を吐きだしてアインは告げた。柄にもなく声をあげたせいだろうか、少し鼓動が早い気がした。


「神子様、ですが……」

「大丈夫ですよ。……ごめんなさい、少しだけひとりにさせてください」


 渋っていた警備員も、その言葉にうなずいて外へ出る。ひとりになったところで、アインはゼロとの会話に使った椅子に座り、ゆっくり瞳を閉じた。

 考えたいことがたくさんあった。ゼウスのことも、ナンバーゼロのことも。考えてもわからないことはわかっているけれど、今は思考の海に沈みたい気分だった。

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