第122話 一時間半でできること
火照りと疲労。
凛太郎は自転車置き場のすぐ近くの植え込みに腰を下ろしていた。
このまま家に帰って、どこ行ってきた、何してきたと麻実に絡まれると鬱陶しいので時間を潰している。
時折強い北風が冷たく吹き抜けるのだが、内側から湧き起こる熱に体が麻痺していて寒さを感じない。
これは、また体調を壊すかもしれないという悪い予感がある。
ただ、間違いないのはクリスマスパーチーが楽し過ぎたということ。
あれだけ楽しい思い出ができたのだから、しばらく寝込んでも仕方ないかとも思う。
火照りが覚めるまで一人で余韻に浸っていたいという思いも、ここに座っている大きな理由だ。
とにかく永田さんが可愛かった。
楽しさに理由を求めればそこに行きつく。
目を閉じれば、今日の色々な永田さんの姿が浮かんで、思わず「はぁー」と息が漏れてしまう。
永田さんに握られた時の手の柔らかさ、温かさと言ったら……。
凛太郎は周囲に目をやって、誰もいないことを確認してから、手を自分の鼻の前に持ってきて、大きく息を吸いこんだ。
そんなことないはずだが、永田さんの匂いがするような気がする。
「はぁー、たまらん」
それにしても、いよいよ寒くなってきた。
火照りは治まってきて、疲労だけが体に残っている。
凛太郎は家に入ることにした。
よく考えたら、麻実がいるとは限らない。
専門学校に行くと決めた麻実はバイトに明け暮れていて、今日も仕事をしている可能性が高い。
そう思うとさっさと暖かい部屋に入りたい気持ちが強くなってくる。
階段を駆け上がり、鍵を開けて、玄関に入ると、見慣れない女物の靴があった。
やばい、と思った。
誰か知らない人が家にいる。
凛太郎は戦地で銃撃を避けるように安全地帯を求めて自分の部屋の中に飛び込んだ。
「え?」
凛太郎は自分の目を疑った。
凛太郎のベッドの上に人間が二人倒れているのだ。
いや、眠っている。
一人は麻実。
そして、もう一人は花蓮だった。
淡いブラウンのアンサンブルにデニム生地のロングスカート。
花蓮の私服は初めて見たが、花蓮っぽい落ち着いた色合いだ。
ただ、スカートが膝の高さまでスリットが入っていて、そこから覗くふくらはぎが少し色っぽい。
制服では常にふくらはぎは見えているのに、なぜスリットから見えるとドキドキしてしまうのだろう。
戦地から逃れるつもりが、自分から激戦地に飛び込んでしまった。
凛太郎は息を殺して、そっと部屋を出ようとしたが、パッと目を覚ました花蓮と視線がぶつかった。
「キャッ。あっ!」
花蓮が慌てて眼鏡を直しながら起き上がる。
「んー。どうしたのぉ?」
麻実が寝ぼけながら、指で目をこする。「あ。凛ちゃん。お帰りぃ」
駄目だ。
もう戦うしかない。
「ちょっと。何でこんなところで、寝てるんだよ」
「だって。凛ちゃんがなかなか帰ってこないから。部屋を暖かくしておけば寒い外から帰ってきたときに凛ちゃんが喜ぶだろうなって思って、それで待ってたら、いつの間にか眠っちゃってて」
「何だよ、それ」
不貞腐れた顔をしてみるが、「喜ぶだろうなって思って」と言われると、あまり強く言えない。
「す、すいません。人様のお部屋で眠ってしまうなんて……。本当に、申し開きのしようがありません」
花蓮は顔を真っ赤にして、ベッドの上に正座してペコペコと頭を下げる。
「あ。いや。まあ……別に怒ってるわけじゃないんですけどね」
「何かさぁ。このベッド、落ち着くんだよね。何でだろ。布団の柔らかさかな。それとも、凛ちゃんのにおいかな」
麻実が布団をクンクンする。
「やめろって」
自分のベッドのにおいを嗅がれるのは、かなり恥ずかしい。
「凛ちゃんもおいで。三人で寝よ」
「寝れるか!」
頭がおかしいのか、この姉は。
「遠慮しないの。花蓮ちゃんと挟んで添い寝してあげるよ。クリスマスプレゼントだと思って……」
そこで、麻実が目を見開く。「そうだった。ケーキ。ケーキ」
麻実はベッドから飛び降りて、部屋を出て行く。
花蓮も「失礼します」と凛太郎の前を通って、麻実の後をついて行った。
「凛ちゃん、こっちにおいでぇ」
麻実がリビングで呼んでいる。
「何?」
部屋でゆっくりとクリスマスパーチーの出来事を反すうしたかったのに。
やっぱり、麻実がいるとこうなるな、とがっくり項垂れながら、凛太郎はリビングに向かう。
「じゃーん」
麻実がダイニングテーブルの上のケーキに向かって掌をひらひらさせる。
オーソドックスなイチゴのケーキが四分の一カットの大きさで皿の上に載っている。「これ、わざわざ花蓮ちゃんが作ってきてくれたんだよ」
「へぇ。お上手ですね」
お世辞ではなかった。
言われなければ、お店で買ってきたものと思っていただろう。
永田さんのベイクドチーズケーキにも勝るとも劣らない。
「いや。そんな、滅相もないです」
花蓮がまた照れて耳まで赤くしてもじもじする。
「食べて、食べて。美味しいんだよ。美味し過ぎて、本当は凛ちゃんに半分残しておく予定が、四分の一になってしまった」
麻実が満足そうに自分のお腹をポンと叩く。「あ。そうか。お腹いっぱいになって眠くなったんだ」
赤ちゃんか。
そう言いかけたとき、凛太郎のズボンのお尻のポケットでスマホがブンブン鳴った。
「何?女?」
麻実が腕組みして睨んでくる。
「変な言い方するなよ」
凛太郎はサッと着席してフォークを握った。
確かに、永田さんなり、歩美なり、女子からのLINEである可能性はある。
それを麻実に見つかると面倒だ。「食べていいの?」
「お口に合うか分からないんですけど……」
花蓮はマグカップに紅茶を作って、凛太郎に出してくれた。
「いただきます」
そして、一口頬張る。
「どう?美味しいでしょ」
何故か麻実が自慢げなのだが、麻実が言う通り、美味しかった。
「美味しい」
スポンジの部分も柔らかくふわふわで、クリームの甘さとイチゴの酸味がとても相性が良い。
永田さんのチーズケーキとはまた違った、いかにもクリスマスっぽい華やかな美味しさ。
お腹が空いているわけではないが、ペロリと食べてしまえそうだ。
それにしても、一日に二回も女子の手作りのケーキを食べられるとは、盆と正月が一緒に来たような感じだ。
これがクリスマスというものなのか。
去年までの自分からは想像もできないような展開が起きている。
正直怖い。
この先、何かとんでもなく悪いことが起こりそうな気がする。
そこでまた凛太郎のスマホが震えた。
すると、麻実が俊敏な動きで凛太郎のポケットからスマホを抜き取った。
「あっ!ちょっと!」
「何だ、恭介君か」
安心したように麻実がスマホをテーブルの上に置く。
恭介と聞いて、凛太郎も内心で胸を撫で下ろす。
しかし、またスマホがブルブル震える。
「何回もどうしたんだろ」
そう思って、LINEを開いて、凛太郎は思わず「あっ!」と声を上げてしまった。
恭介から送られてきていたのは【(T_T)】、【王様ゲームで……】というメッセージと、写真だった。
写真は反町と歩美がポッキーの両端をくわえているものだった。
「楽しそうな写真じゃん」
気づいた時には麻実が背後にいた。
慌ててスマホの画面を消す。
「覗くなよ!」
「何、凛ちゃん。さっきまで、そんな楽しそうなことしてたの?」
麻実の目が爛々と輝く。
「いや……してない」
永田さんとポッキーを食べさせ合ったことが鮮明に思い出されて、顔からボッと火を噴きそうになる。
「ふーん。まあ、ここはせっかくなんで、花蓮ちゃんに、あーん、してもらったら?」
「何でそうなる」
「ね。花蓮ちゃん、お願い。女っ気のない弟のために、あーん、してあげて」
麻実が手を擦り合わせて、花蓮に懇願する。
「勝手にお願いするなって」
そんな恥ずかしいこと、できっこない。
「はい。私でよろしければ」
何で花蓮は二つ返事で了承できるのだろう。
麻実に何か弱みを握られているのか。
「じゃあ、早速」
麻実はどこからともなくフォークを取り出して、花蓮に渡す。花蓮は受け取ったフォークでケーキを取り、駒を打つようなよどみのない動きで凛太郎の口の前に差し出した。
「どうぞ」
「えっと……」
困惑しかない。
凛太郎は予想もしない手で一気に玉が窮地に追い込まれたような気分だった。
「凛ちゃん。女子にこんなことさせて、食べない気?ここで食べなかったら花蓮ちゃんは傷つくよ」
花蓮を見ると、「お願いします」と小さく頷く。
こうなると、もう食べないわけにいかない。
凛太郎は大きく口を開けて、ギュッと目を閉じる。
口の中にケーキが差し込まれる。
カシャ
音の方を見ると、麻実がスマホをこちらに向けていた。
写真を撮られたのだ。
「んー!」
「決定的瞬間を激写したわ」
麻実が悪い顔で笑っていて、凛太郎は背筋がゾクッと震えるのを感じた。「私はこれで、バイトに行くから。後はお二人で楽しんで」
じゃ、と麻実は自分の部屋に戻って行った。
麻実がいなくなると途端に静かになる。
紅茶を飲んでいると、麻実の部屋のドアが開いて、また騒々しく麻実が駆け寄ってくる。
「凛ちゃん。花蓮ちゃん。母は六時半ごろまで帰ってこないから、……あと一時間半かぁ。できることを手際よくね」
足早に麻実が出て行くと、花蓮がゴクリとつばを飲み込んだ音がした。
「できることを手際よく……」
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