第137話 一人の戦い
恭介の手術を二日後に控え、凛太郎は緊張していた。
自分が緊張しても意味がないことは分かっているが、恭介にもしものことがあったらと思うと、何も手につかなくなる時がある。
そして、意味もなく将棋部の部室にやってきてしまった。
今日は水曜日。
歩美はそろばん塾のバイトの日。
部室には誰もいない。
水曜日はDTMの日。
そう取り決めたのは去年の春。
あれから恭介と凛太郎は毎週水曜日に二人で飽きもせずこの部室に入り浸っては他人には聞かせられないエロ無駄話に興じてきた。
楽しかったな。
凛太郎は恭介と向かい合って座るいつもの椅子に腰かけて、何を見るでもなく、ぼんやりと中空に視線を漂わせた。
ポケットに手を突っ込んで、手に触れた四角いものを取り出す。
病気平癒の御守りだ。
恭介のために買ったのだが、恭介には渡していない。
渡そうと思ってお見舞いに持って行ったのだが、全く同じ御守りを歩美が恭介に渡し、恭介が照れながらも嬉しそうだったのを見て、ポケットに仕舞ったままにしたのだ。
あの時、渡さないで良かったと思った。
同じものを持って、手術の成功を祈っていることに、少しだけ安心感がある。
すがれるものがあるというのは大事なことだ。
御守りをポケットに戻すと、リュックから一枚の紙を取り出した。
必要事項を記入して、ふーっと息を漏らす。
恭介が怖さを克服して手術に挑むのなら、自分も何か頑張る必要があると凛太郎は思っていた。
今、頑張れることがあるとしたら、これだ。
凛太郎は一人で市民体育館に来た。
指先のかじかむ寒さだが、大勢の人が集まっている。
下は小学校低学年、上は凛太郎には何歳だか分からないぐらいの皺だらけの老人の姿がある。
凛太郎と同じ高校生の年格好の人もいる。
今日はこの地域の将棋大会。
凛太郎は一人でこの大会にエントリーしていた。
日々の生活に何か、張りと言うか目標と言うか、そういうものが欲しかったから。
恭介が入院したことが大きかった。
それまでは恭介と歩美と過ごす部活と言う名の放課後のお喋りが毎日の楽しみだった。
歩美には言えないが、歩美のいない日に凝縮されたDTMも、爆発力が増した感じがあって、一層盛り上がった。
そういう毎日が恭介の入院で突然なくなった。
恭介がいなくなると、歩美との二人の時間が急に息苦しくなった。
歩美が悪いわけではない。
凛太郎が忘れていただけのことだ。
自分が人と話すことが苦手だということを。
恭介がいると、上手に話を弾ませてくれるので、凛太郎はその輪の中にいるだけで、自分も会話に参加している気になっていただけのことなのだ。
歩美との二人の将棋部はすぐに義務的なものになった。
楽しいから集まっているのではなく、将棋部だから将棋を指しているという感じに。
元来、部活動とはそういうものかもしれない。
けれど、恭介と活動していた将棋部はそういうものではない。
楽しくなければ、将棋部ではないのだ。
歩美も口には出さないが同じようなことを思っているのだろう。
だからこそ、集まっても一、二局指せば、それで何となく満足して家路につくことになる。
何かを変えたかった。
自分の中の何かを。
恭介に頼らなくても、生活に張りが出るような、自分を動かすためのエネルギーがほしかった。
将棋大会にエントリーすることが、エネルギーになるかどうかは分からなかったが、一人で将棋大会に出場するなどという大それたことは昔の自分には思い至らなかったことなのは間違いない。
出場は誰にも伝えなかった。
一人で出ることに意義があると思ったから。
ドキドキしながら受付スペースの「高校生の部」と表示のある長机に向かう。
列に並んでいる間、着ているパーカーの下に手を差し込み、中に着ているTシャツを撫でる。
凛太郎は「I LOVE HAWAII」Tシャツを着ていた。
部員のユニフォームとして使うことにしたこのTシャツ。
一人で来てはいるが、部活の代表として恥ずかしい戦いはできない。
「修明高校、奥川です」
受付に座るおじさんに名前を告げ、名簿に自分の名前があるのを確認して、無事試合に参加できることにひとまずホッとする。
対戦表と自分の登録番号が書かれた紙を受け取り、落ち着ける場所を探して会場の隅に移動する。
「凛太郎さん」
不意に声を掛けられて、「え?」と見ると、花蓮がいた。
「辛島さん!辛島さんも出るんですか?」
花蓮は首がV字の、真っ白でふわふわした感じの、思わず手触りを確認したくなるニットを着ている。
「一応エントリーしてたんです。他の部員は寒いとか面倒くさいとか言って、誰も来てくれなかったんで寂しかったんですけど、凛太郎さんに会えてよかった。来た甲斐がありました」
そんなこと言われると照れてしまう。「修明高校の他の方は?」
「うちの高校も僕だけなんです」
「そうなんですか!やった。じゃあ、今日、くっついててもいいですか?」
「え?」
くっつく?
「邪魔じゃなかったら、ご一緒させてください。心細かったんです」
「あー。そういうことですか」
本当は一人でいたい。
花蓮とは何度も喋ったことはあるが、緊張しないわけではない。
女子で緊張せずに喋ることができるのは、歩美ぐらいだ。
試合会場で余計な気を遣うのは嫌だったが、だからと言って、今さら断ることもできない。「いいですよ。辛島さん、予選リーグの一局目は何時から?」
「えっと。私は九時から、みたいです」
「あらま。僕も九時からなんですよ。会場はどこですか?」
「私はF会場です」
「え?」
凛太郎は対戦表と自分の登録番号をもう一度検める。「僕もですけど……。もしかして」
「初戦の相手って、凛太郎さんですか?」
花蓮の顔がみるみる赤くなる。
それを凛太郎は自分の顔を見ているかのように思った。
凛太郎自身も顔が熱くなるのを感じていた。
「どうやら、そうみたいですね」
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