第111話 女子にばっかり
「キナコって言うんですか。可愛い名前ですね」
キナコは相変わらずの元気っぷりで、リードを持つ恭介を引っ張るように先頭をズンズン歩く。
スタバまでの道を知っているのか、堂々とした歩きっぷりだ。
「父親の新しい彼女の犬なんだ。その人、こないだ階段踏み外して捻挫しちゃってさ。キナコの散歩に行けなくなったわけ。それで、まあ、俺が父親から一回千円でバイトさせられてるってこと」
「一回千円なら、私、喜んでやりますよ」
歩美が言う通り、なかなか魅力的なアルバイトだ。
「残念ながら、これは俺のバイトなんだよ」
恭介は得意げに笑う。
「新しい彼女って、引っ越しのきっかけになった人のこと?」
次から次へと。
本当に、すごいとしか言いようがない。
「あー。あれはもう既に過去の話。今は、その次だな」
「恭介君のお父さんって、ほんと、すごいよね」
すごいとしか形容できない。
凛太郎には到底真似できない芸当だ。
「もう、俺もそれは認めることにした。あの人、その点に関しては俺の父親とは思えないわ。ファンタジーの世界の人だな。きっと悪魔の実でも食べたんだよ。あんなに女が寄ってくるなんて、普通じゃないもん」
「そんな悪魔の実があったら、私も食べたいです」
「食べたら、何かを犠牲にしなくちゃいけないよ。泳げなくなるとか」
「もともとそんなに泳げないんで、構いませんよ」
ぺちゃくちゃ喋っている間に、本屋が見えてきた。
「俺、中でキナコの飼い主のコーヒーとみんなのジュース買ってくるから、キナコを見ててくれない?」
「私も『将棋の道』を見たいんです」
そういうことで、凛太郎が本屋の駐車場でキナコのリードを持つことになった。
こんな大きな犬と二人きり。
凛太郎は不安で仕方なかった。
キナコが暴れ出したら、僕に止められるだろうか。
人に嚙みついたら、どうしよう。
さっきみたいに、近づく女子に急に突進して股間に鼻を差し込もうとしたら……。
凛太郎の不安を察してか、地面にどっしり座るキナコが、こいつ、大丈夫かな、という感じの目で見上げてくる。
安心しろよ、大人しくしてるからさ、という顔にも見える。
「あー。ワンワン」
「ほんとだ。可愛いね」
母親に手を引かれた幼児がキナコを指差して歩いていく。
キナコは特に愛嬌を振りまくでもなく、じゃれつくでもなく、泰然と入口の方を見ている。
近くを人が歩いても全然吠えることはない。
大型犬はむやみに吠えることはないということか。
少し安心し始めたところで、キナコがむくっと立ち上がった。
ウォン、と一つ吠え、凛太郎を引きずって歩き始める。
「どうした?キナコ」
凛太郎は急に不安になってキナコが目指す本屋入口の方を見た。「あ!」
「あー。ほんとだー」
本屋から出てきたのは麻実だった。
スタバの緑のエプロンをしている。
後ろに恭介と歩美も付き従っている。
「どういうこと?」
どうして麻実が?
凛太郎はキナコに引かれるがままに麻実に近づいて行った。
「うわぁ。可愛い。おっきい犬ね。キャッ……」
キナコは麻実が近づいてくると一気に足に力を込め、突進するように麻実の股間に鼻を埋めて行った。
「あ、こらっ!キナコ!」
恭介が凛太郎からリードを奪い、麻実からキナコを遠ざけようとする。
麻実も慌てて、後ろに体を引いて、キナコと距離を取る。
恭介に引っ張られながらも、キナコは宙に浮いた前足を、おいでおいで、するように掻く。
「さっき、私もやられたんですよ。こいつ、女子にばっかりやるんです」
確かに、歩美が言う通り、キナコは凛太郎の股間には興味がなさそうだ。
「犬まで魅了しちゃってるのかな、私ったら」
麻実は照れたように自分の髪を撫でる。
「って言うか、ここで何やってんの?まさか……」
麻実は受験生だ。
高校三年生の秋にバイトを始める奴がいるか。
「バイトだよ。このエプロン見たら分かるでしょ」
やっぱり。
麻実の口から「バイト」という言葉を聞いて身震いする。
ゾワゾワとした恐怖感に足元がぐらつく感じがある。
「バイトなんかしてていいの?受験生だろ」
「私、受験やめたんだ」
「はぁ?」
「じゃね」
麻実は「私、忙しいから」と片手をあげて、踵を返し、颯爽と店内に戻って行った。
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