第110話 無理やり犯された気分

「悪い。俺、ちょっと用事あるから今日はこれで」


 恭介がいきなり立ち上がり、リュックを背負う。


 時刻はまだ四時半。

 いつもは六時ごろまで部室にいるのだが。


「えー。もう帰っちゃうんですか。つまんないなぁ。用事って何ですか?」


 歩美が口を尖らせる。


「用事は用事だよ。それ以上でも、それ以下でもない」


 恭介は答えになっていない答えを残して、本当に部室から出て行ってしまった。

 歩美と一緒の時間を削ってまでしてこなさないといけない用事とは何なのか。

 凛太郎も気になったが、そんな用事を抱える恭介が不憫でもあった。


 恭介がいなくなり、静かな部室で凛太郎と歩美は寡黙に将棋を指した。

 熱戦になった。

 互いに集中力を限界にまで発揮して、目の前に広がる九×九のマスに没頭した。

 結果、僅差で凛太郎が勝ったが、勝者も敗者もないぐらいに二人は疲れていた。


「もう一戦……できる?」

「奥川先輩はどうですか?」

「やっても凡戦になると思う」

「ですよね」


 五時半。

 将棋に疲れても部室で三人なら他愛もない話に興じることもあるが、それは部室だとお喋りな恭介がいてこそのことで、歩美と二人では何を話して良いか分からない。

 凛太郎が「帰ろうか」と促すと、歩美も同意した。


「時間があるので本屋に寄って行っていいですか?今月の『将棋の道』、見たいんで」


 本屋は学校から凛太郎の家までの丁度真ん中ぐらいにある。

 二人は並んで歩いた。


 歩美と二人で歩いていると、これを恭介に見られたら嫉妬されるかなと考えてしまう。

 すると凛太郎は余計に緊張して何を話したら良いか分からない。

 歩美となら一緒にいても緊張しなくなったはずなのに、変に意識してしまうのは、先日恭介の気持ちを知ったから。


「恭介先輩って……」

「え!」


 歩美の口から恭介の名前を聞いて、必要以上に驚いてしまう。


「びっくりしたぁ。急に大きな声で、何ですか?」

「ごめん、ごめん。何でもない。恭介君が何?」

「あー、えっと、あ、そうそう。恭介先輩って何の用事なんだろうなって思って」

「確かに何だろうね。珍しいよね」


 そのことは気になっていた。

 恭介が用事で部活を早めに切り上げるなんて今までなかったことだ。

 そんな風に考えていたら、道の角から金色の毛の大きな犬がヌッと現れた。

 ゴールデンレトリバーだ。

 元気にリードを引っ張る感じで歩道を闊歩かっぽしている。


「恭介先輩!」


 歩美の声に飼い主がビクッとする。

 丁度西日で逆光になっているが、確かにそれは恭介だった。


「あれ?どうしたの?これ、恭介君の犬?」

「あちゃー」


 恭介は見られたくなかったという感じで顔をしかめる。「君たち、まだ部活の時間でしょ。しっかり練習しないと駄目じゃないか」


「真剣にやったら疲れちゃって。恭介先輩がいないとつまんないし」

「そ、そう?やっぱ、そうなる?」


 いつもの歩美の小手先の話術だが、恭介はすぐホクホク顔になる。


「おー。よしよし、可愛いね」


 人懐っこい犬が歩美の手をクンクンしながら尻尾を振る。「名前、何て……。お?おいおい。ちょっとぉ」


 歩美の手に鼻を擦りつけていたゴールデンレトリバーは、急に勢い良く直進して歩美の股間めがけてスカートに顔を埋めて行った。

 民家の塀を背にした歩美に逃げ場はなく、ゴールデンレトリバーの鼻先は見事に歩美の股間に埋まっている。


「うわっ!おい。こらっ。キナコ!やめろって」


 恭介が懸命にリードを引っ張り、何とか歩美の股間から引き離す。


 歩美のスカートは犬の鼻水なのか唾液なのか分からないもので染みができていた。


「公衆の場で、こんな辱めを受けるとは……」


 いくら歩美でもこの仕打ちは堪えたらしい。

 顔を赤らめて、しゃがみ込む。


 こういう場合に凛太郎は無力だ。

 掛ける言葉は見当たらず、ただ茫然と突っ立つだけ。


「ごめん、歩美。大丈夫だった、……わけないな」

「何だか、無理やり犯された気分です」

「すまん。でもな、歩美。これは犬としては当然の行為なんだ。犬は相手の犬のお尻のにおいを嗅ぐのがコミュニケーションの一歩目。においをインプットできたら、次からは友達になれるわけ。だから、これで歩美とキナコは友達だ」

「そんなことで騙されませんよ。私のこの喪失感は一生もんです」

「そっか。じゃあ、一生かけて償うよ」


 え?

 さりげなく今、プロポーズした?

 凛太郎は一言も発しない傍観者の立場ながら、急にドキドキする。


 恭介は平然とした表情だが、実際のところどうなのだろう。


「そんな大げさな償い、要りませんから、アイスかジュースおごってください」


 歩美は現金だった。

 あーびっくりした、と立ち上がった歩美は懲りずに犬に手を伸ばす。

 さすがは歩美だ。「で、この犬は何ですか?」


「キナコは俺の犬じゃなくて、ちょっと訳ありで……」


 恭介はキナコのリードを短く持って、二度と同じ過ちを起こさないようにしている。


 歩美はキナコの背中を撫でながら「訳あり?」と訊ねる。


「話せば長いんだけどな。でも、もうここまで来たら喋っちゃうか」

「喋っちゃおう。喋っちゃおう」


 歩美の表情に笑顔が戻る。


「じゃあ、俺、今からスタバに行くから、そこでジュースおごるわ」

「あ。奇遇ですね。私、部活が早めに終わったから本屋に行くとこだったんです」


 近くの本屋は大きくて、建物の中にスターバックスが入っている。

 三人と一匹は本屋を目指して一緒に歩いた。

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