第96話 それぞれの初戦
「くそーっ!」
反町の悔しそうな呻きが響く。
それで、急に凛太郎の思考が動き出した。
盤を見ると、矢倉棒銀で相手陣の上部に取り掛かるところだった。
相手は振り飛車美濃囲いで、角行が陣の外に顔を出し、こちらの飛車の動きをけん制してきた。
駄目だ、駄目だ。
集中しないと。
凛太郎の頬を一筋の汗が伝う。
一手目に角道を開くための歩を突いた後は記憶がない。
時計を見ると、まだ始まって十分ほど。
良かった。
体に染みついた感覚だけでろくに考えもせずに指していたようだが、盤上に明確な有利不利は生まれていない。
ここからが勝負だ。
あれ?
反町は十分で負けたということか。
早すぎるだろ。
「反町先輩、ドンマイです」
応援席からひかるの大きな声が届く。
「ありがとう!檜山!」
反町が立ち上がってひかるに両手を振り、係員に「静かに。終わった人は会場の隅に移動して邪魔にならないように待機して」と注意される。
凛太郎は自分が注意されたかのようにヒヤリとした。
「恥ずかしい奴だ」
隣の歩美が舌打ちする。
足元に目を落とすと、何かが小刻みに揺れていた。
歩美が貧乏ゆすりをしているのだ。
まずい、と思った。
貧乏ゆすりは歩美が劣勢になってきたときに起こす仕草だ。
歩美も本調子ではないらしい。
まだ緊張が解けていないのかもしれない。
自分が頑張らないと。
まずは弱いはずの角頭に歩を伸ばそう。
次に、相手玉に近い香車と桂馬で端攻めをするぞと匂わせる。
飛車を一段下に引いて、縦横に動けるようにする。
大局を捉えて、少しずつ相手を圧迫するんだ。
しかし、敵もさる者。
歩を交換して、すぐに垂らしてきた。
と金を作られるのは、厳しい。
何とか受けなければ。
ジリジリとした中盤戦に移行してきた。
相手は弱くない。
しかし、凛太郎も一気に集中度を増していた。
相手のことを意識せず、その駒の動きだけに着目する。
こう来たら、こう返す。
しっかり手が見えている自覚がある。
大丈夫だ。
そう思っていたときに、近くで集中が解けたような空気の流れがあった。
小さくささやくような声で「負けました」と聞こえた。
右手に目をやると、永田さんが一礼している。
勝負が終わったのだ。
永田さんの相手の俯いたままの頬が真っ赤だ。
永田さんは姿勢を崩さず、泰然とまっすぐに盤面を見つめ、係員が記録するのを待っている。
どうやら永田さんが勝ったらしい。反町が負けたのは早すぎだが、永田さんもこの時間で勝ち切るとは強すぎる。
頼もしいし、負けていられない気持ちになる。
「これで、どうかなぁ」
ボソッと呟きが聞こえた。
恭介だ。
自問自答で思わず声に出てしまったという響きではない。
明らかに相手に聞こえるように、相手を圧迫するように呟いた感じがする。
チラッと恭介の方の盤面に目をやると、恭介が優勢だった。凛太郎の頭には恭介の相手の玉に迫る道筋がはっきりと浮かんだ。
恭介がそれに気づいているかどうかは分からないが、一気に行くのではなく、一手一手、相手が苦しむように差し回している。
恭介のサディスティックな部分がそこに現れていた。
凛太郎は思わず相手に同情してしまう。
パチリと駒が置かれる音がして、凛太郎は視線を正面に戻した。
目の前の将棋に集中しないと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます