第116話 賢者タイム
「たろちゃん」
将棋も終盤に差し掛かり、凛太郎の敗勢の色合いが濃くなっている。
今日の恭介はいつになく強い。
冷静で鋭い指し回しだ。
「ん?」
今日は水曜日。
つまり、部室には凛太郎と恭介の二人だけ。
窓の外からは柔らかい晩秋の日差しが心地よい。
風のない穏やかな放課後。
運動部の掛け声と、吹奏楽部の部員が個別に楽器の練習をしている音が錯綜している。
決して美しくはない音の重なり合いだが、妙に落ち着くのは、この部室が相対的に静かで、他から隔絶されていると感じられるからだろうか。
「トイレで四丸ってしたことある?」
恭介のこんな発言も凛太郎は驚かない。
水曜日の晴れ渡った放課後。
凛太郎と恭介の二人だけの狭い部室は天変地異でも起こらない限り侵されることがない安心感がある。
恭介が何も言い出さずに終わるわけがない。
「ないなぁ」
「じゃあ、お風呂では?」
「お風呂はある」
淡々と駒を動かし続ける。
手が止まると、何を喋っているのかと恥ずかしさが込み上げてくる。
脳の大部分は将棋に集中させ、駒の動きに乗せて、意識の上層だけで言葉のキャッチボールを行う。
そういう技術を二人は手に入れている。
「シャワーをあそこに当てるのって気持ちいいよね」
「不意に当たっちゃうこともあって、ね」
「そうそう。そういうきっかけで急に劣情に心が支配されることってあるよね。さっきもそうだった」
「さっき?」
急に話題が近距離になって、凛太郎の手が一瞬止まる。
駄目だ。
こんなことでうろたえてしまっては。
これも、恭介の作戦かもしれない。
「さっき、タブレット渡したじゃん」
エロ動画の格納されたタブレットを恭介から借りることはしばしばだ。
「うん」
「あのとき、急に動画のワンシーンを思い出しちゃってさ」
「それで、急に劣情に心が支配されたと」
「で、トイレに行って」
「え?それが、四丸につながるわけ?」
「まあ、そういうこと」
つまり、恭介はこの対局を始める前に、「ちょっと、トイレ」と行って出て行ったのだが、それはオナニーが目的だったというわけだ。
現在対局している相手はついさきほど、射精をしたばかり。
だから何だということもないのだが、改めてそれを知ると、何となく汚らわしい感じがする。
恭介がトイレから帰ってきたとき、濡れた手をハンカチで拭いていたから、彼が手を洗ったのは間違いないのだが。
「そんな話、聞かせてくれなくても良かったんだけど」
まさにこれに尽きる。
今日の恭介の指し回しが妙に鋭いのは四丸を終えた直後で、すっきりしているからなのかもしれない。
「いやいや。俺が言いたいことは、四丸の報告じゃなくてさ」
「ほう」
「個室に入って、洋式トイレの便器に向かって四丸をすると、当然、その便器に向かって出すわけじゃん」
「そりゃ、そのためにそこに行ったんだもんね」
「でさ。やっぱり、水は流すでしょ。出したのは便ではないけれど」
「そりゃ、公共のトイレだからね。次に使うのが僕だったら、やっぱり、水は流しておいてほしい」
「その時に、思ったんだ。精子と便は同じ扱いになるのかって」
「んー。この場合、そうなるね」
「精子ってとっても大切なものだよね。人間の命のつながりには欠かせない。ある意味、俺の分身でもある。対して、便は基本的には俺の体の中の不要なものでしかない。どちらも体外に排出されるものだけど、その意味合いは全く違う。なのに、俺は精子と便を同じ扱いにしてしまった」
恭介は大げさに頭を抱える。
「でも、トイレじゃなくて、家の自分の部屋でなら、ティッシュに出してゴミ箱に捨てるわけで。それって鼻水と同じ扱いをしてるってことになる」
「俺はこれまで自分の分身とも言えるものをぞんざいに扱ってきたなって痛感したよ」
「でも、丁重に扱うって言ったって、なかなか難しいよ」
「俺は見ちゃったんだよ。便器に落ちた白い精液が渦を巻きながら流されていく有様を」
「自分で流したんでしょ」
凛太郎は脱力した声を出す。
恭介の大げさな言い回しに全身で付き合うと疲れてしまう。
「俺はそれを見ながら、自分自身がトイレで流されていくような心の苦しみを味わったんだ。せめて、トイレットペーパーに出して、包んで流せば良かった」
「あまり、変わらないと思うけど」
「気持ちの問題だよ。俺は、今、自分自身に対する罪悪感でいっぱいなんだ」
「要は賢者タイムに入ったってことだね」
「そうかもしれない」
そう言って放った恭介の一手が絶妙で、凛太郎は思わず唸った。
「負けました。何だか、別人のような強さだったよ」
「今度、大事な試合の時は直前に四丸しようかな」
それこそ精子をぞんざいに扱っているように凛太郎は思ったが、恭介が満足そうなので黙っておいた。
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