第108話 あっけない別れ
ドアが閉まる音がした。
こういうことが前にもあった。
凛太郎は目をパチッと開く。
胸がざわざわする。
布団から起き上がり、時計を見る。
十二時を少し回ったところだった。
凛太郎はスマホを持って、廊下に出た。
スマホの明かりで玄関を確認する。
やはり麻実のスニーカーがない。
そして、鍵がかかっていない。
間違いない。
麻実はあいつに会いに行った。
凛太郎の心は途端に怒りの色に染められた。
かつて、こんなに憤りを感じたことはないかもしれない。
麻実は受験生だ。
そして、か弱い女子高生だ。
そんな麻実をこんな時間に呼び出すなんて非常識にも程がある。
また金の無心だろうか。
だとしたら、きっちりと言ってやるべきだ。
コンビニの募金箱にいれる金はあっても、あんたに渡す金は一円もない。
姉貴はあんたの金づるじゃない。
凛太郎は音を立てないように慎重に外に出た。
働きづめで疲れている母にだけは気付かれてはいけない。
母に心配を掛けるようなことになってはいけない。
夜の道に目を凝らすと、遠くにピンクのジャージを着た麻実のシルエットがあった。
か細い。
闇に吸い込まれてしまいそうなか細さだ。
姉ちゃん!と呼びたくなる。
危ないから帰ろう、と手を引きたくなる。
だけど、静かに後ろをついて行く。
あいつに会わなきゃ、いつまで経っても終わらないから。
麻実はあのファミレスに向かっているようだ。
ポケットには金が入っているのだろうか。
補導されてからはバイトはしていないはずだ。
帰りの時間が遅いことはまだあるが、それは図書館で勉強をしていると麻実は言っていた。
もしかしたら、また別のバイトをしているのかもしれない。
あと数か月で受験なのだから、勉強に集中すべき時なのに。
ファミレスの看板が見えてきた。
凛太郎の背中にゾクッと冷たい緊張感が走る。
急に足が重くなる。
言えるだろうか、自分に。
守れるだろうか、姉を。
麻実は駐車場で立ち止まった。
男が立っていた。
あいつだ。
間違いない。
二人で何かを話している。
麻実がジャージのポケットに手を入れる。
凛太郎は走った。
麻実を止めなくては。
そのために来たんだ。
今日で終わりにさせるんだ。
「姉ちゃん!」
麻実がこちらを振り返る。
そして、驚いた様子を見せずに、「よっ」という感じで手を挙げる。
「あれ、凛太郎か」
「うん。やっぱり来たね」
あれ。
何だろう、この感じ。
やっぱり、ってどういうことだろう。
でも、もう後には引けない。
「姉ちゃん。帰ろう」
駆け寄って、麻実の袖を引く。
「凛ちゃん。あのね……」
「へ、変だよ。も、もう、他人なんだ」
麻実に言ったのだが、男に向けた言葉だった。
「他人じゃないよ。……他人じゃない。血は繋がってるんだから」
凛太郎は驚いて麻実を見つめた。
麻実が男のことをかばう発言をしたことが信じられなかった。
「だったら、お金なんて……」
凛太郎は初めて男を正面に見た。「おかしいじゃないか!」
「すまん。凛太郎。申し訳なかった」
男は柔和な表情で凛太郎に詫びの言葉を発した。
ファミレスの店内からのぼやっとした明かりで見る男の顔や声に凛太郎は何の懐かしさも感じなかった。
父親の記憶は凛太郎には曖昧にしか残っていない。
「謝るのは姉ちゃんにだ」
麻実がどれだけ頑張って稼いだ金だと思っているのか。
母や学校に叱られながら、何であんたなんかのために働かなくちゃいけないのか。
「悪かったな、麻実。迷惑をかけた」
麻実はチラッと凛太郎を見てから、小さく首を横に振った。
「私は大丈夫」
「凛太郎」
男は一歩後ろに下がった。「今日で、最後なんだ。もう終わりにするから、安心してくれ」
「え?」
凛太郎は麻実の顔を見た。
こんなに簡単に話がつくとは思ってもみなかった。
「お父さん」
「麻実。凛太郎。今日はありがとう。元気でな。母さんのこと、頼む」
男はゆっくり、後ろ足で遠ざかると、スッと背中を見せて足早に闇に消えていった。
「お父さん!」
父親を見送る麻実の顔が歪んだ。
幼い頃、父親が家を出て行った時には泣かなかった麻実が涙ぐんでいる。
凛太郎は何かとんでもないことをしてしまった気がして、鳥肌が立った。
「姉ちゃん?」
「凛ちゃん……」
麻実は父親が去った方角を寂しそうに見つめ続けた。「お父さん、外国に行くんだって。東南アジアって言ってたけど、どこの国かは教えてもらえなかった」
「東南アジア?」
「もう、迷惑かけないからって。最後までそれだけで……」
「そっちで暮らすってこと?」
「だから、今日は凛ちゃんの部屋の前で少し物音を立てたの。凛ちゃんは怒るかもしれないけど、もう機会がないかもしれないから、凛ちゃんにお父さんを見ておいてもらった方がいいと思って。どこか遠くへ行っちゃうお父さんにも大きくなった凛ちゃんを見ておいてほしかったし」
ごめんね、と謝る麻実に凛太郎はしばらく何も言えなかった。
「姉ちゃん」
「ん?」
「姉ちゃんは怒ってないの?あの人のこと」
「怒ってるよー。すごく」
やっと麻実は笑って、凛太郎を見た。そして、凛太郎の肩に額を当てる。「でも、正直言って、寂しいんだ。情けないことに、寂しいの、今、ものすごく」
凛太郎は麻実の肩にそっと腕を回した。
恥ずかしくて、ファミレスの方には顔を向けられない。
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