第92話 辛島花蓮(その2)

 麻実は凛太郎のベッドに飛び込んで座り、「将棋よ。将棋」と言った。


「将棋?」

「だから、花蓮ちゃんは星城高校の将棋部だって言ったでしょ。ひょんなことで知り合ってね。凛ちゃんも将棋部だから丁度いいと思って。花蓮ちゃん、将棋の練習?もっとしたいんだって。だから、凛ちゃん、相手してあげなよ」

「え?そんな、何を勝手に」

「お願いします」


 立ちすくむ凛太郎に向かって花蓮が頭を下げる。「うちの将棋部、本当に弱いんです。私、もっと強くなりたくって」


「ほら、ほらぁ。可愛い女子がお願いしてるんだよ。やってあげなさいよ。別に、エッチなことしろって頼んでるわけじゃないんだからさ」


 麻実の言葉に、さすがに花蓮も頬を赤らめる。


「何、馬鹿なこと言ってるんだよ。辛島さんが困ってるだろ!」

「おーこわっ。だったら、凛ちゃん、後はよろしくね」


 麻実はひらりと立ち上がって、ドアを開ける。


「あっ。ちょっと」


 いきなり二人きりにされるのも困る。

 凛太郎は麻実を追いかけた。

 しかし、目の前でドアは閉められ、向こうから麻実の楽しそうな声が響いた。


「私、ちょっと用事あるから出かけてくるね。後は若い二人でよろしくやって」


 麻実は行ってしまった。


 恐る恐る振り返ると、花蓮が申し訳なさそうに指をもじもじして凛太郎の方を見ていた。


 どうしよう。

 何を話したら良いのか。

 喉が渇いて仕方ない。


「これ……」「ちょっと……」


 二人が同時に口を開いて、言葉が重なってしまった。


「あ、どうぞ」

「いえ。辛島さんこそ、どうぞ」

「いえいえ。部屋の主の凛太郎さんからどうぞ」

「あ、うん。ちょっと、喉が渇いたから、ジュース取ってこようかと思って」

「はい。分かりました」

「辛島さんは、何でした?」

「あ、その……。これ。このブレザー。お姉さんの、麻実さんのなんです」

「え?姉貴の?」


 花蓮が恥かしそうに頷く。


「麻実さん、先ほどお電話されてたんですけど、クリーニング屋さんに行かれたんだと思います。私、そこの角で麻実さんとぶつかってしまって。そうしたら、麻実さんが持っていらっしゃったアイスが私の制服にべっとりと……。それで麻実さんが制服貸してくださって」

「うわっ。マジですか。ほんっと、ごめんなさい。姉貴、そそっかしいんで」


 近所に古くからやっているクリーニング屋がある。

 そこへ持ち込むのだろう。


「いいんです。私の方こそ、初対面で図々しくお部屋まで上がってしまって、申し訳ありません」


 花蓮はちょっと横目で机の横の棚を指差した。「これって将棋盤ですよね?」


「ま、まあ」

「麻実さんが戻って来られるまで、お手合わせをお願いできませんか?」

「……はい」


 凛太郎は湯気が出そうなぐらい熱い体を持て余して、逃げるように部屋を出る。

 キッチンの冷蔵庫の前で何度となく深呼吸を繰り返す。

 冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、コップに注ごうとして、手が震えていることに気付く。

 凛太郎は一旦ジュースを置いて、流しで顔を洗った。

 冷たい水が、暴れる心を落ち着ける。

 少し冷静さを取り戻して、凛太郎はコップ二つを手に自分の部屋に戻った。


 制服の女子高生が座っていた。

 膝の前に将棋盤。

 綺麗に駒が並べられている。

 正座でこちらを見上げる花蓮は美しかった。

 将棋盤。

 花蓮。

 広がる制服のスカート。

 その清楚なたたずまいが額縁の中の絵のように、収まり良くそこにあった。


 パズルの最後のピースのように凛太郎は自然と花蓮の向い側に座った。

 ジュースを脇に置くと、まさに阿吽あうんの呼吸で互いに一礼して対局を始めた。

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