第138話 告白
午前中の予選リーグを凛太郎は三戦全勝で突破した。
一方の花蓮は一勝二敗で決勝トーナメントには出場できなかった。
「まあ、私の実力なら順当です。午後からは奥川さんの応援に全力投球します」
花蓮は胸の前で力強く拳を握った。
「あ、ありがと」
「でも、さすがですね。同じリーグの人、結構強かったと思うんですけど」
「自分でも全勝は、かなり上出来だと思います」
「実力ですよ。表彰台目指して頑張ってください」
「それは無理ですよ。次、勝てるかどうか」
「そんな弱気じゃ駄目ですよ。私がパワーを注ぎます」
そう言って、立ち上がった花蓮は凛太郎の後ろに回って、その背中に手を当てた。
「ちょ、ちょっと、辛島さん」
凛太郎は慌てて座っていたベンチから飛びのいた。
ちょっと、そういうの恥ずかしい。
誰が見ているか分からないし。
「あ。何だか子どもっぽかったですね」
冷めた空気を「フフフ」と花蓮が笑いでごまかす。
二人は市民体育館の二階の観客席にいた。
試合会場ではまだ予選リーグの最後の対局が続いている。
二人はベンチに座り直して、その様子をぼんやり見つめた。
「降ってきましたね」
「確かに」
外は雪だった。
鉛色の空から、大きめの綿雪が無尽蔵に降っている。
これは積もるかもしれない。
「傘持ってこなかったなぁ。奥川さんは持ってます?」
「小さな折り畳みなら」
「じゃあ、帰るときまで降ってたら、相合傘してもらえます?」
首を少し傾けて、はにかみながら花蓮が訊ねてくる。
「かなり小さくて、一人でも肩が濡れちゃうような傘だから……。その時はお貸ししますよ」
「いや。それは申し訳ないんで、結構です」
花蓮は何かを呟いた。
これも駄目かぁ、と言ったような気がした。「今のうちに、昼食、食べておいた方が後で楽じゃないですか?」
二人と同じように待ち時間を観客席で過ごしている人の中には、お弁当を広げている人もちらほらいる。
「そうですね」
「何か持ってきてます?それともどこかに食べに行くんですか?」
凛太郎はリュックから小さなゼリー飲料を取り出した。
「これ」
「それだけ?」
「うん。こないだの試合の時もそうだったんですけど、緊張してて、試合が終わるまで、あまりお腹が空かないんです。だから、これで十分。水分があるから入っていきやすいし」
「えー。小食。それじゃあ、ますますやせちゃいますよ」
「まあ、一日ぐらい食べなくても大丈夫ですよ」
凛太郎は花蓮にじっと見られているのを感じながら、飲み口のキャップを開き、一口飲んだ。「辛島さんは?」
「私はお弁当を持ってきました」
花蓮は鞄から小さくて四角いものを取り出した。
女子のお弁当箱というのはどうして、こう小さいのだろう。
凛太郎は大食いではないが、女子の弁当の量では絶対に満腹にならない自信がある。
包みを開いて出てきたお弁当は色彩が豊かだった。
プチトマト、卵焼き、茹でブロッコリー、ミニウインナー、きんぴらごぼう……。
こんな小さな弁当箱によくもまあこんなにたくさんの種類のものが入っているものだと感心してしまう。
花蓮は丁寧に「いただきます」と胸の前で合掌してから、少しずつお弁当を食べ始めた。
凛太郎の方はあっという間にゼリー飲料を飲み干してしまう。
ニュルニュルっと胃の中に入っていくので、十秒あれば完食だ。
「もう終わっちゃったんですか?」
「まあ。十秒チャージって書いてあるぐらいなんで」
凛太郎はぺったんこになったゼリー飲料のパッケージを示した。
「じゃあ、私のお弁当、食べます?」
「いいです、いいです。そんな」
凛太郎は手を広げて遠慮した。
「そう言わずに」
花蓮はミニウインナーを箸でつまむ。「はい。あーんしてください」
「いや、本当にいいんです。お腹いっぱいで食べられないから」
凛太郎は必死に抵抗した。
クリスマスの時にしてもらってから、「あーん」について凛太郎は深く後悔しているのだ。
これはやっぱり、好きな人同士がすべきことだ。
花蓮はがっかりした顔で箸を下ろすと、何かを思いついた顔で、鞄をゴソゴソし出した。
「はい。これならどうですか?」
花蓮は有名なチョコレート菓子の袋を取り出した。「知ってます?これ、バレンタイン期間限定なんです」
「そうなんだ」
「お一つ、どうですか?」
「あー。うー。……やっぱり、ちょっと遠慮しとこうかな。本当にお腹がいっぱいで」
「一つぐらい、いいじゃないですかぁ。バレンタインデーも近いし、もらってくださいよ」
バレンタインデーのチョコレート。
家族以外の女子から。
人生で初めて。
これを逃したら、また今年も誰からももらえないかもしれない。
ここでちょっと掌を見せれば、不名誉な記録は途切れる。
それは非常に魅力的だ。
だけど……、その記録はあの人からのチョコレートで途絶えさせたい。
「あー。ごめん。それも……」
凛太郎の言葉に花蓮はこれ以上頑張れないという感じで、急にがっくりと俯いた。
何かが切れたような雰囲気がある。
「もう、行ってください」
花蓮の声は怒りと諦めに満ちていた。
「え?」
「早く行ってください」
泣いている?
語尾が震えていた。
「え?何?どこに?」
凛太郎は困惑した。
花蓮が言っていることの意味を懸命に探ろうとした。
花蓮は「もーう」と苛立ちを隠すことなく唸るように言って、ピッとある方向に指を差した。
そこは出入り口につながる階段だ。
「まだ、近くにいますよ。早く行ってあげてください」
「う、うん」
全然意味が分からないが、花蓮が全身で怒りのオーラを放っているから、従う以外に方策がない。
凛太郎はリュックを持って立ち上がり、階段の方に小走りで向かった。
階段の下にはロビーがある。
出入り口からは雪にまみれた服を手で払う人、どこかへ行きたいのか、恨めしそうに空を見上げる人、その脇を悠々と傘を開きながら外へ出て行く人。
見知った顔は一人もいない。
それでも、凛太郎はロビーに降りてみた。
雪に呼ばれるように、出入り口に向かう。
空の色は少し明るくなった気もするが、雪の降り方は変わってはいない。
駐車場の雪はシャーベット状になっていて、走る車の動きを重くしている。
玄関ドアの外の軒下で、一人の女子が壁にもたれて俯いていた。
「永田さん……」
見覚えのあるコートを着た永田さんがそこにいた。
彼女は凛太郎の声にハッとこちらを見る。「来てたんだね」
いたずらを叱られた子どものように、どこか所在なさげに頷いた。
こんなに小さな永田さんを見たことはない。
傘がなくて、帰るに帰れないのだろうか。
凛太郎はリュックの中から折り畳みの傘を取り出そうとした。
「おめでとうございます」
永田さんが敬語?
何を祝福してもらえたのだろうか。
予選リーグを突破したことだろうか。
「ありがとう」
とりあえずのつもりで礼を言ったら、永田さんは何かを諦めるように「ふー」と熱いため息を漏らした。
ポタっと音がした。
永田さんの黒いブーツの爪先で雫が跳ねた。
そして、永田さんは涙を隠すように俯いて、嗚咽のようなものを押し殺す声を漏らした。
「彼女さんと、……いつまでも仲良くね」
急に永田さんは地面を蹴り、雪が舞う駐車場に向かって走り出した。
「永田さん」
凛太郎は何も考えずに、走る永田さんを追いかけた。「永田さん。待って!」
永田さんは冷たい雪を厭わず、走る。
しかし、ヒールのあるブーツだからか、足取りが重い。
凛太郎はスニーカーを必死に繰り出して、永田さんの背後に迫った。
「永田さん!」
凛太郎は彼女の腕を掴む。
コートの袖ごと強引に。
二人は駐車場のど真ん中で雪に絡まれながら石像のように固まった。
「何?」
永田さんの髪に白い雪が降りかかる。
その顔は見えない。
「彼女は、彼女じゃないよ」
「何それ」
「あー、だから。辛島さんとは、その……、何でもないって言うか、付き合ってないって言うか」
「でも、……あんなに、仲良さそうに……」
永田さんは向こうを向いたまま、視線を地面に落とした。
「そんなことないよ」
「そうよ」
「いや、だって……」
「だって、何?」
二人は矢継ぎ早に言葉を交わした。
凛太郎は会話のテンポの遅さを自負しているが、今は気付いたら反射的に答えてしまっている。
「だって、僕は、永田さんのことが……」
こんな時は雪も悪くない。
凛太郎は永田さんの腕から手を放し、二人の真ん中に小さな傘を差した。
この世界には僕と永田さんしかいない。
二人きりなら、……言える。
そして、今、言わなきゃいけない。「好きなんだ」
永田さんがゆっくりと凛太郎を振り返る。
「本当?」
「……うん」
「本当に、本当?」
「うん」
永田さんの頬に赤みが差して表情がゆっくりほどけていった。
「ねぇ」
永田さんは、傘を差す凛太郎の腕を両手で掴んで、しっかり傘の中に、凛太郎のそばに近寄った。「もう一回、言って」
「えー」
「お願い。お願い、お願い」
永田さんは雪に濡れた駐車場でべちゃべちゃ音を立てながら、足を細かくジタバタさせる。「さっきの、声が小さすぎて、ちゃんと聞き取れなかったもん。聞きたい、聞きたい」
確かに、声は小さかったかもしれないけれど。
「いや、ちょっと、それは……」
「それは、何?」
「一回しか使えないって言うか、エネルギーが空っぽって言うか……」
「むぅ。けち」
「えー。頑張った方だよ。倒れちゃう」
「それは駄目。倒れたの、目の前で見たことあるし。……分かった。やめとく」
「ありがとう。でも、何か、脅すようなこと言っちゃってごめん」
「じゃあ、……質問になら答えてくれる?」
永田さんの顔が少し真剣になる。
緊張しているようにも見える。
「どうかなぁ」
「すっごく簡単な質問。しかも、答えは頷くだけでいいから」
「頷くだけ?」
「そう。首を横に振るのは禁止」
「それって、質問になってないんじゃ……」
「横に振りたいの?」
永田さんが眉を八の字にして不安げに見つめてくる。
「多分、振りたくない、と思う」
凛太郎がそう答えると、永田さんは目元の力を抜いた。
「じゃあ、いくよ?」
「うん」
「私を……彼女にしてくれる?」
そんな照れながらの上目遣いで可愛く訊かなくても、答えは分かっているくせに。
凛太郎は小さな傘の下で、ギュッと目を閉じて、しっかり首を縦に振った。
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