第126話 コンタクトデビュー
「明けまして、おめでとうございます」
永田さんが教室に入ってきたのを見つけて、凛太郎は自分から新年の挨拶をした。
会うのは去年のクリスマスイブ以来。
あの時、永田さんとの距離はだいぶ縮まった手応えがある。
恭介の見立てでは、永田さんのゲージはマックスらしい。
だとすれば新年の挨拶ぐらい、自分からしても罰は当たらないだろう。
そう思って、勇気を振り絞ったのだ。
冬休みの間、永田さんからLINEが一度も来なかったのは気がかりだったけれど。
「あ。おめでとう」
永田さんは凛太郎にまともに目を合わせることなく、小さな声で一言だけ残してスッと離れて行った。
嘘。
思わず、口の中で呟いていた。
こんな寂しいやり取りで終わるとは……。
永田さん、体調悪いのかな。
そう思って、目だけで永田さんの背中を追うと、やはりどことなく全身からマイナスの雰囲気が出ているような気がする。
今日は三学期開始の日。
新年の浮かれ気分が一気に冷えて、すがるように恭介の席を見る。
一部始終を見られていたら、恥ずかしいけれど、こういう時に慰めてくれるのは彼しかいない。
そう思ったのだが、恭介はまだ登校していなかった。
どうしたのかな。
凛太郎も恭介も早すぎず、遅すぎず、生徒が大勢登校する時間帯にさりげなく教室に入り、目立たず授業開始までの時間を過ごすことを是としている。
ギリギリに慌てて教室に駆け込むという、衆目を集めるような行動は絶対にしない。
しかし、今、時刻はホームルームまであと三分を切っている。
おかしい。
前にもこういうことがあった。
当時の義母の不倫を見つけてしまって、精神的にやられていたときだ。
そう思い至ったとき、一昨日会った恭介の体調を崩した様子が脳裏に浮かぶ。
まだ調子が戻っていないのだろうか。
慌てて鞄からスマホを取り出すと、恭介からLINEが届いていた。
【ちょっと風邪気味だから、休むわ。部活行けなくて、ごめん】
一昨日は、熱中症になったと言っていた。
そして、今度は風邪。
確かに真冬の日本から常夏のハワイに行って、そしてまた極寒の日本に帰ってきたら、その気温差だけでも体調の維持は難しいだろう。
その上、恭介は熱中症で免疫力が低下していただろうから、風邪をひきやすかったのかもしれない。
【大丈夫?ご飯どうしてるの?帰りに何か買って行こうか?】
【ノー問題。我が家にはレトルト食品の在庫が豊富にあるのだ。下手にうちに来るとうつっちゃうよ】
すぐに反応が返ってきて、凛太郎はホッとした。
前回は凛太郎の知らないところで失恋という深手を負っていたのだが、今回はそういうわけではなさそうだ。
凛太郎は少し安心して、その日の授業をこなし、放課後に部室に向かった。
部室のドアを開け、「あ。ごめんなさい」と慌てて閉める。
中に見知らぬ女子生徒が座っていたからだ。
一歩下がって、ドアの周囲を眺める。
階を間違ったかと思ったが、ここは紛れもなく将棋部の部室だ。
隣の音楽室からはブラスバンド部のプゥワーという管楽器の音が聞こえてくる。
となると、先ほどの女子生徒は誰なのか。
もしかしたら、彼女の方が部屋を間違えているのかもしれない。
だとしても、こちらから話しかけて誤りを正すということはシャイな凛太郎にはできない。
凛太郎はドアに背を向けて廊下の窓から空を見上げた。
待っていれば、すぐに歩美が来るだろう。
歩美に中の人に事情を訊いてもらえば良い。
我ながら、名案だった。
「先輩。奥川先輩」
背後から歩美に声を掛けられる。
もう来たのか。
喜んで振り返ると、さきほどの女子がいた。「何やってるんですか?」
その女子が歩美の声を発していた。
「あ?あれ?歩美ちゃん?」
よく見ると、それは確かに歩美だった。
しかし、トレードマークの眼鏡を掛けていない。「め、眼鏡どうしたの?」
「コンタクトですよ。コンタクト」
歩美はニッと笑って部室の中に入って行く。「びっくりし過ぎですよ」
凛太郎は狐につままれたようなふわふわした気持ちで歩美について行く。
「コンタクト?何で?」
思わず、そう訊いてから、しまったと思った。
そんな踏み込んだことを訊いてしまって良いのか。
普段の慎重な凛太郎ならそんな質問は口にしない。
それを思わず訊いてしまったのは……。
きっと、コンタクトが似合っているからだ。
正直言って、歩美は可愛くなった。
コンタクトにしたからか、まつげがクリンとしているからか、目が大きくなったような気がする。
少年っぽさが消えて、あか抜けた感じがある。
そんなこと恥ずかしくて言えないが。
「奥川先輩ったらぁ、女子がぁ、コンタクトデビューした理由、訊くんですかぁ?」
両手をお尻の方に回し、体をゆっくりくねらせ、舌足らずのすねた感じで唇を尖らせる歩美。
「ご、ごめん」
これは、苦手な奴だ。
凛太郎の胸の中で警報が鳴っている。
迂闊にも恋愛の領域に足を踏み入れてしまったようだ。
困った表情をする凛太郎を見て、歩美は吹き出して笑った。
「奥川先輩は本当に予想通りのリアクションをしますよね」
「ごめん」
何で謝るんですか、と言いながら、歩美は椅子に腰を下ろした。
「秋に出た大会の時に久美ちゃんに言われたんですよ」
凛太郎も歩美の向い側に座る。
「永田さんに?コンタクトにしろって?」
「そんな、直接的には言わないですよ。試合中に眼鏡を取ったり掛けたり、何度も足を組みかえたり、将棋に集中できてない、って注意されたんです。その時、思ったんです」
「コンタクトにしようって?」
永田さんが言いたかったのは、色仕掛けのつもりが、色仕掛けになっていないから、そういう無駄なことはやめて将棋に集中しなさいってことだと思うのだけれど。
「ちょっと、違いますね」
「違うの?」
「そうだ!コンタクトにしよう!って感じですね。まさに、ひらめいたって感じです」
「あまり違いが分からないんだけど」
「とにかく、コンタクトにすれば、眼鏡を取ったり掛けたりしなくて済むんで、そっちの方がいいんだろうなって」
「そ、そう……」
「恭介先輩、遅いなぁ。恭介先輩がどういうリアクションするか楽しみなんですよね」
歩美は腕を組んでニヤニヤする。
「あ。恭介君は今日、休みだよ」
凛太郎は恭介が風邪気味で学校を休んだことを歩美に伝えた。
「恭介先輩、大丈夫ですかね」
歩美は表情を曇らせ、がっくり肩を落として呟いた。「最近、体調崩してばっかり。こういう時、お母さんがいないと、きっと大変ですよね」
「僕も、そう思う。恭介君のお父さんはTKKだし」
「何です?TKK?」
「多忙な公認会計士の略」
「へぇ。奥川先輩がそんなつまんないこと言うとは驚きです」
「恭介君がそう言ってたんだ」
「それ、言いそう。目に浮かびます」
やっと少し歩美が笑う。
「心配だったから、ご飯どうしてるのか、LINEで訊いたんだけど、レトルトがいっぱいあるから問題ないし、風邪をうつしたくないから来ないでいいって」
「そうですか。最近のレトルトって栄養価も高いし、味も美味しいですもんね。私たちの出る幕は、ちょっとないかなぁ」
いや。
ここは歩美が何かしてくれたら、恭介も元気が出るのではないか。
「眼鏡を外した歩美ちゃんの写真撮ってもいい?それ送ったら恭介君、元気になるかも」
「えー。私の写真なんかで元気になりますかね」
「なると思うよ」
凛太郎でさえ、歩美が可愛くなったと思ったのだ。
歩美のことが好きな恭介なら、絶対に気に入ると思う。
「生でコンタクトデビューのリアクション見たい気もするんですけどねー」
「そっか。まあ、そうだよね」
「どう思います?」
「何を?」
「コンタクトですよ。私、可愛くなりました?」
「めっちゃ、剛速球投げてくるね」
そんなこと、良く直接訊けるな。
「だって……。可愛くなってないなら、写真送っても、恭介先輩、元気にならないじゃないですか」
それは……、歩美の気持ちも分からないではない。
「か、か、か……」
でも、可愛くなった、とはやっぱり恥ずかしくて言えない。
「じゃあ、三択で。一番は……」
埒が明かないと思ったのか、歩美は象徴的に人差し指を立てる。「別人かと思うほど、めっちゃ可愛くなった。二番、可愛くなった。三番、眼鏡よりはまし。だと、何番ですか?」
歩美の選択肢には、眼鏡の方が可愛かった、はないのか。
そういう意味では、歩美なりにコンタクトの自分に手応えがあるのだろう。
「えー。ちょっと、困ったなぁ」
一番と言ってあげたい。
ドアを開けたとき、本当に誰だか分らなかったのだから、二番よりも一番だ。
だけど、めっちゃ可愛くなった、なんて言葉をこれまでの人生で発したことがない。
ガラガラガラ。
凛太郎の背後のドアが前触れもなく開いて、驚いて振り返る。
「ほら、先輩。見てくださいよ!」
「おおー。本当だ!」
騒々しく入ってきたのはひかると、反町だった。「確かに、めっちゃ可愛くなったな。別人みたいだ」
「ね。言ったとおりでしょ」
「ああ。女って化けるな」
「さっ、部活に帰りましょ」
じゃね。
じゃあな。
ひかると反町は軽い感じで手を振ってドアから出て行った。
どうやらひかるが反町に、歩美がコンタクトにして見違えるほど可愛くなったと伝えたのだろう。
それで二人でサッカー部の活動の合間に確認しに来ただけのようだ。
んんー、と歩美は腕を天井に伸ばして伸びをする。
「撮られちゃおっかなぁ」
何やら、歩美の決心がついたようだ。
その後、凛太郎は何枚も歩美の写真を撮り、歩美が自ら選りすぐった一枚(ウルウルした上目遣いで甘えたような笑顔のもの)と、先ほど歩美が挙げた三つの選択肢から、どれか一つを選ぶようにというメッセージを送った。
秒で返ってきた恭介の返事を見たときの歩美の自然にこぼれた笑顔こそ写真に撮って恭介に送ってあげたかった。
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