第128話 反町の嫉妬

 歩美はなかなか戻ってこない。


 部室に残った男三人は何をするともなく、窓の外を見つめていた。


 遠くで雷が鳴っていて、冬には不釣り合いなほど強い雨が窓を叩いている。


「ほんと、どうしたんだろ」


 反町は後頭部の後ろで手を組み、背もたれに背中を預けた。「久美ちゃんが泣いてるの、初めて見たわ」


「反町君。訊いていい?」


 恭介が机に頬杖を突きながら、反町の方に顔を向ける。


「ん?何?」

「反町君って、永田さんと昔からの知り合いなの?」

「ああ。小さい頃、同じピアノ教室に通ってたんだ。俺、こう見えて、小学二年から六年まで、みっちりピアノやってたんだぜ。久美ちゃんは幼稚園の頃からやってて、どうやっても追いつけなかったけど」

「へぇ」

「だから、この中で俺が一番昔から久美ちゃんのこと知ってることになるな」

「違う」


 凛太郎は思わず否定していた。反町の言葉にムッとしてしまったのだ。「僕は小学校一年の時、永田さんと同じクラスだった」


 口にしてから、自分の言葉に、だから何だ、と心の中で突っ込んでしまう。

 あの頃、ろくに会話をしたこともなかったのに。


「嘘?」


 恭介が驚いた顔で見てくるから、凛太郎は目を伏せる。「何で、黙ってたの?」


「いや。黙ってたって言うか、言う機会がなかったって言うか……」

「君は久美ちゃんの涙を見たことある?」


 反町に訊かれて、凛太郎は首を大きく横に振った。


「ない」

「ないよなぁ。久美ちゃんはピアノ、いつも完璧だったんだ。家で、ものすごく練習してたと思うよ。発表会でミスしたことなんて見たことないし、緊張する素振りすら見せたことがなかった。控室でも泰然としてて、そのままステージに立って、練習通り何事もなくピアノを弾いて、落ち着いた様子で一礼して舞台袖まで帰ってくる。特別な日でも、普通にやってのける。だから、失敗して悔し泣きをするってこともなければ、成功したからと言って、嬉し泣きをするわけでもない。そういう感じだった」


 あの久美ちゃんがなぁ、と反町は何度もそう呟く。


「反町君ってさ」


 また恭介が反町に質問をする。


「ん?」

「永田さんのこと、好きなの?」


 気持ち良いぐらいの直球。

 反町に投げられたボールだけれど、凛太郎は自分が射貫かれたような痛みを胸に感じた。

 反射的に耳を塞ぎたくなった。

 だけど、反町の気持ちをしっかり聞いておきたい自分もいた。


「好きだよ」


 反町はきれいに打ち返した。

 まるで、そう訊ねられることを知っていたかのように即答だった。

 反町から発せられた「好きだよ」の四文字は凛太郎が耳にしたどんな言葉よりも美しく響いた気がした。

 人はこんなに素直に誰かへの好意を口にすることができるのか。

 それはまるでどこまでも透き通った、吸い込まれそうな青空のように混じりけがなく清々しくて、気持ち良さすらあった。


「付き合いたいってこと?」

「そりゃ、好きだからね。できることなら、そうなりたいわな」


 さすがにこれを聞くと、清々しくて気持ち良い、では終われない。

 急に凛太郎の心に濃い靄が立ち込める。

 永田さんの心につながっていると思っていた橋の足場がぐらぐら揺れていて、立っていられない不安に駆られる。


「檜山さんは?」


 今日の恭介はまるでキナコのようにグイグイ突進する。


「ん?」

「檜山さんのこと、好きじゃないの?」

「ああ。好きだよ」

「何だよ、それ。じゃあ、歩美は?」

「もちろん。あの子のことも好きだよ。衝突するけど、好きだな。そこは程度の問題ってことで」

「どうゆうこと?」

「ニュアンスを伝えるのは難しいけど、ラブとライクの違いのようなもんかな」

「分かるような、分からないような……」


 恭介は難しい顔で腕を組んだ。「じゃあ、檜山さんに告白されたらどうするの?檜山さんは反町君のこと、好きなんだと思うよ。俺が思うぐらいだから、反町君も気付いてるでしょ?」


 恭介にそう訊かれて、反町は顎を撫でた。

 反町が困った顔をするのを初めて見た気がする。


「そうなんだろうな。でも、まあ、そんなの関係ないよ。檜山が俺のことを好きか嫌いかは、檜山の問題だからさ」


 冷たい。

 そう思ったのは一瞬だった。

 反町の言葉に温度はない。

 あるのは透明度だった。

 反町はどこまでも透き通っている。


 雨脚がさらに強くなって、窓の外は滝のようだ。


「どうして、そんなに自分本位になれるの?」


 凛太郎はずっと反町に訊いてみたいと思っていたことを口にした。


 何を食べて、何を読んだらそういう無敵な考え方になるのか。

 凛太郎は周りがどう思うか、何を考えているのかをいつも気にして、大きな流れの邪魔や害にならないように立ち居振舞うように生きてきた。

 我ながら疲れる生き方だと理解している。

 だけど、身に染みたその生き方を捨てる方がさらに疲れるだろうということも思うのだ。


 反町は「部長」と助けを求めるように恭介を見る。


「今、俺は彼に怒られてるのかな」

「たろちゃんを怒らせたら怖いよー」


 恭介が面白がっているように見える。「たろちゃんは自分本位な奴が一番嫌いだからね」


「ご、ごめん。怒ってるんでもなければ、否定したいわけでもないんだよ。逆なんだ。反町君みたいに、そういう裸の気持ちを素直に周囲の人間に吐き出すことができたら、疲れないだろうな、羨ましいなって。そういう強くて周りに流されない生き方を少しでも真似できないかなって思って」


 これだけを口にするのも凛太郎には勇気が必要だった。

 自分の思いを、どうやったら反町を嫌な気持ちにさせずに理解してもらえるか、考えて、考えて言葉を紡いだ。


「あのさぁ」


 反町は呆れたように肩をすくめる。「それは君の勝手な評価でしょ」


「え?そうかな」


 凛太郎は仲間を求めて恭介を見た。


「俺にもそう見えてるよ。俺やたろちゃんと反町君は人種が違うって言うかさ。反町君はずっと日の当たる場所を生きてきた華やかな前向きさとか積極性があるもん」

「そうやって、俺のことを能天気な馬鹿みたいに言うけどさ」

「いや。馬鹿だとは言ってないよ」


 今度は恭介が「ねぇ」と凛太郎に同意を求める。


 凛太郎はうんうんと頷く。


「悩みなさそうとか思ってるんでしょ?」

「あるの?」


 凛太郎にはとてもそんな風には思えない。


「あるさ。ありまくりだよ。悩みがない奴なんていないだろ」

「意外」


 恭介が笑う。

 しかし、反町にギロッと睨まれて、笑ったまま硬直する。


「君らが毎日どれだけ疲れてるかは知らないけどさ、俺だって人知れず疲れてるんだ。前向きとか積極的とか思われてるのは分かってるけど、俺も俺なりに考えて言葉を発してるわけ。考えた上で、俺にはこうしか言えないってことなの。俺はこういう性格の人間で、簡単には変えられない。それは君たちが急に俺みたいな言動ができないのと同じこと。どっちが優れてるとかじゃない。俺の性格がいい面もあるだろうけど、逆のこともある。だって、事実、俺は君に嫉妬してるんだからね」

「え?僕に?」


 今、反町は恭介ではなく、凛太郎の方を向いて「君に嫉妬してる」と言った、ように見えた。

 反町が自分に嫉妬する意味が凛太郎には全く分からない。


 反町は凛太郎の問いには答えず、「俺、帰るわ」と言って、スポーツバッグを肩に担いだ。


「今?雨、すごいよ」


 恭介が窓の外を指差す。


「ちょっと、雨に降られたい気分なんだよ」


 振り返ることのない反町の俯いた背中は彼には不似合いなほど暗く小さく重そうに見えた。

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