第112話 麻実の進む道

 ノックをしてドアを開けた。


 麻実は机に向かって手を動かしている。

 勉強だろうか。

 でも、さっき、受験はやめたって言っていたが。


「何?」


 麻実は鉛筆を持って、こちらを振り返る。


 凛太郎は静かにドアを閉めて、そのドアにもたれた。


「本当なの?」

「何が?」

「だから、受験やめたことだよ。母さんは知ってるの?」

「知ってるよ」


 麻実は平然と言った。「こないだ補導されたときに、しっかりと話し合ったの」


 そうだったのか。

 知らなかったのは自分だけだったのかと思うと凛太郎は何となく寂しいような、悔しいような気持ちになった。


「受験せずに、何するの?」


 大きなお世話だとは思った。

 だけど、二人きりのきょうだいで、三人だけの家族だ。

 姉が将来に向けて進む道を聞いておきたかった。

 それに、受験をしない選択肢を選んだその勇気、度胸はどこから来るのか知りたかった。


 凛太郎はどこかはまだ決めていないが大学には進学するつもりだ。

 だが、何故大学に行きたいのか、その理由として胸を張って言えるものが見当たらない。

 何となくキャンパスライフというものに憧れがあるから。

 凛太郎の高校は大抵の人が大学に進学しているから。

 大卒という学歴があった方が将来役に立つと思うから。

 そして、何より人生の選択を四年間先送りしたいから。

 こういった、どちらかと言えば、大学で学ぶという本質的なことから外れた、消極的な理由が凛太郎の大学進学の動機だ。


 しかし、一つ年上の麻実はもう人生の進むべき道を選択しようとしている。

 そんな大げさな、と麻実は笑いそうだが、凛太郎にとっては大学進学を選択しないことが、人生においてかなり重要な選択だと思ってしまう。

 麻実は何を選択したのか。

 何故、選択したのか。

 それを聞いておきたかった。


「専門学校に行くの」

「専門学校?」

「マンガとかイラストの専門学校。そっちが私の生きる道だって決めたんだ」


 私の生きる道。

 そう言い切った麻実は凛々しかった。

 急に大人びて見えた。


「へ、へぇ」

「だから、大学受験はしない。残りの高校生活はバイトで稼ぎまくって、絵を描きまくる」

「バイトって、それって……」


 また、父親のためなのか。

 東南アジアへ行っても、金の無心は続いているのか。

 「バイト」と聞いて凛太郎が感じた恐怖の原因はそれだった。

 麻実が凛太郎の手の届かない底なし沼に囚われてしまったような気がしてならない。


「専門学校もお金がかかるのよ。イラスト描く道具も馬鹿にならないし。今のうちに少しでも貯めとかないとね」


 確かに学費問題は奥川家の大きな壁だ。

 凛太郎も進学に当たって、そこは避けては通れない。

 私立の大学は選択肢には入らない。

 奨学金の利用は絶対だ。

 だけど……。


「そういうこと?本当にそれだけ?」

「何、何、何」


 麻実が立ち上がって、近寄ってくる。

 眼前に立ち、両手で凛太郎の頬を挟む。「お姉ちゃんの言うことが信用できないの?」


 立ち位置を誤った。ドアを背にもたれていたので、狭い部屋では逃れようがない。

 凛太郎はされるままに麻実を見つめた。


「はっきりさせておきたくて」


 麻実だけに辛い思いはさせられない。

 父親の問題があるのなら、きょうだいとして凛太郎にも背負うべき荷物があるはずだ。


 麻実は穏やかに微笑んで、凛太郎の肩に額を預けた。


「あの人のことは心配いらないよ。きれいさっぱり別れたから、……って何だか元カレみたいな言い方になっちゃった」


 麻実はクスクス笑う。


「じゃあ、僕のため?」


 凛太郎が大学進学するために麻実は比較的費用が掛からず、卒業も早い専門学校を選んだのではないか。

 そういうことで麻実が大学進学を諦めたのであれば、凛太郎は責任を感じてしまう。


「そう。凛ちゃんのためでもある」

「ええ?そうなの?そんなの困るよ」


 慌てた凛太郎を麻実が「困らないよ」と笑う。


「凛ちゃんのためでもあるし、母さんのためでもあるし、そして何よりも私のため」

「どういうこと?」

「私、マンガ描くのが好きなんだ。好きなこと、一つのことに集中して短期間でスキルアップしようと思ったら大学より専門学校っしょ」

「それは、そうかも、だけど」


 麻実の言うことは正論だと思った。

 専門学校を卒業するときに、どういう道が先にあるのかは分からないが、麻実ならどんな険しい道であってもへこたれず突き進んでいきそうな、凛太郎には真似のできない強さがある。


「私にとってのベストの選択で、学費も少なくて済むし、私自身が充実して楽しく過ごせれば、凛ちゃんも、母さんもハッピーでしょ?」


 ね。困らないでしょ。

 そう言って笑い飛ばす麻実には本当に敵わない。


「うん……」

「もう、凛ちゃんは可愛いなぁ」


 麻実は息遣いも感じられる距離で凛太郎を見上げた。

 急に顔が近づいてきたかと思うと、頬にキスをした。


「え……」


 戸惑う凛太郎をからかう笑顔でサッと体を離した麻実は腕を組んで凛太郎を睨んだ。


「凛ちゃんは大学に行きなよ。私と違って、頭良いんだから。それが凛ちゃんの進むべき道」

「あ、……うん」

「分かったら、この話はおしまい。邪魔だから、帰った、帰った」


 凛太郎を反転させ、背中を押す麻実の手が温かかった。

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