第130話 病院の廊下の明るさ

 やけに明るい。


 廊下の蛍光灯の明るさに、凛太郎は落ち着かない気分だった。

 明るければ良いというものではない。

 特に病院の廊下は、もう少し光量が抑えられている方が適しているように思う。

 そうじゃないと、歩美が可哀そうだ。


 凛太郎と歩美は廊下の長椅子に並んで座っていた。


 歩美はずっと泣いている。

 もう、ハンカチがぐしょぐしょだ。

 自分のハンカチが濡れそぼって使い物にならなくなり、今、握りしめているのは凛太郎のハンカチだ。

 それぐらい、ずっと歩美は泣いていた。

 目が痛いからとコンタクトは外したが、涙を拭くのが忙しくて眼鏡をかけられない。


 医師、看護師、患者、見舞客。通り過ぎる人がみんな、この世の終わりのような激しい泣き方をしている歩美を見る。

 歩美はそんな視線も気になっていないぐらいの泣き方なのだが、隣にいる凛太郎は、歩美は見せ物じゃないぞ、という気になる。

 同時に、もう少しここが薄暗かったらな、と思わないではいられない。


 病室の扉が開いて、歩美はビクッと体を震わせた。


 出てきた恭介の父親が歩美の涙と鼻水だらけの顔を見て、うわっという感じで一瞬硬直する。


「これも、使う?」


 恭介の父親がスーツのポケットから取り出したグレーのハンカチを歩美は素直に受け取った。


「どうだったんでしょうか?」


 恭介にひげを生やしただけのような、恭介そっくりの恭介の父親に凛太郎は恐る恐る訊ねた。

 恭介の体にもしものことがあったら、と思うと怖くて、歩美を馬鹿にできないぐらいに泣きたくなってくる。


 恭介の父親は凛太郎の隣に腰かけた。

 凛太郎にスーツの良し悪しは分からないが、恭介の父親が着ているものはパリッとしていて光沢があって、いかにも高そうだった。

 袖から見えている腕時計がキラキラ、ゴツゴツしていて、聞いたら目玉が飛び出そうな金額のように思えた。

 とにかくお金のにおいがする。

 そういうのに大人の女性は弱いのかな。


「うん。大丈夫。今は眠っていて、容体は安定してる。君たちが、早く救急車を呼んでくれたからね。君たちは恭介の命の恩人だよ」


 命の恩人。

 その言葉に鳥肌が立った。

 知らないうちに、そんな重要人物になってしまっていたのか。

 あの時、何かを間違っていたら、恭介の命の灯は、今頃消えてしまっていたかもしれないということなのか。

 恭介が生命の危機を迎えていたことに、ゾッとする。

 命の恩人なんかになりたくない。

 もっと平々凡々と恭介との高校生活を楽しんでいたいのに。


「きょ、恭介、先輩は、ヒック、ヒック、どうなるんですか?ヒック。また、普通に、ヒック。学校に、来れるんですか?」


 ヒック、ヒック、と歩美はむせび泣きながらも、恭介の父親に訊ねた。


「恭介はしばらく入院することになる。少し安静にして体力の回復を待ちつつ、精密検査をして、今後の治療方法をお医者さんが判断する」

「そう、ですか」


 ヒック。ハァー。


 歩美は熱い息を漏らした。

 恭介の父親のハンカチも歩美の涙で黒く変色した部分が少しずつ広がっていく。

 いつ泣き止むのか、体の水分がなくなってしまうのではないか、と心配になってくる。


「手術になるんですか?」


 凛太郎の心に妙に引っ掛かる場面がある。

 それは歩美が調べてきた大会の日程を発表したとき。

 二月に個人戦の大会があると聞いて、恭介は「微妙だな」と呟いた。

 あれはどういう意味だったのだろう。

 もしかして、恭介は心臓の手術を受けるから、二月の大会には出場ができないかもしれないと思っていたのではないだろうか。


「きっと、そうだろうね」


 恭介の父親の表情にはにこやかさがあった。


「何だか……」


 言って良いのか迷ったが、次の瞬間には口から出ていた。「落ち着いてますよね」


 やっぱり、高校生が大人に対して言う言葉ではなかった。

 自分が発した言葉が、自分の耳でさえ不遜に響いたのだから、恭介の父親は間違いなく失礼な奴だと思ったことだろう。

 だけど、自分の息子が心臓の発作で病院に運ばれて、万が一の時は今頃生きていなかったかもしれないというのに、恭介の父親はどこか他人事を話しているような、淡々とした雰囲気なのが、凛太郎にはどこか違和感があって受け入れられないのだ。


「まあ、焦っても仕方ないから」

「それは、そうですけど」

「手術は恭介も承知してるんだ」

「え?喋れたんですか?」

「いや。少し前にそう決めたんだ」

「少し前?」


「久美ちゃん……」


 突然、隣に座っていた歩美が立ち上がった。


 見ると、制服のブレザーにコートを羽織った永田さんが息を切らして肩を上下させて立っていた。


「歩美」

「久美ちゃん!」


 歩美は永田さんの胸に飛び込んでいった。


 永田さんは歩美を抱き留めて、歩美の耳元で何かを囁いた。

 歩美が小さく頷いている。


 かっわいいなぁ。


 恭介の父親は永田さんを見て、小さな声で確かにそう言った。


「いつ、決まったんですか?」


 凛太郎は再度問いかけた。


「え?」

「恭介君が手術をするのが決まったのは、いつなんですか?」

「元旦だよ。とんでもない年末年始だったなぁ」

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