第91話 辛島花蓮(その1)

 家の玄関を開けると女性用のローファーが二足並んでいるのが目に入って凛太郎は「ただいま」と言いかけた口をつぐんだ。

 麻実のものと、もう一足。つまり、麻実の友人が家に来ているのだ。


 ツヤツヤに磨かれたそのローファー自体は感じが良い。

 しかし、人見知りの凛太郎にとって、見知らぬ人と顔を合わすのは、それだけで苦痛だ。

 凛太郎は静かにドアを閉め、抜き足差し足で廊下を滑るように歩いた。

 自分の部屋のドアに手を掛ける。

 この中に入ってしまえば、こっちのものだ。


「あっ!帰ってきた。おい、待てっ!凛ちゃん」


 麻実の声が廊下に響いて、凛太郎はドキッと硬直し、次の瞬間思い切り脱力した。

 何故かは分からないが、麻実は凛太郎が帰ってくるのを今や遅しと待っていたのだろう。

 だとすれば、気づかれずに部屋に入ることなど不可能だったわけで、抜き足差し足は何だったのかと徒労感に両肩が重い。


「何?」


 わざと面倒くさい感じを乗せた声でそう言って顔だけを麻実に向けると、麻実のすぐ後ろに、やはり見知らぬ銀縁メガネの女性が立っていた。紫外線を避けて生きてきたのかと思わせるほどの白い肌が印象的で、ギャル感の強い麻実とは対照的に淑やかで落ち着いた雰囲気が漂っている。

 二人は同じブレザーなのだが、ボタンやリボンがざっくりゆるゆるの麻実ときっちりビシッとした彼女のギャップがすごい。


「何、じゃないよ。帰ってきたら、『ただいま』ぐらい言ってくれないと、せっかく待ってたのに悲しいじゃない」


 いつもは凛太郎の「ただいま」にろくに返事もしないくせに、と少しムッとする。


「こんにちは。お邪魔しております」


 麻実の後ろにいた女子高生が丁寧に凛太郎に頭を下げる。

 その拍子に黒髪のポニーテールが大きく揺れた。


「あ、どうも」


 凛太郎にはこれが精いっぱいだ。

 無視して部屋の中に入り込んで閉じこもるという行動に出なかっただけでも褒めてほしいぐらいだ。

 しかし、麻実には通用しない。


「だーかーらー。ちゃんと挨拶ぐらいしなさいっての」


 麻実が凛太郎に飛びかかってきて、「この、この」とヘッドロックをギリギリと決める。

 弾力に富んだ胸が凛太郎のこめかみに押しあたっても麻実は気にする様子がない。


「やめろ、やめろって」


 凛太郎が叫ぶように言うと、スッと腕を外し、麻実は細い銀縁のメガネの女性に向かって手を広げた。


「こちら、辛島花蓮ちゃん。星城高校二年生で将棋部なの」


 紹介された花蓮は凛太郎に向かって「初めまして。辛島です」と深々とお辞儀した。


 仕方なく凛太郎も「どうも。こんにちは」とモゴモゴとした返事をする。


 それで時間が止まったかのように静寂が訪れ、居心地の悪さに耐えきれず凛太郎は自室に逃げ込もうとする。


 が、再び麻実に「話は終わってないんだよー」とヘッドロックされる。


「話って何?ってか、やめろって」

「わざわざ家まで来てくれたんだぞ!そんな態度があるかぁ!」


 オラオラと頭を締め付ける度に強く麻実の乳房が押し当てられ、こんな状態を初対面の女性に見られているかと思うと、凛太郎はのぼせて失神しそうになる。もういっそ気絶したい。


 クスクスと笑い声が聞こえてきた。


 それで麻実の腕の力が緩む。


「仲がよろしいんですね」

「そんなことないよ。いっつも、凛ちゃんは冷たいんだから」


 ね、と麻実が肩をぶつけてくる。


「別にそんなつもりないけど」


 凛太郎は乱れた髪や服を直しながら、ぶつぶつと言い返す。


「羨ましいです。私、一人っ子だから、こういうきょうだいの関係に憧れます」

「そう?じゃあ、これから花蓮ちゃんも私たちのきょうだいになればいいよ。あ。凛ちゃんの彼女の方がいいかな」

「な、何を……」


 凛太郎の顔がさらに赤らむ。

 もうこれ以上は耐えられない。

 凛太郎は素早くドアを開け、部屋の中に逃げ込んだ。

 ドアを閉めようとすると、反対側から麻実がドアノブを掴んで閉めさせてくれない。


「まだ、話は終わってないの」

「話って何だよ」

「こんな状態でゆっくり話なんてできないでしょ」

「ゆっくり話をするつもりはない」


 凛太郎と麻実はドアノブを引っ張り合いながら、言葉をぶつけ合った。


「花蓮ちゃん。今のうちに中に入って。ほら。ほら、早く!」

「え?え?あっ……、はい」


 麻実にせかされて、花蓮は「お邪魔します」と凛太郎の部屋に進入した。


「え?ちょ、ちょっと」


 凛太郎は花蓮を止めようとしたが、花蓮の体に触れるわけにもいかず、目で追うことしかできなかった。「な、何ですか?何か、ご用?」


 花蓮に気を取られ、凛太郎の力が緩んだところで麻実も部屋に入ってきてしまった。

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