第139話 衝撃の瞬間
「手術、成功したって」
恭介の父親からの報告を伝えると、久美と歩美は「やった」「良かったぁ」と抱き合った。
「退院はいつなんですか?」
訊ねてくる歩美の顔はこれまで見たことがないほど嬉しそうに輝いていた。「奥川先輩?」
「え?」
「え?じゃないですよ。何、泣いてるんですか」
「いや、泣いてなんか……」
一度は隠そうと思った。
だけど、そんなことは無理だった。
拭っても、拭っても、目から涙が零れていく。「良かった。良かったよ。ほんっと、……良かったぁ」
恭介とまたここで無駄話ができる。
そう考えたら、体のどこかの栓が壊れてしまって、そこから涙が止まらない。
「奥川先輩」
「奥川君……」
凛太郎はゴシゴシと制服の袖で強めに目を擦って、無理やり笑って見せた。
「術後の経過次第で変わるみたいだけど、今のところ予定通りなら退院は二月十五日」
「十五日かぁ。バレンタインデーは退院前日ですけど、チョコ持って行くぐらい、いいんですよね?せっかくだからチョコは十四日に渡したいんですけど」
「それぐらい、いいと思うよ。それが駄目なら、退院なんかできる体調じゃないってことだし」
「じゃあ、みんなでお見舞いに行きましょ」
歩美がそう提案すると、凛太郎と久美は一瞬沈黙してしまう。
久美とのことは歩美にもまだ内緒にしている。
将棋大会の日に二人は付き合いだした。
しかし、久美は母親がそのことを知ったら、怒り心頭で学校や奥川家に乗り込みかねないと心配を口にした。
凛太郎も二人の関係を公にするのは、やっかみによる身の危険を感じるし、そもそも恥ずかし過ぎて、考えただけで悶絶しそうだ。
恭介や歩美からの激しい冷やかしにも耐えられそうにない。
そういうことで、当面は人知れずひっそりと恋愛をしていくことにしたのだ。
そしてバレンタインデーは部活帰りにどこかでこっそり落ち合おうと約束していた。
「私、部活だなぁ」
久美が少し残念そうに呟く。
「あ。そうだった。今日は雨だから久美ちゃんがここにいるんだった。じゃあ、奥川先輩、二人で行きましょ」
「あ、ああ。うん」
こういう展開になることは少し予想していた。
だが、久美の部活が終わるまでに帰ることができれば問題はない。
「よーし。どんなチョコにしようかなぁ。さすがにチョコボールは可哀そうだもんな」
そこから久美と歩美は、「あそこのチョコは美味しいけど高い」、「あそこのは人気過ぎて買うのが大変だ」とチョコレート談義に花を咲かせる。
「で、久美ちゃんは奥川先輩にあげるチョコはどうするの?」
歩美が意味ありげに凛太郎を見ながら、久美に核心に迫る質問をする。
「歩美」
久美がチラッと凛太郎の表情を確認する。「本人の前でそういうの、言いにくいよ」
「あ。ごめん。でも、あげるんでしょ?」
「んー。ご迷惑じゃなければ」
「迷惑なはずないじゃん。そこは手作りとか欧米列強のめっちゃ高いやつとか、奮発してあげてね。私は奥川先輩にはチョコボールにするから」
そろそろバレンタインデーの話題は終わりたい。
そうじゃないとどこかでぼろを出してしまいそうだ。
「ごめん。続き、やっていいかな」
「うん」
凛太郎は久美の向い側に腰かけ、盤面を覗き込んだ。
どういう手を考えていたか、すっかり忘れてしまった。
「久美ちゃん、将棋部はオッケーになったの?」
「あ、うん。そこは頑張ってお母さんを説得したの。将棋は小さい頃からやってたし、歩美もいるからオッケーもらえた」
「そう、良かったぁ」
歩美は、良かったですね、と凛太郎の腕をバシバシ叩く。
「ちょ、ちょっと、痛いよ」
「照れない、照れない。私、ちょっとトイレ行ってこようかなぁ」
久しぶりの二人の対局ですし、ゆっくりやってください、と意味深な視線を二人に向けて本当に歩美は部室から出て行った。
二人きりになった途端に、何か柔らかいものが足に触れた。
チラッと机の下を覗くと、触れているのは久美の足だった。
凛太郎の両足を外側から久美の黒ストッキングの足が挟んでいる。
「ほらほら、りっくんの番だよ」
久美がいたずら好きの目で凛太郎を見てくる。
先日、久美が二人きりの時に凛太郎のことを「りっくん」と呼ぶことに決めた。
「凛太郎」は少し長いし、「凛ちゃん」は麻実のものだし、「たろちゃん」は恭介が使っているから、ということで。
スリスリと久美が凛太郎の足に足を擦りつけてくる。
耳に心臓があるのかと思うぐらいに、ドクンドクンと鼓動が弾けている。
「ちょ、ちょっと、集中できない」
「ごめんなさい。調子、乗り過ぎました」
スッと足が離れていき、ものすごい後悔の気持ちが凛太郎の心に嵐のように吹き荒れる。
足が急に寒くなった気がする。
「そんなことないけど……」
凛太郎は何かに追われるように必死に考え、一手指した。「く、く、く、くーちゃんの番だよ」
バカップルだということは分かっている。
でも、本人たちが満足していて、他人に迷惑をかけていなければ、どういう呼び方で互いを愛し合っても良いじゃないか。
そういうことを久美がしきりに凛太郎に言い、凛太郎は「久美」と呼び捨てにすることはかなり難しいということで、とりあえず「くーちゃん」に落ち着いたのだが、呼んでみると、「久美」より「くーちゃん」の方が恥かしい気がしている。
「はいぃ」
久美も「くーちゃん」に慣れていないようで、照れが隠しきれない。
そこに力を得て、凛太郎は足を伸ばした。
今度は逆に久美の足を自分の足で挟む。
「キャッ!」
「あっ、ごめんなさい!」
悲鳴的な声とビクンと久美が全身で反応したことに驚いて、慌てて凛太郎は足を引っ込め、頭を下げる。
しまった。
自分こそ調子に乗ってしまった。
自分が勝手に久美に触れてしまうなんて、どうかしていた。
「ううん。りっくんからそんなことしてくれるなんて、ちょっと、びっくりしただけ。こっちこそ、ごめん」
そう言って、久美が「てへへ」と笑う。「もう一回、挟んで」
「……いいの?」
「うん。お願い」
凛太郎は久美の言葉に従って、その足を自分の足で挟んだ。
「どうかな?」
「よいです。非常によいです」
久美は顔を赤らめて目を閉じた。「あー。こりゃ、将棋に集中できませんなぁ」
「でしょ?」
「うん。でも、たまらんですぅ」
久美は凛太郎の足から自分の右足を引き、その足で凛太郎の左足を挟む。「こうしよっと」
そこへ、急にドアが開く音がして「こらぁ!」と歩美の声が響いた。
咄嗟に、静かに、久美が足を戻す。
「なーに、歩美。そんな大きな声、出して」
「ちぇっ。つまんねぇっす」
歩美はつかつかと入ってきて、凛太郎と久美の脇に座った。「何、真面目に将棋なんかしてるんですか。誰もいないんだから、もっと、こう、いちゃついててくださいよ。せっかく頑張って足音消してきたのに、馬鹿みたいじゃないですか。つまんないなぁ。衝撃の瞬間が見れると思ってたのにぃ」
久美は歩美の落胆ぶりにクスッと笑った。
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