第135話 チョコレート

「奥川先輩」

「ん?」


 病院の駐輪場に凛太郎と歩美は並べて自転車を止めた。


 歩美は自転車の籠に入れているリュックに付けたキーホルダーを見つめている。


「これって、もしかして本物じゃないですかね?」


 そのキーホルダーは恭介がハワイ土産としてくれたプラダの偽物だ。

 いや、恭介がそう言っていただけで、本物か偽物かを見分けることは、プラダを初めて見る高校生には無理なことだった。


「どうかな。でも、ハワイ自体が嘘だったもんね。ハワイの露店なら偽物のプラダも売ってそうな気がして、自然にもらっちゃったけど。だけど、本物だったら、何万円かするよね。そんな高価なものをプレゼントする理由なんてある?」

「……形見のつもりとか」

「え?」


 凛太郎はサッと顔色を変えた。


「そんなことないな。ちょっと考えすぎでした」


 ハハハ、と無理やりのように笑って、凛太郎を置き去りにして歩美は病院の玄関に向かった。


 体調が安定してきたから、遊びに来て、と恭介から誘われて、凛太郎は歩美を連れて見舞いに来たのだった。

 手術前に会っておきたいから、と言われたから、何だか少し緊張してしまう。

 歩美もそういう不安な気持ちから「形見」という発想に至ったのだろうか。


 歩美の言ったことが、凛太郎には妙にしっくりきてしまった。


 心臓の手術。

 そう聞いて、恭介も万が一の恐怖を感じていないはずがない。

 自分が死ぬ。

 そう思ったときに、人はどういう行動に出るのだろう。

 近しい人と思い出を作りたいのではないか。

 そして、友達にも、いつまでも自分のことを覚えていてほしいのではないか。


 凛太郎はキーホルダーを手に握りしめ、歩美の背中を追った。

 不意に泣きたくなってきた。

 歩美の背中は小さいが、脇目も振らずにズンズンと病院の廊下を闊歩するその姿は頼もしい感じがした。


 病室のドアの前に立ったら、目の前でドアが開いて「うわっ」と歩美が驚く。


 ドアの向こうにいた人も同じように驚いた。

 そこには白衣を着た医師らしき人と、恭介の父親がいた。


「先生、ありがとうございました」

「何も心配はいりませんから、安心して過ごすように、息子さんにおっしゃってください」


 恭介の父親は去って行く医師に深々と頭を下げてから、こちらに向き直った。


「あれ?歩美ちゃん?」

「こんにちは」

「えー。こないだと印象違うね」

「あー。あの時は泣きまくって、目がボンボンに腫れてましたからね。眼鏡だったし」

「そっか。今日はコンタクト?眼鏡より断然いいよぉ。すっごく可愛い」

「ちょ、ちょっと、お父様。そんな、そんな」

「いやー。こんな可愛い子が来るって分かってたら……」

「もう、高校生を口説くのは止めて、早く仕事行きなよ」


 部屋の奥から恭介がうんざりした顔で現れる。


「これから、お仕事なんですか?」

「そうなんだよ。仕方ない。行ってくるわ」


 恭介の父親は軽く手を挙げて、颯爽と廊下を歩いて行った。


「恭介先輩のお父様って、恭介先輩とそっくりなのに、何だか格好いいですよね」

「俺が格好悪いみたいに言うなよ」

「すねないでくださいって」


 歩美は恭介の背中をパシパシと叩く。「お元気そうじゃないですか。安心しましたよ」


「あー。急に眩暈が……」


 恭介は明らかに嘘と分かる咳をケホケホしながらベッドに入る。


「もうすぐ手術ですね」

「おい。少しオブラートに包んでくれよ。想像しただけで怖いんだから」

「これ、どうぞ」


 歩美はブレザーのポケットから取り出した白い御守りを恭介に渡す。


「何?どうしたの?」

「どうしたも何も、御守りです。私にできることってこれぐらいなんで。千羽鶴でも折ろうかと思ったんですけど、さすがに面倒なんで」

「面倒って言うな」


 恭介は少し頬を膨らませる。

 が、少し照れたように視線を落として笑った。「でも、ありがとう」


「で?どんな手術なんですか?」


 歩美はあっけらかんと訊ねる。


「お前なぁ……。歩美って、血とか内臓とか平気?」

「食べる方なら、割といけます」

「それって、もつ鍋とかホルモン焼きのことじゃねぇか」

「焼き肉でも、ハツとかハラミとか好きですよ」

「俺の心臓、食う気かよ」


 凛太郎は久しぶりに恭介と歩美が会話している様子を見て、思わず微笑んでしまう。

 この二人のやり取りはテンポが良く、見ているだけ、聞いているだけで楽しくなってくる。


「早く退院して、部活に戻ってきてくださいね」

「今は活動できてるの?」


 恭介が少し心配そうに凛太郎を見る。


「毎日、歩美ちゃんと一、二局打って終わりかな。部室にいるのは一時間ぐらい。もともと水曜日は歩美ちゃんは部活に来ないしね」

「永田さんとか反町君は来てる?」

「反町君は雨の日は来るね。それに、けっこう、強くなってきてるよ。暇があったらスマホゲームで鍛えてるみたい。永田さんは……」

「久美ちゃんは来てないです。ちょっと……、家の都合があるみたいで」


 永田さんが家の都合で将棋部に来なくなったというのは、凛太郎も初めて聞いた。

 家の都合というのは何だろう。


「永田さんって、今年になってから急に変わったよね。何だか、俺たちによそよそしくなったって言うか。それも家の都合と関係してるのかな」


 恭介が急に核心に迫り、凛太郎はトクトクと早くなる心拍を感じながら歩美を見た。

 永田さんの態度の変化はずっと凛太郎の心の大半を占めていた不安だった。

 年末までは永田さんに好かれているかもしれないという淡い期待を持っていたのだが、年が明けた途端に永田さんがあまり口もきいてくれなくなり、期待していた分、がっかりの気持ちも大きかった。


「ちょ、ちょっと、そんなに見ないでくださいよ」


 恥ずかしい、と歩美は顔を手で覆った。わざと茶化しているように見える。「ちょっと難しい問題みたいで、私もよく分からないんですよ。久美ちゃんのことで私に言えることは何もないんです」


「歩美も知らないのかぁ」

「知らないって言うか、何て言うか……。久美ちゃんも辛そうなんですよね。私も力になりたいとは思うんですけど、どうやったら力になれるかも分からないんで」


 永田さんの抱える事情は複雑そうだった。

 歩美は苦し紛れのように話題を変えた。「恭介先輩はいつ退院できるんですか?」


「今のところ順調にいけば……」


 恭介がチラッと合図を送るように凛太郎を見る。「来月中旬って言われてる」


「来月の中旬ですかぁ。まだ先ですね」

「バレンタインデーだね」


 凛太郎は胃が痛くなるのに打ち克って、親友の恭介のために何とかその言葉を発した。

 バレンタインデー。

 それは凛太郎や恭介のような陰キャな人間にはクリスマス同様に避けて通りたい、口にするのも憚られる非常に華やかな言葉だ。

 その日は火事のような騒ぎを、まさに対岸の、遠くの火事として見ない振りをし、漂ってくる煙を吸い込まないようにするようにできるだけ低い姿勢を保って放課後を目指す防災訓練のような日だ。


 だけど、今回ばかりは違う。

 凛太郎は事前に恭介に「それとなくバレンタインデーの話題にしてほしい」と頼まれていた。

 恭介は今年は絶対に歩美からチョコレートをもらいたいらしい。

 それを希望に手術を耐えるから。

 そんなこと言われたら、協力しないわけにはいかなかった。


 しかし、必死に口に出したその言葉は声が小さすぎて歩美の耳に届いていなかったようで、恭介が「もう一回」と凛太郎に向けて口を動かす。


 二回もこの言葉を口にしたら、体がもつだろうかと不安だったが、凛太郎は目をぎゅっと閉じて頑張った。


「来月の中旬って、丁度バレンタインデーじゃないですか」

「「え?」」


 自分が言おうとしていたことを、歩美が口にして凛太郎はびっくりする。

 恭介も目を見開いて歩美を見ている。


「え?じゃないですよ。バレンタインデーですよ。退院のお祝いも兼ねて私がチョコレートを用意しますから、頑張って病気に勝ってくださいね」

「お、おう」

「何ですか。私のチョコが要らないって言うんですか?」

「いや、そ、そんなことはないよ。もらう。頑張って、良くなって、退院の時にチョコもらう」


 恭介は歩美の方からチョコレートをくれると言い出して、慌てているようだ。


「あ。でも、手作りは期待しないでくださいよ」

「大丈夫。チョコなら、何でもいいよ。チロルチョコとかチョコボールで十分」


 恭介の心は凛太郎には痛いぐらい理解できた。

 どんなチョコレートか、は問題ではない。

 大事なのは女子からチョコレートをもらったという事実なのだ。


「ちょっとぉ。チョコボールだなんて、急にエロいこと言わないでくださいよ」

「どこがだよ」

「奥川先輩は……」


 急に歩美が凛太郎を見る。「私のより久美ちゃんのですね」


「何?突然……」

「大丈夫。分かってますよ。奥川先輩、久美ちゃんからチョコが欲しいでしょ?そりゃそうですよね。で、私に協力してほしいと。どうかなぁ。もらえるかなぁ。まあ、奥川先輩のお願いだから、私も精いっぱい協力はしますけど、結果がうまくいかなくても恨まないでくださいよ」


 歩美に協力してほしいとは一言も言ってない。

 が、永田さんからチョコレートをもらえたら、多分泣いてしまうぐらいに嬉しいから、もらえる可能性があるなら協力してほしい。

 結果、凛太郎は頷くしかできなかった。

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