第129話 恭介の異変

 翌日は良く晴れてはいるが、ゴーゴーと北風の冷たい寒い日だった。


 凛太郎にできるのは、時折目の端で永田さんの様子を確認することだけだったが、クラスメイトと談笑する永田さんや、授業に集中してノートをとる永田さんや、体育中に巨乳を揺らしてマット運動をする永田さんは、いつもの永田さんだった。

 凛太郎や恭介に話しかけてこないのも、いつもと言えば、いつものことだ。


 結局、昨日の涙は何だったのか。

 いくら考えても答えを見つけられない凛太郎と恭介は妄想エロ話に興じる雰囲気にもならず、ただダラダラと水曜日の部室での時間を過ごした。


 木曜日も晴天だった。

 この日は風がない分、過ごしやすかったが、寒さは変わらず厳しかった。


 しかし、永田さんはいつもの永田さんで、あの涙は幻だったのではないかと自分の見たものが信じられない気がしてくるほどだった。


 こうなってくると、今日晴れていることに、ホッとする思いだった。

 雨が降って、永田さんが将棋部に来た時に、どういう態度で接したら良いのか分からないから。

 凛太郎は永田さんのことが急に分からなくなった。

 元々、何も分かっていなかっただけかもしれないが。


 歩美と話すことも怖い気がした。

 先に恭介と部室に入り、平気な顔で恭介と雑談をしながらも、凛太郎は歩美がいつ来るのかとびくびくしていた。


 歩美は永田さんと話したのだろうか。

 永田さんの涙の理由を教えてもらったのだろうか。

 それは自分に関することなのだろうか。


 凛太郎はそこまで考えて、永田さんが自分に関することで涙を流したかどうかを知ることが何故怖いのか、改めて思い至った。

 やはり、自分は永田さんのことが好きなのだ。

 反町的に言えばライクではなく、ラブ。

 だから、自分がどう思われているかが怖いぐらいに気になるのだ。

 何故、永田さんが自分に関することで泣いたと思うのか。

 それは永田さんが涙を流す寸前に、永田さんと目が合った気がするから。

 だからこそ、永田さんが泣いた理由が気になって仕方ない。


「将棋する?」


 恭介に言われて、それもそうだなと思った。

 ここは将棋部の部室なのだから、将棋をしているのが一番平静でいられる。


 だから、やがて歩美が部室にやって来ても、凛太郎の心にあまり波風は立たなかった。

 局面は凛太郎有利で、しっかり考えれば詰みまで見えそうな状況だ。


 歩美はいつも通りの感じで背負っていたリュックを机の上に放り投げ、恭介の横に座って、楽しそうに盤面を覗き込む。


「恭介先輩。不利ですねぇ」

「うるさいなぁ。……分かってるよ」

「これ、終わったら、奥川先輩、私としてくださいね。あ。私、今何か、やらしい言い回ししちゃいましたね」


 そう言って歩美は高らかに笑った。


「おっさんみたいなこと、……言うなって」


 恭介が本気で顔をしかめる。


「恭介先輩。怖い顔しないでくださいよ。やきもちですかぁ?」

「いや、……ちょっと。胸が、……苦しい」


 恭介は胸のあたりの服を握りしめ、ギュッと瞼を閉じる。


「やっぱり、やきもちじゃないですかぁ。分かりました。私、恭介先輩としますよ」


 そう言って笑う歩美に恭介がゆっくりもたれていく。


 それが凛太郎にはスローモーションのように見えた。


 笑っている歩美の太ももの上に恭介の丸い体が横倒しになる。


「キャッ」


 歩美は反射的に自分の口元を手で覆う。


 恭介の体は歩美の太ももでは止まらず、そのまま床に落ちていく。

 ゴツンと恭介の頭が床にぶつかる鈍い音が響く。

 恭介の眼鏡が教室の隅に転がって行った。


「恭介君!」


 凛太郎は思わず立ち上がって机の反対側に走った。「恭介君!大丈夫?」


 恭介は胸を手で押さえたまま、「ウゥ」と唸るだけだ。

 顔が土気色になっている。

 苦しそうに皺が刻まれた額に汗が浮かんでいる。


「恭介先輩?恭介先輩!どうしたんですか!」

「歩美ちゃん、職員室!誰か先生、それから、救急車呼んで!」


 凛太郎は今まで出したことのないほどの大きな声で叫んでいた。


 歩美は座っていた椅子を蹴飛ばして、部室を走り出て行った。

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